こんばんは😊
今日は忙しかったHickeyです😨💦
いや〜本当に今日は忙しかった😨💦
今日は大事な日でブログを2話やる予定だったが
忙しいくて執筆時間がとれなかった🙏

【Hickeyの今日は何の日❓🤔】

明治12年6月4日
東京・九段の東京招魂社を
別格官幣社とし靖国神社に改称🇯🇵

これがあったんで
靖國神社の話をしようと思ったんだが
こっちは後日また改めて話をするよ‼️



さて昨日は【あれから33年……】
そういう題で話をさせていただきました‼️

まだ御覧になってない方は
下をクリックして御覧ください⬇️

ここからが今日の本題‼️
今日のテーマは【生き抜く力】



さて今日6月4日というのは支那
天安門事件のあった日なんだがね…
支那の話なんか僕がしても面白くないだろ❓
だから天安門事件の話なんかしないぞ‼️
天安門事件よりもっと大事な話あるしな🫵😒



『天安門事件より大事な話?🤔』
そう思った人もいるかと思うんだが…
あるんだよ🫵😏

【Hickeyの今日は何の日❓🤔】

慶長16年(1611)6月4日
真田信繁(幸村)の父である
真田安房守昌幸が九度山の屋敷で
亡くなったんだ😔
反日NHK大河ドラマ
真田丸では真田安房守昌幸役を
草刈正雄が怪演してたよな‼️




『え?天安門事件より
    真田安房守昌幸の
    亡くなった日の方が重要なの?』
そう思った人もいるかも知れんな‼️
失礼だな君🫵😒何を言ってるんだ🫵😒
天安門事件なんかより
真田昌幸安房守の亡くなった日の方が
何千倍も重要に決まってるだろ🫵😏
『天安門事件の方が重要だろ😒』
そう言った者はドコの国の人間なんだ😒



『ところで…
真田安房守昌幸って誰?🤔』
そんな風に思った人もいるんじゃないかな❓
真田安房守昌幸ってのは
真田左衛門佐信繁の親父だな🫵😒
『真田左衛門佐信繁って誰よ?』
そこから説明が必要なのか…
真田左衛門佐信繁っていうのは
あの有名な真田幸村の事だよ🫵😒



つまりだね真田安房守昌幸ってのは
真田幸村の親父のことなんだよ🫵😏
先ほども言ったが反日NHK大河ドラマ
真田丸では草刈正雄が演じてた人物が
真田安房守昌幸だな🫵😏
人気あったドラマだから知っている人も
諸君らの中にもいるんじゃないかな❓



さて真田安房守昌幸の一生
いつものようにザックリと振り返ってみようか🫵😏
真田安房守昌幸
天文16年(1547)
真田幸隆の三男として生まれてるんだ‼️
生誕月日❓知らんよ‼️ 記録にないからな🫵😏
幼名は源五郎で同母兄に長兄・真田信綱と‥
次兄・真田昌輝がいたから生まれた時点で 
昌幸は真田家の家督相続の権利は無かったんだ‼️

(⬇️父・真田幸隆)



ちなみに昌幸の下には
弟の真田信伊(さなだのぶただ)がいて
真田四兄弟として有名だったんだぞ‼️



昌幸の父・真田幸隆というのは
信濃の国衆(先方衆)だったんだぞ🫵😏
国衆(先方衆)っていうのは以前に
【乱世に散った小さな花の物語…】の回で
話をしてるから今回は説明は割愛‼️

国衆がわからない人は下をクリックして
ご覧ください⬇️
武田晴信(信玄)の信濃侵攻にともない
昌幸の父・真田幸隆武田晴信
従属する事にしたんだな🫵😒



そんな事もあって昌幸
天文22年(1553年 )8月
甲斐武田家人質としておくられたんだ‼️
まぁ~これは三男坊だし戦国のならいだよな🫵😒
昌幸この時まだ7歳⁉️
ここで昌幸武田晴信に気にいられて
奥近習衆に加わったんだ🫵😏
ちなみに奥近習衆ってのは将来の幹部候補として
武田晴信が自らの手元に置いて才能を伸ばす
甲斐武田家の側近中の側近なんだぞ🫵😏



