いまこそ、プリミティブ論
情報化社会において、欲しい情報はすぐに見つけ出すことができる一方、
そのリテラシーの弊害も多く、何が正しくて何が正しくないのか?
その見極めも非常に難しくなっているように思えます。
もちろん、多様性は歓迎しますが、それ事態の質の低下が著しく、素人(わたしもですが)が、あたかも正論のように語る世の中に対し、危険性も感じるわけです。
そこで私は常に最後は根源的な部分に立ち返る、そう決めています。
その根源的とは何か?と言いますと、人間としての本質とでも言い換えられましょうか、
自然が作り出した人間の普遍的価値とでも言いましょうか、
少なくとも表面的、衝動的感情に流されたものではのだと思うわけです。
現在、政治の右往左往をみていると、政治家が悪いと思われる方も多いと思いますが、その政治家を選んでいるのは我々国民であることは疑いの余地もないわけです。
では、なぜそんな政治家を選んでしまうのか?
それは一部の脆弱な情報を鵜呑みにし、それを信じ込んでしまうことで、自分は正論を言っていると思い込んでしまうわけです。
なにもこれは政治の話だけではなく、男女の関係、社会生活を送る上での問題なども同じようなことが起きているように思えるのです。
今日も朝の番組で不妊の話がありましたが、これも世の中があまりにも表面的すぎた結果の弊害ではないかと思うのです。
それは避妊の仕方を教えても、不妊は教えない。
女性の社会進出のメリットは教えても弊害は教えない。
男女の平等は訴えても性差の違いは訴えない。
ですから、私は今こそ、人々が根源的に立ち返り、本質的、普遍的思想を持ち、議論すべきだと思うわけです。
官僚、公共事業は悪なのか?
民主党が政権を取った三年前、「コンクリートから人へ」「政治主導」このスローガンを掲げ、
多くの国民がそれを支持してきました。
汗水垂らしながら、微々たる金を稼ぎ、不況となれば身を削って耐えるしか無い、そんな一般市民にとってはたしかに、これらの言葉は非常に耳障りの良いものです。
そしてその背景には、「無駄な公共事業」「官僚統治」に対する憤りがあったというのも事実でしょう。
しかし、これらは本当に真実だったのでしょうか?
私はそこにおおいに疑問があります。
まず、この国はバブル崩壊後、20年以上の間、デフレ不況に苦しんでいます。
その間、小泉政権下においては、「改革には痛みが生じる」と言って、緊縮財政を実施してきました。
いわゆる、大きな政府から小さな政府への転換とも言えます。
それによって公共事業は大幅に減らされ、規制緩和が行われました。
結果、そこには大きな痛みが生じました。しかし、どうでしょうか?私たちは痛みだけを感じ、その後に喜びを得たでしょうか?
今なお続くデフレ不況が真実を物語っています。
それは緊縮財政ではデフレを脱却できないという証明でもあります。
それでもマスメディアは「公共事業は無駄だ!悪だ!」と発信し続け、国民を騙し続けています。
それによって、必要な景気対策、公共事業は行えずに、冷めたみそ汁がより冷めてしまいました。
これでもまだ公共事業は必要ない、無駄だ、悪だと言えるのでしょうか?
実は財政出動(公共事業の促進)というのは、インフレ下では熱を与えすぎますが(バブル)、デフレ下においては、冷めすぎたみそ汁を温める役割(景気回復)があり、当然ながら、悪とか、無駄だとかそういった議論は本来、まったく論点が違っているわけです。
それなのにも関わらず、未だにマスコミは「公共事業悪」の大合唱。どうやらマスコミはこの国の経済を良くしようとは思っていないようです。
また、官僚統治への批判もしかりです。
もしも、この国が官僚統治出来ていなければ、どうなっていたでしょうか?
現在、毎年総理がコロコロ変わり、閣僚などは下手をすれば月変わりするような政治体制なのです。
そんな政治が主導して、本当にこの国の国益が守られるでしょうか?
答えは当然NOであります。
しかし、そんな当たり前のことをなぜ、人々は理解出来ないのでしょうか。
それは選挙とは関係のない官僚システムが民主主義と相反するものだからです。
言い換えると、民衆からすると(政治家もそうですが)仮想敵にしやすい、都合のいい対象だったとも言えます。
もちろん、官僚が全て国益のために動いているか、という事に対しても疑問はありますが、少なからず、官僚ありきのこの国であることは、なんの疑いもありません。
そこを踏まえれば、今、公共事業は悪なのか、官僚は悪なのか?必然的に答えは出ると思います。
マスメディアの偏向、偏狭報道に惑わされる事無く、情報リテラシーをしっかり持った日本国民であって欲しいと願うばかりです。