富士山は古くから「末広がり」の美しい姿を見ることで「ふじ=不死」になれる縁起の良い山であるとされ、特に江戸時代には富士山に登ることが大ブームとなりました。それだけに「富士山の見える限界点」は競い合いとなり、北限は長らく福島の二本松の日山(1,054m)とされていました。これに対して平成28年11月に、同じ阿武隈山地で日山より約10km北の福島県川俣町の花塚山(919m)で富士山の撮影に成功し、記録が更新されました。
ところが江戸時代の史料では、富士山の見える北限は宮城県にあったのです。
幕末の思想家で教育者の吉田松陰(1830~1859)は、嘉永5年(1852)に東北を旅し、3月17日に松島の「富山」に登りました。その時の様子を『東北遊日記』に「山上有寺。望松島。一眸無遺。秋天牢晴。則見富士山。干未位。故以名云。」と書いています。現代語訳すると「富山の上に寺があり松島を残さず一望できる。秋晴れの日には富士山が未(ひつじ・南南西)の方角に見える。富山の名は富士が見える故に云う。」となります。
「富山」は松島町手樽の標高117mの山で、山上の寺は臨済宗の富春山大仰寺です。松島四大観の一つとして有名で、江戸時代には眺望の絵図も描かれましたが、「画讃」には富士山が見えることが書かれており、絵の中(上部中央の丸い印の下)にも小さく富士山が描かれています。

(奥州富山大仰禅寺眺望之全図 天保13年版・東京都立中央図書館蔵)
宮城県が富士山の見えた北限なのは山だけでなく、海からの眺めの北限でもあったようです。富本節の芸人だった富本繁太夫が幕末に書いた旅日記の『筆満可勢(ふでまかせ)』によると、文政11年(1828)7月11日に江戸から石巻に向かう船中の、仙台の沖合での記述では「水子櫓にて呼ぶ。行きて見るに、夕方也。もはや富士の見納め成りと言。見るに、富士黒く貮三寸斗に見ゆる。」
意訳すると「乗組員に呼ばれて船のブリッジに上がると、富士山の見納めだと言うので見ると、夕方の陸に黒い5∼6㎝ほどのシルエットが見えた」となります。

(富山)
(執筆者:インピンのビン)