こんばんは😊 Hickeyです😁
今日から葉月だね☀️ 今月も宜しくお願いします😊
ところで諸君は
何で8月を葉月っていうか知ってるかね❓🫵😏
これには実は色々な説があってだね🫵😏
本当の由来がわからないんだよな😅💦
よくいわれるのは
【葉が黄色く色づく頃だから《葉月》】
【落葉が始まるから【葉落ち月】を縮めて《葉月》】
【稲穂が実る時期であるから
  《穂張月(ほはりづき)》といい
     それが変化して《はづき》となった】
【南海上から南風(はえ)をもたらす
    台風が多くく時期だから
《南風月(はえづき)》といい
    それが変化して《はづき》になった】
【雁が飛来しはじめる時期だから
《初雁月(はつかりづき)》が《はづき》となった】
う~ん🤔
どれも有りそうな‥無さそうな‥🤔(笑)
まぁ~今と違い葉月と呼ぶようになった時代は
まだ旧暦だから8月といっても今の9月だろ🤔
随分とイメージ違うはずなんだよな🤔
まぁ『日本書記』でも8月をハツキ
そう読ませてるんだから音としては古代から8月は
ハツキと呼ばれていたのは確かなんだよな🫵😏



まだまだ暑い中は続くから
夏バテせず暑さに負けずに
猛暑の夏を楽しもうぜぇ✊😁☀️



【Hickeyの暦生活😊🇯🇵


今日8月1日は【八朔】😁

8月1日は【八月朔日】😊👍

それを略して【八朔】というんだ❗️

元々は旧暦八月の行事だな🤔

その年の新しい穀物を取入れ

贈答をしたりして祝う日なんだ😊

お中元の元となったものだね😁

祇園の八朔は有名だよね😁



さて昨日は【君よ杉原千畝を知っているか?】

そういう題で話をさせていただきました😊


まだ御覧になってない方は

下をクリックして御覧ください⬇️


さて今日の本題はここから‼️

今日のテーマは【忠臣】です‼️


【Hickeyの今日は何の日?🤔】

     

慶長5年(1600)8月1日

鳥居元忠が伏見城にて

雑賀孫市に討たれ討死……



君達は家康の家臣団なら誰が好きかね❓🫵😏

まぁ〜ほとんどの人が徳川四天王

酒井忠次

本多忠勝

榊原康政

井伊直政

この辺りの名前をあげるんだろうな🫵😏

これだから素人は…(笑)



今日の話の主人公は鳥居元忠🫵😏

そう聞いてもほとんどの人が

『鳥居元忠って誰🤔 聞いたことないよ~🤔』

そう思ったんじゃないかな❓🫵😏

まずは鳥居元忠の人生を

ザックリ振り返ってみるとするかね🫵😏




鳥居元忠は松平家家臣・鳥居忠吉の三男として

三河碧海郡渡郷(現・愛知県岡崎市渡町)に

天文8年(1539)に生まれたんだ🫵😏

幼名は鶴之助くん😏




父・鳥居忠吉は渡城の城主であり岡崎奉行として

家康の祖父である松平清康に仕えて

清康が亡きあとは家康の父・松平広忠

仕えていたんだな❗️😏

ちなみに松平健は関係ないからな🫵😏



鶴之助(後の鳥居元忠)は

竹千代(後の徳川家康)に

天文20年(1551)から近侍してたっていうから

竹千代が9歳・鶴之助が12歳で

竹千代が今川家の人質だった時代からの

徳川家臣団の中では古い主従関係だったって事だな❗️

ちなみにこの主従は同じ時に元服もしてるんだぞ⁉️




永禄3年(1560)

桶狭間の戦いで今川義元が余に…織田信長に敗れ

討ち死にすると松平元康(のちの徳川家康)

今川家から独立し元康(家康)元忠共に

三河に戻る事になったんだ🫵😏




今川家から独立した元康は名を徳川家康と改め

三河統一後に鳥居元忠は旗本先手役となり

旗本部隊の将になり元亀元年(1570年)の

姉川の戦いであったり元亀3年(1572年)の

三方ヶ原の戦いなどに参戦してるんだぞ🫵😏



元亀3年(1572年)

鳥居元忠父である鳥居忠吉が死去‥‥

元忠は三男なんだが長兄の忠宗は渡の戦いで戦死…

次兄の本翁意伯は出家してしまっているもんだから

鳥居家の家督を相続する事になったんだな🫵😏

諏訪原城の戦いで斥候として敵陣に潜入するも

敵に見っかってしまい銃撃されて脚を負傷⁉️

それ以降は片足が不自由になってしまったんだ‥😔

それで武将としては隠居するかと思いきや…

天正3年(1575年)

長篠・設楽ヶ原の戦いでは石川数正と一緒に

馬防柵の設置を担当したりしてるし

天正9年(1581年)には

高天神城の戦いにも参戦してるんだよな⁉️😅💦




天正10年(1582)

