祖母、南タカ子<下杉正子

祖母、南タカ子<下杉正子

思い出と、今と、これからと。

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先日、言われた言葉が胸にささり、なんだか生きているという証もないような感覚で、過ごしていた。

絵など売れないと言われたこと。

その日から微熱が続いた。
精神的なものだった。

今日、虎の絵を買ってくださった方がいた。

私はすぐには売れたというメールを見ても信じられなかった。

お礼のメールを送り、あたたかい励ましに泣きそうになった。

年齢を重ねると、よく泣くのかなぁと思った。

おばあちゃんの故郷にお住まいの方だった。

その方とのメールのやり取りで、大きな心を感じた。

そしておばあちゃんのことを思い出した。

おばあちゃんは、生命保険に勤めていた。

売ろう売ろうとするのではなく、家にあげてもらうだけで、おばあちゃんは休めて助かったなぁと言っていた。

その後、何故か続々とおばあちゃんのおいていった洗剤やまち針を見ておばあちゃんを思い出し、ちょっとした保険に続々と入ったと話していた。

「南さんが、とって来る仕事さー保険金がおりて、うちの会社としてはきびしい!!!」と言われたそうだ。

商売だけれど、その中に少しでも交流ができたら、私はうれしい。



ネットショップ、、、売上は下った。

絵はどうしても必要なものではない。

誰かの心を豊かにするような絵が描けたら嬉しい。

「絵は、そんなにうまく売れないわよ!かわいそうだから言わなかったけど、ずっと売れるはずなんてないじゃない」と。

応援してくれていると思っていたからショックだった。

でも私は、えい!と思い絵を描いている。

「現実を見なさい」

とてもつらい。
なんとしてでも絵ではないなにか仕事をしないとならないのかなと、なんとなく求人を見て、ため息をついた。

意気消沈は、最大の敵だ。



「かならず意味のあることだったと思える日が来る!」と、私は兄に言った。

兄は下を向いてた。

「じゃあ、なんの意味だよ!!!」と、私の顔を見て言った。

私はなんとなく兄のメンタルの面でも心配になった。

気持ちが落ち込んでいるときに、変なこと言ってしまったなと思い私はなにも言えなかった。

でも、私は病を経験し乗り越えてきた。
兄にも家族にも友達にも迷惑をかけてきた。


人生は、山があり谷がある。

一番辛かった時期が一番の思い出になっている。

いろんなことと戦い、励ましてもらい、人に優しくしてもらい、人の優しさで立ち上がってきた。

だから、兄が立ち上がり、病との戦いのなにかしらのサポートができたらと思う。

私が助けすぎてはいけないこともあると思っている。

命が助かったことに感謝している。








昨日はなんだか眠れなかった。
1枚作品を描いてから、
うつうつとして朝に眠った。

心配性の私は、頭の中でぐるぐると考えだけがまわっていた。

いつもいざというときに優しくラインをくれたり電話をくれたりする友達がいる。

全てつつぬけなのかとおもった。

荷物が届いたので、誰からだろうと思い見てみるとその子からだった。

免疫ケアウォーターがたくさん届いた。

デブリ杉正子にとってはありがたいカロリーゼロだった。

私は思わず泣いてしまった。
なんでそんなにやさしいの?

気持ちを切り替えよう。

Sちゃん本当に本当にありがとう!

さあ絵を描こう!






