このブログの鉄板ネタであるが、今一度。

 

 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識ということで以前記事を書いた。

 

 外国人と接すると本当にそれを痛感するのは、今も全くもって変わらない。

 

 ほとんどの日本人の一歩引いた精神は、外国人には、単に卑屈で与し易い印象しか与えない。

 

 もちろん、一部、ごくごく一部の外国人の中には、これが日本の文化であり日本の美徳であることを理解して、敬意をもって接してくるひともいる。

 

 しかし、大袈裟ではなく、95%以上の外国人にとって、自己主張を極端に抑えることを社会的に要求されてきた日本人の行動は、たんに「Easy」つまり、適当に上から目線で軽くあしらえる存在にしか映らないのである。

 

 「とても謙虚で美しいわ!」なんていうのは、だいたいにおいて特に個人的に日本に興味があって日本人を好意的に理解しようとする人に限られる。

 

 日本に住む大半の外国人も、日本人が自己主張を抑制することを良しとする行動文化をもつことを、理解しつつも別に素晴らしいとは思っていない。

 

 当然であろう。

 

 片方を評価すれば、もう片方を批判することにも繋がる。

 

 もう片方とはすなわち、日本を除くほとんどの世界中の国々のスタンダードである、自己主張文化を批判することに繋がり、自己否定にもなることをするわけがない。

 

 「あちらもこちらも素晴らしい」という相対評価をしているようなことをいう人もいるが、もちろんそんな神仏のような人はまずおらず、だいたいは表面的に言っているだけで、自分たちの自己主張文化を美しいと考えているし、それは言動の端々にでる。

 

 しかし、これは人として普通のことであり、自己否定を極端に推奨するかのような日本の文化の方が特殊なのである。

 

 もちろん、日本人も自己主張を極端に抑えられ、時に行き過ぎとも言える自己否定を強制される状況に相当なストレスを感じており、それは、時に、ちまたに時折見られる暴力的な行動によって爆発することも多い。

 

 あおり運転で暴行を振るっていた人などはその典型的な例であろう。

 

 極端に自己犠牲を強いて弱者を虐げる風潮は、「オレオレ詐欺」や、陰湿な学校やブラックパワハラ企業でのいじめや嫌がらせという形でそこかしこで噴出する。

 

 もちろん、他者を尊重し、他者の立場に立って考えようとする思い遣りの文化など、日本特殊の他には変えがたい文化もある。

 

 その一方で、極度に自己犠牲を強いる、あるいは、寄生虫文化の朱子学精神で、肩書きやら年齢やら性別やら、あるいは個性の違いを使って弱者をイジメまくる実態も厳としてそこにある。

 

 海外へ移住したがる日本人がなぜいるのか、考える必要がある。

 

 いずれにせよ、日本の美徳は世界の非常識で、日本の非常識は世界の美徳だったりすることを、日本人は、今後ますます加速される国際化の時代においてしっかりと理解しなければならない。

 

 日本の素晴らしいイノベーションの力で世界における日本の評価はある程度あるものの、人間同士の関係となると、まるで理解されないどころか、頭からバカにされて見下されている現実があることを知ることが、英単語を覚えるよりもより重要であると、筆者は主観的に考える。

 

 今回もお読みいただき、ありがとうございます。