どたわけの明智光秀が謀反したもんだで

余は…織田信長は本能寺で横死💢




これにより徳川家康は甲斐・信濃に侵攻‼️

これに対し北条氏直は碓氷峠から信濃に入って

北条氏規らと兵43000を率いて

佐久から甲斐に入り若神子城に布陣‼️

すると徳川家康は本多忠俊・岡部正綱・酒井忠次らと

甲斐の新府城に兵10000と籠城⁉️

北条家と対峙する事になったんだ🫵😏

北条勢は笹子峠を越えて大野砦を攻撃するも失敗‼️

本栖城攻めも失敗⁉️

焦った北条氏政は北条氏忠の兵10000に

御坂峠を越えさせて甲府へ攻めさせたんだな🫵😒

そのころ元忠は兵2000を預かり新府城から

甲府の防衛に出陣していてる⁉️

御坂の北条勢10000に対し

果敢にも戦を挑んでいるんだぞ⁉️🫵😏

この戦は黒駒の戦いっていうんだ‼️



この黒駒の戦いで元忠は見事に勝利㊗️

これにより

元忠は徳川家康から甲斐国都留郡を与えられて

谷村城の城主になるんだ🫵😏




天正13年(1585)

上田城の戦いに参戦するけど

この戦じゃ真田安房守昌幸に負けるんだよな😅💦


その辺りの話は下をクリックして御覧ください⬇️


元忠は天正18年(1590年)

豊臣秀吉の小田原征伐に参戦しているんだな⁉️

そして岩槻城攻めをしたんだ🫵😏

この小田原征伐の後に徳川家康は江戸に移封になり

それに伴い元忠は主君の家康から

下総国矢作4万石を与えられるんだな㊗️




この頃に鳥居元忠は

サル…いや秀吉🐒からも気に入られ

『おみゃあの息子・忠政を

        豊臣の直参にしたゃと思っとるだが‥‥』

そう打診されるんだわ🫵😏

だが元忠

『我が家は徳川家に仕えることを

                    先祖代々の家伝にしております!』

こう言ってキッパリ断っているんだぞ🫵😏

おサルさんガックリ🐒💦




徳川家康がまだ竹千代と呼ばれていた人質時代からの

側近で無二の忠臣だった鳥居元忠‥‥

だが2人の永遠の別れは突然やってくるんだ‥‥ 

慶長3年8月18日  豊臣秀吉 薨去🐒💦

そして

慶長5年(1600)‥‥

徳川家康は上杉討伐軍を率いて関東へ出陣⁉️

その時に徳川の上方における拠点だった

伏見城を託されたのが鳥居元忠だったんだな‼️

でも徳川家康が関東にむけ出立をすれば

豊臣ファースト会の石田三成

挙兵する事は火を見るよりも明らかな状況😒

挙兵したら豊臣ファースト会の石田三成が真っ先に

襲うのは伏見城である‼️




慶長5年(1600)6月16日‥‥

家康は伏見城に宿泊し

『置いていける兵は3000‥苦労をかける…』

元忠そう言ったんだ…

それに対して元忠

『なんの!

    殿の天下取りのためならば

    喜んで捨石となりましょう!

    捨石に3000の兵は多すぎます!

