【テーマ・そうさく】


暗がりのなかでぼくは
いまや誰かの声が聞こえてくるのを
当たり前のように期待し
待ち焦がれていることを知っている。

暗がりのなかでは
どこに視覚があるのか
なにが触れているのか
どこからどこまでが五感なのか
視覚と触覚の区別さえいい加減で

だけどそんな風に
ぼくの知る感覚という感覚すべてが
こんがらがってしまっていても

ぼくはもう誰かの声を
聞きさえすれば
ぼんやり明るいあの場所で

小さな椅子に腰を掛けて
ぼくの目も耳も
ぼくの手も足も
ぼくの過去も未来もみんな

ちゃんと感知することが
できるのだと知ってしまった。

誰の声もしてこないとき
ぼくはこんがらがった五感を
どうにかして支配して
何も起こらないことの不安から

ぼくを守ろうとするのだけれど

薄明かりのほうへ
ぼくを連れ出してくれる
誰かの声を待っていることを
どうしてぼくは知ったのか

なぜ知っているとわかるのか。

こんがらがった五感で
何をどう感じたら
それを希望とわかるのか。

本当のぼくは
きっとまだ何も知らないままで

何も起こらないことの不安を
抱えてしまった別のぼくが

わずかな記憶の切れ端を
きっとかき集めては
こんからがった五感のままで

ぼくの目も耳も
ぼくの手も足も
ぼくの過去も未来も

知ったような気になるのだろう。

そうか。
ぼくは
まだなにも
知らないだけなんだ。

本当のぼくは
何も起こらないことの
不安さえ
まだ知らないままなんだ。




フルートのような
柔らかい響きが聞こえた。

ぼくはできるだけ
ほくがびっくりしないように
ゆっくりとからだを
右側に向けてみた。

フルートの歌声は
きれいな女の人だった。

「あなたもぜひ
これを受け取ってくださらない。」

きれいな女の人は
そう言ってぼくに
白い封筒を差し出した。

「結婚式の招待状よ。」

ぼくは
薄明かりを反射して
キラキラ光る封をはがして
一枚のカードを取り出した。

一枚の真っ白な
きれいなカードだった。

「時間と場所がもし決まったら
きっとまたお知らせするわ。

お相手がもし決まったら
きっとまたお知らせするわ。

だからお願い。
きっといらしてくださいね。」

女の人は
フルートのような歌声と
見たこともないくらい
真っ白なきれいなカードを残して

もうぼくの隣から
いなくなってしまった。

誰かを好きでいる人の
歌声はほんとうにきれいだ。
誰かを好きでいる人の
持ち物はほんとうにきれいだ。

だけどぼくは
あの女の人はほんとうは
その人と結婚式を
挙げることはできないって
知っているような気がした。

どうしてだろう。

そんな気がして
ぼくはたまらなく悲しくなった。

あの女の人のくれたカードは
あんまり真っ白で
それは何も書かれていないよりも
もっとずっと真っ白すぎて

そこにはあのひとが
一生懸命かき消した
あのひとと好きなひとの
思い出が残っていて

ぼくが封を開けた瞬間
すべてが本当に
消えてしまったような
気がしてしかたなく

ぼくはたまらなく悲しくなった。


ぼくはこのカードを
これからどこにしまっておこう。
ぼくはこの悲しみを
これからどこにしまっておこう。

薄明かりのなかで
ぼくはひとりまるで
途方に暮れているようで

あろうことか
あの五感のこんがらがった
暗闇のなかへ還ろうと
期待していることに気がついた。

あんなに焦がれた明かりのなかで
ぼくは真っ白なカードと
あの人の残した悲しみを

どこにもしまうことが
できなかったからだ。

暗がりがカードを
暗がりが悲しみを
視覚とも触覚ともつかない
こんがらがった感覚を

とろかしていくのを
薄明かりなかのぼくは

罪深く感じるより
ほかにしかたがなかったけれど
そう感じているうちは

ぼくはこの薄明かりから
出られないということは
わかっているような
気がしていた。









【テーマ・ひるやすみ】


近頃息子は
面白がって
わたしの言葉尻をとらえ
揚げ足をとってきます

これも成長ですけれど

「ママの間違いを
そんな風に言わないで」

とたしなめてみました

すると

「だってお姉ちゃんに
ぼくもやられるもん」

と息子

そこでわたしは

「間違いを笑われたら
ママは腹が立つけど
きみは腹立たないの?」

と尋ねてみました

返ってきたこたえは

「ぜんぜん」

だからわたしは
さも感心したように

「そうなんだ!
こころが広いんだね」

と言ってみました

続いた息子の言葉は

「こころが広いと
