《トリビアNo.62》仙臺を開いた虎哉宗乙(こさいそういつ)和尚 | いっきゅう会がゆく~宮城マスター検定1級合格者のブログ~

いっきゅう会がゆく~宮城マスター検定1級合格者のブログ~

  難関ご当地検定として知られる宮城マスター検定1級の合格者で作る「いっきゅう会」のメンバーが、宮城の魅力をお伝えします!

 天正14( 1586)年に山形米沢郷に遠山覚範寺を開山した虎哉宗乙は、美濃国(岐阜県)に生誕し、美濃東光寺の武田信玄の師である岐秀元伯(ぎしゅうげんぱく)に師事、その後、虎哉は諸国行脚を始めて、美濃の崇福寺の住職で「心頭を滅却すれば火もまた涼し」の言で知られる快川紹喜(かいせんじょうき)に師事。この快川和尚は武田信玄の死から3年後に営まれた盛大な葬儀を務めた僧であり,虎哉和尚には、その「師」と言える2人の和尚が揃って、武田信玄に多大な影響を与えた人物でありました。伊達輝宗の叔父で東昌寺の住職だった大有康甫(だいゆうこうほ)と親交があり、その関係で輝宗の嫡男政宗が幼少の頃からその指導にあたって、政宗が長じた後もその師として指導、助言に当りました。天正13(1585)年輝宗が非業の死を遂げた際には、葬儀の導師となり、輝宗の菩提寺となった遠山覚範寺の開山をしました。
 平成22(2010)年10月、覚範寺開山虎哉宗乙禅師400年遠諱記念として『訓注・虎哉和尚語録』が発刊され、巻3―3に「覚範寺殿17回忌拈香(ねんこう)(法事)」に「仙臺始見城桜上 松老雲閑鶴唳天」の虎哉和尚の漢詩があり、慶長6(1601)年と書かれ、政宗が1年前に「千代」を「仙臺」と変えた年で、[仙臺]の名付け親は政宗が定説だが、この事からも虎哉和尚の提案が示すものではないでしょうか。この語録の漢詩には、「仙臺」の文字が6箇所、仙臺開闢(かいびゃく)(仙臺を開く)の表現が3箇所あり、虎哉和尚の新天地への思いが分かる表現であります。
 広瀨川に架かっていた旧大橋の欄干に付けられた擬宝珠(ぎぼし)には、「仙臺橋 仙人橋下 河水千年 民安国泰 堯天」(巻3-2記載)の漢詩も虎哉和尚の作成とされています。この意味は、広瀨川も千年も流れる川のように、仙台が永遠に栄えるようにとの虎哉和尚の祈りの気持ちがありました。
参考文献     覚範寺「訓注・虎哉和尚語録」

虎哉宗乙の木造の写真

1958(昭和33)年、覚範寺の火事で木造は喪失した

         提供:遠山覚範寺