《トリビアNo.68》本当の松島は「雄島」? | いっきゅう会がゆく~宮城マスター検定1級合格者のブログ~

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「松島や雄島の磯に あさりせし あまの袖こそ かくは濡れしか」
(松島の雄島で漁をする海女の袖ぐらいでしょうか、涙で濡れる私の袖より濡れているのは)

 

 西暦1000年ごろとされる源重之のこの和歌が松島を詠んだもっとも古い和歌とされています。あの源氏物語にも松島が記されていますので平安中期にはその存在は十分に都に知れ渡っていたようです。もっとも松島は雄島の枕詞ともいわれていますから究極の松島は「雄島」ということでしょうか。雄島は東西40m、南北200mの小島で、朱塗りの渡月橋を渡り訪れることができます。

  (雄島に渡る渡月橋)

 雄島を有名にしたのは、見仏上人です。1104年(長治元)に見仏上人が雄島に渡り、妙覚庵という庵を結び、修業によって法力を身につけたとされます。それが都まで知れ渡り、1119年に鳥羽上皇から仏像や法器と一緒に「姫松の苗千本」を下賜され、それに因んで「千松島」と呼ばれましたが、いつの間にか千がとれて「松島」になったとされています。

 平安期だけでなく江戸初期においても豊臣方だった武士「長南一族」は、徳川家から逃れるように松島の寒風沢島に住み着き、海運業を営みながら島々に松を植え、それを瑞巌寺が賞賛したという記録が残っています。瑞巌寺の参道にはこの偉業を讃える記念碑が建立されています。この話からも松島の中心はやはり「雄島」と言うことになります。また、松島は自然の松だけではなく、植林等で手を加えられた景観でもあるということが判ります。

  (瑞巌寺参道にある長男一族の碑)

 松島を訪れる人は肥沃な土を持たない島々の上で育つ松が植林されたとは誰も考えず、自然が生み出した奇跡の景色と見ています。松島の景観は時代ごとに誰かが守ってきました。松島を訪れた際は五大堂や瑞巌寺だけでなく松島の中心である雄島にもぜひ足を延ばしてみませんか?

(雄島にある芭蕉と曽良の句碑)

 

(執筆 斗田浜 仁)