東一番丁界隈の歴史と推移(その1) | いっきゅう会がゆく~宮城マスター検定1級合格者のブログ~

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1.藩政期の東一番丁

 

 仙台藩では、城下の町割りで武家屋敷地は「丁」と呼び、町人や足軽屋敷地は「町」と呼称しました。東一番丁は城下の中心である「芭蕉の辻」から東側に最初の町割りであり、それ故に「一番」が付いています。武家屋敷は東一番から東十番丁まであり、また北一番丁から北十番丁までと他のいくつかの「丁」が付く区画が武家屋敷地となっています。

 幕末期の「安政補正改革仙府絵図」では、東一番丁には定禅寺通りから柳町までの道路をはさんで東西に各21の区割りがなされ、大小に差はありますが42の武家屋敷が配置されています。顔ぶれを見ると、一関の田村氏や宇和島藩家老の山家氏の一族などの中級幹部クラスの藩士が住まいしていました。

 

屋敷地の規模は、東一番丁通りの現在の都市計画上の長さが976m、交差する通りと商家の町屋の敷地などを除くと、当時の武家屋敷地の延長は800m前後と見られ、片側21区画として単純平均の屋敷地は間口が38m、20間程度となります。一方奥行は、国分町通りや東二番丁通りまでの幅が約100mで、その半分の約50mとすると、『仙台惣屋敷定』の奥行30間にほぼ一致します。東一番丁の武家屋敷地は、禄高により差はあるものの、ひと区画の平均は間口20間、奥行30間で600坪、平均面積は約2000平方メートルとなります。

 

 通りの道幅は『要説 宮城の郷土誌(続)』によれば、天保4年(1833)の「仙台肝入宛書表紙裏貼紙」ではメインストリートの大町通りが5間で約9m、東一番丁通りは大町通りとの交差点から北側の糠倉丁が33尺で約6.3m、

大町通りとの交差点から南側の塩倉丁が22尺で約4.2mとなっています。

また繁華街であった国分町通りは34尺の約6.6mで、東一番丁通りよりやや広くなっていました。ちなみに現在の東一番丁通りの道幅は15mです。

 

 なお東一番丁は、現在の広瀬通りとの角付近に「御糠藁蔵」があったので大町通りとの交差点から北側を糠倉丁、現在の青葉通りとの角付近に「塩蔵」があったので大町通りとの交差点から南側を塩倉丁と呼び、この呼称は昭和に入っても使われていました。

 

 

2.幕末期と明治初年の東一番丁

 

 仙台藩は幕末の戊辰戦争で敗れ、朝敵となったことから藩の禄高を62万石から28万石に減封されました。さらに米の不作が追い打ちをかけ、仙台藩では藩士への俸給(禄米)がストップしました。このため困窮した藩士は家財道具を売って家計費を賄ったり、屋敷を出て領地に行って農業をするなど、東一番丁は大いに寂れました。

 

 東一番丁と現在の広瀬通りの北西角に屋敷を構えていた山家豊三郎は、明治初年に藩士の窮乏を救うため自分の屋敷地に30軒ほどの店舗を建てて藩士に貸し与え商売をさせました。また山家家の氏神である「山家明神」の祭礼を挙行し、夜店や露店などを出して誘客に努めました。この結果山家家周辺に人が集まるようになり、やがて東一番丁全体に商店や芝居小屋などができ、繁華街として成長して行きました。山家豊三郎は東一番丁繁栄の祖とされ、山家明神は「和霊神社」として地域の崇敬を集めて、現在はフォーラスの屋上に鎮座しています。なお「和霊神社」と、東一番丁最大の大店である藤崎の氏神の「えびす神社」と、仙台の町割りの縄を収めたサンモール商店街の「野中神社」は、併せて「仙台三社」と呼ばれ、毎年7月に東一番丁とおおまち商店街が「一番町三社祭り」を催行しています。

 

 明治期の東一番丁の繁栄の基となったものとしてもう一つ重要なものが「遊郭」です。仙台藩は3代藩主の不行跡などの教訓から万治3年(1660)に仙台城下の遊女屋を禁止し、幕末まで仙台には遊郭は存在しませんでした。領内でも遊女屋が認められたのは港町の塩竃と石巻だけでした。ところが幕末の戊辰戦争で仙台藩が敗北し、官軍が仙台に進駐して来ると、官軍の薩摩や長州などの兵士が仙台の市中で婦女暴行を働いたり、風紀の乱れが顕著になりました。また仙台藩の旧規則も空文化し、明治2年に官軍兵士を相手にするとの理由付けで遊女屋の設置が認められ、宿場町として旅籠などが並んでいた国分町に20軒の遊女屋が作られました。この遊女屋の多くは旅館などを改装して塩竈から移ってきたものでしたが、遊女屋は官軍兵士以外の客で直ぐに大繁盛となり、やがて大きな遊郭を形成していきました。そしてこの遊客が国分町に隣接した新たな繁華街である東一番丁に流れ、街は賑わうこととなりました。

 

 国分町の遊郭は仙台の中心市街地にあり風俗上の問題が取り沙汰されたため、明治11年に現在の支倉町の近くに移転し、常盤町遊郭となりました。しかし東一番丁の賑わいは衰えることなく、料理屋や劇場などの娯楽施設が繁盛し、現在の虎屋横丁周辺には芸者置屋が立ち並びました。このため一帯は虎ならぬ「猫屋横丁」と呼ばれることもありました。

 

 

3.東一番丁の劇場と映画館

 

 東一番丁が明治維新後の新たな繁華街となった象徴が芝居小屋・劇場と、その後の文明開化の波に乗った映画館の存在です。仙台藩時代、芝居小屋は常設では認められず、大きな寺社の祭りの時に境内に仮小屋を建てて上演されてきました。その規制が外れ、明治初年には東一番丁界隈に芝居小屋や見世物小屋が建てられましたが、本格的な常設の劇場としては明治18年に、榴ヶ岡にあった吉岡座を現在のフォーラスの地に移転して「松島座」が開場しました。

また明治25年には現在の江陽会館の地にあった芝居小屋を荒町の造り酒屋「森民」が買い受けて「森民座」が開設され、明治33年に「森徳座」と改称された後も人気を集めて、この名前は通りの名称として現在も続いています。

 

 これらの劇場では主に歌舞伎が上演されましたが、大きな転換点となったのは明治42年に現在の日の出横丁角に最初の活動写真上映館(映画館)として「仙集館」がオープンしたことでした。文明開化の象徴としての映画は人気を集め、間もなく松島座が「仙台パテー館」と改称して映画の上映を始め、大正時代には森徳座も映画館に改装された他、「文化キネマ」(後の文化劇場)も大正14年に開設されました。なお「パテー」はフランスの映画の草分け的人物で、パテー兄弟社の撮影機や映写機は世界を席巻し、映画の配給も行いました。

 

 映画は戦後にピークを迎え、昭和30年から40年代にかけては、封切館としての「東映劇場」「日活館(パテー館を改称)」「松竹劇場」などとともに「名画座」「中央劇場」「文化劇場」「青葉劇場」などが軒を並べました。

 

(執筆 インピンのビン)