優しさと思い遣りとの間に違いがあるなんて、日本で普通に生きている上で考える必要等全くない。なぜならば、両方とも普通にあることだし、当たり前のことだからである。ところが、外国に住む日本人は、しばらくすると違和感を感じ始める。私は結構はやくにこの違いについて、つまりは外国には相手の立場にたってものを考えるという習慣や文化がほとんどないというか全くと言って良い程ないということに気付いたが、これは外国に住む日本人がしばらくすると「感じ」始めることである。ただ、ほとんどの人が感覚的に気付くが具体的には説明できないことが多い。そうした中で違和感だけが日々膨らんでいき、楽しいはずの外国生活がどんどん苦痛になっていくのである。日本では、阿吽の呼吸と言えるほど自然な形で行われる思い遣りのやり取りが、外国人との間ではほぼ成立し得ないからである。

 「世界で損ばかりしている日本人」という本の中でも、外国人との間での感覚の違いによる苦しみに耐えきれず、精神的に病んでしまい、帰国することになった日本人の例を紹介しているが、こうした問題は、実際に外国人と直に触れ合う機会をもつことが多ければ多い程、直面せざるを得ない。ワーキングホリデーや語学留学などで短期で外国に滞在し、ほぼ日本人同士固まって生活している人たちにはあまり関係のない話ではあるが、それでも外国人と接する機会が多少でもあれば、「ああ、あれか」と感じる人も多いと思う。日本人が普通に考える「思い遣り」が外国人は、本当に、まるでないからである。必要なことは全て言葉にして言わなければいけないし、いわなくてもわかるという感覚については、本当に全く理解できないし、彼らには精神文化的に不可能である。それはあたかも、右腕が最初からない人が、右腕の感覚をもつことができないのと同じことなのである。

 日本人が陥るもっとも危険な罠は、「人として当然のことだからわかるはず」という信念を持ってしまうことである。はっきり言おう、外国人は、本当に、普通に、悪気なく、日本人が普通にもつ思い遣りの感覚については、絶対に理解できない。日本に長年住んで日本人と共に時間を過ごし続けた外国人には、あるいはわかる可能性がなきにしもあらずであるが、そうでもない限りは、はっきり言って無理である。裏も表もなく、あからさまな事実として、

 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識

なのである。

「言わなくてもわかる」なんて日本でしか通用しないなんて、日本で普通に生きている人には、まったく理解できない。それはまさに、外国人にとって、すべてを口にして主張することが当然であり、あくまでも自分の立場、自分の目線からものを観るのが当然であることと同じくらい当たり前のことなのである。

 次回もまた、この問題に付いて話したいと思う。

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