《トリビアNo.64》奥州戦争の引き金となった人物「世良修蔵」の墓 | いっきゅう会がゆく~宮城マスター検定1級合格者のブログ~

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 白石川に架かる白石大橋近く陣場ヶ丘の中腹に「世良修蔵の墓」があります。

 (参考:白石市HPなど)

 世良修蔵(1835~1868)は山口県周防大島・椋野村の生まれ。武家ではなく庄屋・中司家の三男で幼名鶴吉。文久3年(1863)頃に奇兵隊に入隊、その後、島を治める浦家の家臣・世良の名跡を継ぎ、長州が参戦した幕末の主な戦いに参加しています。慶応4年(1868)奥州鎮撫総督府下参謀となり、3月に仙台藩を訪れ会津討伐を指揮するも、会津に同情する仙台藩の攻撃は進まず、東京の官軍本隊に相談に向かう前夜(閏4月19日)に福島の金沢屋で仙台藩士に襲われ、翌朝阿武隈川の河原で斬首されます。

 (世良が宿泊した旧・金沢屋周辺。福島市国道4号バイパス沿い。現在は自動車販売会社がある。)

理由は同じ下参謀の薩摩藩士・大山格之助にあてた手紙の「奥羽皆敵」の四文字で、手紙を盗み見た仙台藩士たちが激怒、暗殺に走らせました。世良の首級は、白石城にいた奉行・但木土佐(1817~1869)らに送られますが、土佐は「罪状を申し渡して斬首したるものであれば罪人の首である。児捨川にでも投げ捨てておかれよ」と言ったとされます。世良の首級は、白石の傑山寺に埋葬されるはずでしたが住職が拒否、ほとんど廃寺に近かった真田信繁ゆかりの寺「月心院」に葬られました。その後、明治3年(1870)現在地に従者たちと一緒に改葬され明治8年(1875)に墓碑が建てられています。
 小説や時代劇での世良は「横暴」、「不敬」、「女好き」といったレッテルがはられ、鬼畜のような扱いで描かれています。宮城・福島県民にとって「戊辰戦争」は無理やり賊軍にされたという気持ちが強く、その原因は世良の横暴という一点に集約されていますが、どうだったのでしょう?
 明治後期、戊辰戦争における仙台藩や会津藩の言い分をまとめた書籍が多く発表され、その中で世良の人物像が後の小説等に影響したと考えられます。では、プライベートの世良はどんな人物だったのでしょう。福島の宿・金沢屋の主人・斉藤浅之助の話として、興に乗るとよく節回しの可笑しい曲を横笛で吹き、宿の女たちを喜ばしていたと悪い印象は持っていません。仙台藩士の中にも好意的な感情を待つ人物がいたとの話もあります。また、漢詩や和歌を好んだとされ、宮城野で詠んだとされる和歌が残っています。
「むつの国 桜狩して思ふなり 花ちらぬまに いくさすればや」
 俗謡も作っています。
「一筋におもいこんだる国のため我身はたとへみやぎのに名はうもれて死すともこころはよしや名取川」
 これらのことから世良は命を賭して東北の地に来ていたことが判ります。戦に対して形にこだわる仙台藩士との「覚悟の差」が招いた事件とも考えられます。
 歴史に「もしも」は禁物ですが、世良が福島に戻らず真っ直ぐ白河から東京に向かっていたとしたら、襲撃が一日遅かったとしたら、その後の歴史はどう動いたのでしょうか。
 世良修蔵暗殺。人物像はどうあれこの事件が東北にとって大きなターニングポイントになったことだけは間違いないようです。

 

(執筆 斗田浜 仁)