戊辰と言えばこの方は外せません。
會津初の陸軍大将、柴五郎です。
一日過ぎましたが、12月13日が命日でした。
石光真清「ある明治人の記録」からですが、
「過ぎてはや久しきことなるかな、
七十有余年の昔なり。
郷土會津にありて余が十歳のおり、
幕府すでに大政奉還を奏上し、
藩公また京都守護職を辞して、
會津城下に謹慎せらる。
新しき時代の静かに開かれるよ
と教えられしに、いかなることのありしか、
子供心にわからぬまま、
朝敵よ賊軍よと汚名を着せられ、
會津藩民言語に絶する狼藉を被りたること、
脳裡に刻まれて消えず」
8歳で會津戦争に遭遇し、
祖母、母、姉妹の5人が自害。
生き残った、父、姉とともに斗南へ。
「武士の子たることを忘れしか。
戦場にありて兵糧なければ、
犬猫なりともこれを喰らいて戦うものぞ。
ことに今回は賊軍に追われて
辺地にきたれるなり。
會津の武士ども餓死して果てたるよ
と、薩長の下郎どもに笑わるるは、
のちの世までの恥辱なり。
ここは戦場なるぞ、
會津の国辱雪ぐまでは戦場なるぞ」
要は、臭くて吐くような犬の肉て、
命を繋いでいたわけです。
その後は、
中国語、フランス語、英語に堪能となり、
日英同盟を結ぶ決定的な働きをします。
義和団と争った、北京籠城戦ですね。
55日で死者40名弱。
こういう言い方はよくないですが、
鶴ヶ城の時に比べ、圧倒的に少ない!!
そして、1945(昭和20)年。
太平洋戦争敗戦後、
9月15日に自決を図るも果たせず、
しかし、同年12月13日。
その怪我がもとで病死しました。享年85。
墓所は會津若松市の恵倫寺。
お墓自体は、小田山ですね。
クマが出たって注意書きありました。
行ったけど。
同市には、
かつて兵営があったところに、
柴の生家跡をしめす石碑がある。
つばくろ公園でしたっけ?
今は名前が違うらしいですが。
あと、會津初の海軍大将は出羽重遠。
會津某所で、會津人なら常識、
と言われました。
当時は答えられなかったので、
リベンジしたいなぁ…

