会津騒動堀主水の妻 | 答他伊奈(とうたいな)の小説庫

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会津騒動全般を書くつもりはありませんが会津騒動を今まで知りませんでしたので調べました。

この騒動は起承転結がありますので話としては成り立つのですが、これを面白いという人がどのくらいいるかです。

堀主水は家老のようです。財政難の中で加藤明成は城を改築に出ます。もちろんおやめくださいと申し上げたと思います。そこへ堀主水の家臣とほかの武士の従者がケンカをしたようです。堀主水に不快な思いをいだいていた加藤明成は堀主水の家臣を罰したのです。不服を堀主水が言いますと役を取り上げられたのです。堀主水は一族3百人を連れて会津をはなれます。その時に城を鉄砲で撃ったそうです。加藤明成は怒ったでしょうね。

堀主水は高野山に向かいます。途中で妻子を東慶寺に頼んで行ったのです。

堀主水の妻は、寿林と言ったそうです。

高野山にいた堀主水は江戸に呼び出され大目付に加藤明成はかって豊臣秀頼に内通し徳川に逆心を抱くと訴えたのですが加藤明成に引き渡されて首を斬られました。弟二人は切腹です。

加藤明成は堀主水だけでは怒りが収まらず、東慶寺の堀主水の妻を差しだせと家臣に文を持たせたのだと思います。

これに天秀尼が怒ったのです。加藤明成か東慶寺かと千姫を通じて江戸幕府に迫ったのです。

加藤明成は隠居。会津藩は幕府に返上。

加藤明成の息子は鳥取の石見に一万石で鞍替えです。

堀主水の妻はその後三年ほど東慶寺におりました。寿林の弟・黒川貞得が引取り天秀尼がわかれの時に仏像を寿林に渡したそうです。天秀尼はそのあと病死? したようです。

この先にも話があります。

昭和に入ってから寿林、堀主水の子孫が、寿林が天秀尼から頂いた仏像を寺に納めにきたとのことです。

この話から子も一緒に会津に戻ったと考えられます。