戦前の守礼門や暗しん御門や御茶屋御殿 | 1592takakumaさんのブログ

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沖縄のことや競馬やら政に関して書きます。


昭和7年(1932)頃の「御茶屋御殿」です。
首里カトリック教会や城南小学校の西北西に建っていました。
間取図は、首里城の解体・修理に尽力した阪谷良之進が作成したものが残っています。
沖縄県は、奉神門の西側にある下之御庭に再建する計画を持っています。
建てるならば、国営公園ですから国が国費で建てることになりますが
「募金が使われる」
「なぜ国は建てない」
と、マスコミが政府に圧力を掛けるでしょう。
昭和7年(1932)頃の守礼門です。
左が西で右が東です。
観光では左から右方向へ歩きます。
ボロボロで、上の屋根の左下の瓦がありません。
上の写真は、昭和11年(1936)から行われた修理の後の写真です。
手間側が西で奥側が東(本丸方向)です。
上の屋根の左下側の瓦がなかったのも、ちゃんと修理されています。
修理を担当したのは文部省です。

首里城火災の時、大正14年(1925)に国宝になったと記したマスコミと、昭和8年(1933)に国宝になったと記したマスコミに分かれました。
いつ国宝になったのかですが、
1925年(大正14)
で間違いないと思います。
しかし、1925年にしたマスコミも1933年にしたマスコミも、昭和の解体・修理は記しませんでした。
「琉球王朝時代から建っている」
って誘導したかったんでしょう。
昭和の解体・修理を記したのは、意外ですがTBSだけでしたが、ボードに記しただけですから、記憶に残っている方は稀だと思います。

1925年は、「特別保護建造物」に指定されました。
修理は必要だけど金がないので、神社にして金を捻出しようということです。
本殿は物置サイズのを建て、首里城正殿に賽銭箱を置いて拝殿にし、龍柱の前に灯籠を置くだけの簡単なお仕事です。

それで、昭和3年(1928)に
国庫補助金5万3千円
神社負担金1万7千円
で、沖縄県建築技師(本土から出向)が主任となって修理開始でした。
しかし、資金の枯渇と白蟻被害の柱の交換などの技術的問題から、修理は頓挫します。
そして
昭和5年(1930)の台風を契機として、昭和の解体・修理が行われました。
予算は約11万円で、国が行いました。

首里城正殿を含めた20ヵ所は、昭和8年(1933)に国宝に指定されました。
それで、守礼門の修復も行われたわけです。

「日本は沖縄に何もしなかった」
と言う方々は
「当たり前のことを偉そうに言うな」
と、おっしゃるのかもしれませんねぇ。
浦添ようどれの出入口です。

岩盤が載っていましたが、沖縄戦の時のアメリカ軍の砲撃で、岩盤は砕けてしまいました。