久しぶりに家で一人ビールをのんでいる。

とても不安になったのであった。

お酒を飲んでもなにも変わらないかもしれない。
少し肩の力をぬきたいとおもった。

私が兄を励ますと、、、「もうそういうこと言わないでくれる?期待してしまうから」と。

それから私はなにも言い返せなくなった。

「そうだよね、、、辛いよね」と、相づちをうった。

一番辛いのは、兄だ。

これから兄が病との戦いが始まるのだろうと思った。

そして私も一緒に兄と兄の病と闘うのだろう。

私が落ち込んでいる時に、私が話す言葉や気持ちの全てを聞いてくださった方がいた。

私が、重度のうつ病になった頃だった。

私の側にいつもいてくれて、連絡すると自転車でとんできてくれた先輩がいた。

激ヤセし、体調も悪く、誰にも会いたくない時に唯一会いたい人だった。

それは話を最後までさえぎらず聞いてくれたから。

どんなマイナスなことを言っても、聞いてくれた。

聞く力という本があったなぁと思った。
たしかに人は誰かに話を聞いてもらいたい生き物なのかもしれない。

どんなに落ち込んでいる兄も好きだし、どんなにネガティブになっている兄も好きだけれど、1歩でも2歩でも明るいお兄ちゃんに戻ったら私はうれしい。






おばあちゃんが残してくれたBOX額が何個かある。

はじめは捨てようかと思ったが、この額を生かした作品を作れないだろうかという思いに変わった。

下書きや何を描くかは、考えず手が動くままに音楽を聞きながら楽しく描くことができた。

とても夢中になって作ってとても楽しかった。


おばあちゃんが残してくれたもの、もう一つあった。

色の変わったわら半紙だった。

当時はおばあちゃんの部屋を片付けるまで時間がかかった。

片付けはじめて見つけたのは、私や姉からの手紙だったり、写真だった。

こうして悲しむことはおばあちゃんは、望んでなどいないだろうと思い、わら半紙で、なにか作ろう!と思って夜から夜なべして朝まで作り続けた。

とても楽しく作ったイカや魚たち。
主におばあちゃんが好んで描いた海の生き物をわら半紙を使い、おばあちゃんの針と糸を使って強引に縫った。

2008年の個展の時に発表した。

おばあちゃん、いつもありがとう!

「まっちゃんなにか作ってごらん?すんごく楽しくなるから」




ささやかな花を持って行った。

いろいろ考えたが、花にした。
そして、その花も負担にならないようにささやかな花を選んだ。

そんなことまでもが伝わっていたのだろうか。

その方のように真心には真心で対応できる人になりたい。

その方はどこまでもやさしくて強い人だ。
私の心の方向を変えてくれた。

まだ若い息子さんを亡くした。
私には計り知れない気持ちを抱えているのだろうと思った。

扉を開けて招き入れてくださった笑顔を忘れない。
お線香をあげさせていただくことができた。

家に帰ってきたら、紙袋が置いてあった。
母が受け取ったらしい。

私は、メッセージを送った。

「その、ささやかな気持ちがうれしかったのです。」と、書いてあった。

なんだか、とてもつもない心の広さを感じ泣きそうになった。





今日は天井のものを全部出してみた。


そこには、高校生からの作品がたんまりと出てきた。


デッサン教室に通っていた頃の絵や、昔の絵だった。


私は、描いて描いて描きまくっていたんだなぁと思った。


描いているうちに、少しづつ自分らしさが絵に出てきたのかなぁとうっすらと思った。


論文の評価はとても低かった。


こうして、文章を書くことは楽しく思うのだが。。。


評価とは、なんだろうと思う。

一人の先生からの評価は、わからない。


私は周りの友達の意見を重視してきた。


天井裏から、山のように出てくる。


それらは、私が勉強してきた証だったのかなぁ。


ある友達が「絵をやめる」と、言ったことがあった。


私は「絵は裏切らない!やめる必要はない!大丈夫!仕事くるよ!」と、ファミレスで必死になった。


そんな時、その子のスマホがなった。


一瞬でその子は笑顔になって、「仕事きた!」と。


私はおもわず、ぽろりと涙が出てしまった。


その子はとても頑張っていたから。

たくさんの困難にぶつかりつつ、向かい風をいつの間にか追い風に変えた。


今も努力をして、イラストレーターとして活躍している。


私も見習わないといけない。





前にも書いたけれど、ある友達がこう言っていた。

「人にやさしくしたら、お金が少し入ってきて、それが生活になっていったらいいなぁ」と。

やさしい気持ちが人の心もあたたかくする。

殺伐とした世の中だなぁと思う。
同じ住宅の人に私はこんにちは〜とか、こんばんわ~と、声を掛けるが、大抵の人がびっくりして、「ちわ〜」と言う。

隣の人はどんな仕事をしているのかもわからない。

人の事など関係ないというのは、どうなのかなあと思う。