何がしまえるの?」



息子と会話するとき
わたしはときどき
突然宇宙に跳ばされたような
不思議な気持ちに
なることがあります

他人の言葉尻をとらえ
上から目線で揚げ足をとることが
あまりよいことではないと
諭そうとしていたわたしの
親としてのおごりを

瞬く間に吹き飛ばし

人間として
尊敬させられます


けれども息子は言います

「でもぼく
こころ狭いよ
だって
心臓小さいもん」

わたしが慌てて
心臓とこころは
違うと思うよって
付け焼き刃の手当てをすれば

「じゃあこころって何?
どこにあるの?」

と続きます


わたしのこころはいま
ときどきこの息子との会話さえ
しまっておくのを忘れるほど
余裕を失っているというのに

こころの在りかを尋ねる
小さな息子の見えないこころには

わたしをすっぽり包んで
なお余りある
無限の広がりがあるように
思いました

わたしが
息子の言葉と姿に
もしも宇宙へ跳ばされても

世界の果てまで
息子は包み込んでくれるでしょう


「何をしまおうかね
大事なものをしまいたいね」

わたしには
そんなことしか
言えませんでした

本当は
ありがとうと
言えばよかった

でも
きっと言葉にしたら
いけないことだとも
思いました





【テーマ・しゃかい】


攻撃は最大の防御なり
という言葉があります

かつて若いころわたしも
この言葉をお守りがわりに
傍若無人な勇み足で
青春時代を闊歩してきました

先手必勝とばかりに
自分の弱味を握られないよう
頑なに身を守るため
好戦的な態度をもって
個性を保っているような
気持ちになっていました

批判の目は無視し
懐柔的な提案は論破し
ことごとく
自分のなかの非を
否定し続けた日々でした

それはひとえに
ただ自分が傷つきたくないという
五歳の子どもでさえ
すでに持ち合わせる
とても人間的な感情が
そうさせていたのでしょうけど

経験よりも先に知識ばかりが
膨れ上がる思春期において
その純粋な防衛意識は
ねじ曲がった正論に取って代わられ

肥大した自意識に
完全に支配されたころには
周囲から孤立した状況すら
誰の意見にもひるまない
確固たる自分を確立したと
勘違いしていたのです

もういじめられたくない
もう悲しみたくない
もう誰も悲しませたくない

ただそれだけのことなのに

進みゆく人生の過程で
新たに出会った人間関係を
乱暴に巻き込んで
順当な友好関係を築くことを
自ら放棄していたのです

なぜ

それは
恐かったから

自分が傷つくことを恐れ
その恐怖が痛みの感覚を鈍らせ
他人を傷つけることを恐れ
その恐怖が他人との交流を妨げ

結果的に傷そのものから受ける
リアルタイムの痛みを
感知することがでくなくなり

自分の痛みも
他人の痛みも
想像の産物でしか
なくなるのです

肉体とこころは遠く離れ
現実から五感が薄れ
攻撃にますます拍車がかかっても
もはや事態を収拾することはおろか
事態を客観的に把握することもかなわず

得体の知れない恐怖から
逃げるためだけに
執拗な攻撃を続けることになる

攻撃は最大の防御なり、と



そうしてまで
防御したいものはなんだったのか

そうまでして
何から何を守りたかったのか

仮に守りたかったものが
わかったとして
それが本当に守られていたのだろうか



わたしはうっかり
つまづいて転び
膝に負った擦り傷に
風が当たってひりひり痛むのを
我慢することができなくて

すべての風を遮り
かさぶたを恐れ

手を当ててくれる
母のやさしさを拒み

転ぶかも知れない
危険な場所を避け

痛みを忘れるために時を止め

もういじめられたくない
もう悲しみたくない
もう泣きたくない

もう二度と
傷つきたくないと

まるで一度負った傷は
決して癒えることはないと
もう決まったかのように

ならばもう傷ついてはいけないと

そう思っていたのかもしれません



風にしみる傷を覆い
膿んだままの傷を
頑なに守っていた

風にさらし
時を待ち
手当てを受けながら
癒すことに

忍耐することが
できなかったのだと
思います

生きているから傷つくのに
傷つきを恐れて
生きることを忘れていたのです



攻撃は最大の防御です
攻撃することでしか
守れないものは確かにあります

ただしそれは
自ら治癒をあきらめ放棄した
膿んだままのこころです


わたしたちは
とりわけわたしは

大きな怒りや屈辱で
感情的に攻撃を始めるとき
その攻撃で守られるものが
一体何であるのかを

忘れてはいけないと思います