   これから殿には まだまだ兵が必要になり申す!』

そう言って兵を自ら1800にしたんだ⁉️

家康も断腸の思いだったんだろう‥‥

2人は深夜まで酒を酌み交わしたそうだ‥‥😔

こうして最後の別れをして

家康は関東に出立していったんだ…




さてさて‥‥

家康が上杉討伐に東国にむかうと予想通りというか

案の定というか‥‥

豊臣ファーストの会の石田三成

毛利輝元・宇喜多秀家・大谷吉継などの

反家康派の諸大名を糾合して挙兵をしたんだな‼️

同年7月18日

豊臣ファーストの会は伏見城の明け渡しを

留守居役の元忠に命じたんだが…

当然ながら元忠は明け渡しを拒否😛

だが豊臣ファースト会からしたら

京都と大阪を結ぶ重要拠点である伏見を

いつまでも徳川のものとして放置するわけにいかず

宇喜多秀家を総大将に

40000の大軍で伏見城を攻めるんだ‼️

40000🆚1800

数字だけ見たらスグに勝負がついたと思うだろ❓

でも伏見城は城づくり名人のサル…秀吉🐒が

木幡山に築いた平山城だぞ🫵😒

本丸を西丸・松ノ丸・右衛門尉曲輪・治部少輔曲輪・

三の丸が取り囲み広い堀と高石垣に守られた堅城‼️




少数ながら元忠が率いる守備側の士気は高く

なかなか伏見城は落ちず状況を打開するため

五奉行の長束正家は伏見城内にいる甲賀衆を

寝返らせるため妻子や一族を捕縛し

『寝返らなければ家族を磔にするぞ!』

そう脅迫したんだな🫵😒

それにより甲賀衆が寝返り⁉️

松の丸に火を放ったんだ🔥

これにより大手門が破られ

西軍が一気に城内になだれ込んできたんだな‼️




城内に敵の侵入を許したと知った元忠

本丸の総門を開き最期の戦いを決意‼️

守備側の徳川軍は壮絶な戦いを演じて

城を枕に次々と討死していったんだ‥‥😔

伏見城内で最後まで勇猛果敢に闘った元忠

討ったのは雑賀衆の鈴木重朝(雑賀孫市)‥‥




最後の最後まで

徳川ファーストを貫いた元忠‥‥

彼は家康という男に己の一生をかけて

誠の忠義をつくし散っていったんだな🫵😒

これぞ武士‼️三河武士の鏡‼️

鳥居元忠  享年62




京都・三十三間堂‥‥




その三十三間堂の脇にひっそりと建っている

養源院という寺院を君達は知っているだろうか🫵😒

この養源院‥‥元々は豊臣秀吉の側室・淀の方が

父・浅井長政と母・市の追善供養のために

建立した寺院なんだよな🫵😏

だが火災で焼失‥‥🔥🔥🔥

その後に淀の妹であり徳川秀忠の正室である

崇源院(江)の願いで

伏見城の床板

これを使い再建されたのが現在の養源院なんだ‼️




良く天井を見て欲しい‥‥

伏見城の戦いで亡くなった

将兵の血が染みついているんだ‥‥




伏見城の戦いで元忠をはじめ

伏見城の戦いで亡くなった将兵の供養のため

血の染みついた床板を寺に移したんだ🙏

でも床板は足で踏む場所だろ❓

血の染みついた床板を養源院の床板にしちゃったら

供養にならないもんだから天井板に使用する事で

手厚く供養してるんだよな🙏

だからこれを【血天井】っていうんだ🫵😏




手の跡とか足の跡とかついているのが

ハッキリわかるだろ❓🫵😒

京都に行かれた際には是非とも養源院に立ち寄り

【血天井】を見て手を合わせ供養をし

ぜひとも元忠に思いを馳せてみて欲しい‼️




大阪城‥‥




現在の大阪城天守閣は

内部が歴史資料館となっているんだが

その大阪城天守閣に

【紺糸素懸威(こんいとすがけおどし)二枚胴具足】

そういう名の甲冑が展示されている🫵😏

伊予札(いよざね)と呼ばれる長方形の革板を

紺色の糸で綴った胴部は金箔が一面に貼られてて

袖や佩楯も金に輝いる胴の下に垂れる草摺は朱色‥

戦国末期の甲冑らしく華美な甲冑だ🫵😏

この甲冑‥‥

実は鳥居元忠の甲冑なんだ⁉️




元忠を討ち果たした鈴木重朝(雑賀孫市)は

徳川家康が徳川幕府を開いたのちに

水戸徳川家に仕えたんだ⁉️

ある時‥‥

鈴木重朝(雑賀孫市)は元忠の子・鳥居忠政の屋敷を

訪ね元忠の甲冑などの返還を申し出たんだ⁉️

『なぜ鈴木重朝が鳥居元忠の甲冑を持ってたの?』

そう思った人もいるよな🫵😏

いわゆる戦国時代には戦で敵方の有力武将などを

討ち取った時に甲冑や太刀などをぶんどって

家宝にすることがよくあったんだ🫵😏

余も…織田信長もさ桶狭間の戦の時に

今川義元の太刀をぶんどって家宝にしただろ🫵😏




さて‥話を戻そう‥‥鈴木重朝(雑賀孫市)から

父・元忠の甲冑などの返還の申し出を

鳥居忠政は感激しながらも

『あなたの御芳志により

    亡父の物の具を見ることが出来たのは

    返す返すも大きな悦びでした!

    そうではありますが我が方には

    形見と見るべき物の具は

    少なからずあります!

    ですのでこれは

    雑賀殿の戦功の御名誉とともに

    あなたの御家に差し置かれ

    御子孫にお伝え頂ければ

    後世への御遺誡にも成ると存じます!』

そう言って丁重に断ったんだな‼️

ただし忠政は鈴木重朝が所蔵していた

父・元忠の血染めの肌着だけは引き取り

その血染めの肌着は栃木県壬生町にある精忠神社の

御神体となっているんだ🙏




鈴木家では代々8月1日の元忠の命日に

甲冑を床の間に飾り供養を続けてきたんだが

平成15年(2003)

元忠に敬意をはらいよりよい保存環境を求めて

大阪城天守閣に寄贈されたんだ‼️



を捨てただひたすらに主君・家康のため

その生涯を捧げてきた鳥居元忠……

忠臣・鳥居元忠

その生き方を君はどう思うかね❓



皆さん‼️

どう思いますか❓

共に日本のために‼️

全ては日本のために‼️