昌幸武田晴信の母系・大井氏の支族である
武藤家の養子に入る事になり
武藤喜兵衛を名乗ることとなるんだ⁉️
おい‼️
真田じゃなくなっちゃったぞ⁉️😨
永禄7年(1564)に 山手殿と結婚‼️



永禄4年(1561年)
第四次・川中島の戦いで初陣‼️



永禄10年(1567)には父・真田幸隆が隠居し
兄・真田信綱が家督を継いだんだ ‼️

永禄12年(1569)
武田晴信と北条家との戦いである
三増峠の戦いでは一番槍の大活躍をしたんだぞ‼️
昌幸は無双の槍ばたらきで
鬼の武藤喜兵衛
こう呼ばれ敵に恐れられるほどだったんだ🫵😏



ちなみに武田二十四将って聞いた事あるだろ❓
その武田二十四将の中にゃさ
父・ 真田幸隆
長兄・真田信綱
次兄・真田昌輝
真田安房守昌幸
父と息子三人が入ってるんだぞ‼️
こんなの武田二十四将の中で真田家だけ⁉️



元亀3年(1572)
武田晴信徳川家康が激突した
三方ヶ原の戦いに従軍‼️
このあと何でも刃を交える
昌幸🆚家康
この二人の 第1ラウンドはココなんだな⁉️
ちなみにこの戦いで徳川家康
昌幸に散々追い回されて脱糞しながら
浜松城に逃げたって話があるんだよな🫵😏
だから第1ラウンドは昌幸の勝ちだな🫵😏



元亀4年(1573)
あっさりと武田信玄がポックリと病死…



武藤喜兵衛(昌幸)は甲斐武田家の
家督を継いだ武田勝頼に仕えるんだ‼️



天正3年(1575)
長篠・設楽ヶ原の戦い
武田勝頼織田・徳川軍大敗‼️
その混戦の最中で
真田信綱真田昌輝も戦死‥‥
これにより武藤喜兵衛昌幸)真田姓に戻し
真田家の家督を継ぐ事になったんだな‼️

天正6年(1578)
上杉謙信が死去し武田勝頼
上杉と甲越同盟を結び上野国の北条領に侵入‼️

天正7年(1579
昌幸は沼田城を攻略するために
名胡桃城(なぐるみじょう)を築城するんだな‼️
ちなみに昌幸は築城の名手でもあるんだぞ‼️



天正8年(1580)沼田城の攻略に成功‼️

天正9年(1581) 
武田勝頼の居城となる新府城の普請奉行に
昌幸はなっているんだぞ🫵😏



天正10年(1582)
余の倅…いや…信長の息子である
織田信忠を大将にし織田軍が武田領に侵攻‼️
天目山の戦に負け武田勝頼は自刃するんだ‼️



この時に昌幸武田勝頼を迎えるべく岩櫃城に
居たんだが武田勝頼の自刃の知らせがきて
真田家存亡の危機におちいるんだな‼️
ここで昌幸には3つの選択肢があったんだ🫵😏
1・上杉と組み織田軍と闘う‼️
2・北条と組み織田軍と闘う‼️
3・織田家に従属する‼️
武田家には2代に渡りつかえてきたわけだし
昌幸の家臣達は1か2を昌幸は選択し
3だけは絶対にないだろうと思ってたんだが…
なんと昌幸3を選択して余に…いや…
織田信長に従属する事にする道を選んだんだ‼️
余は…いや…織田信長昌幸に対し本領を
安堵し関東管領の滝川一益の配下になるように
命じたんだが……
その矢先に本能寺の変がおこり余は…いや…
織田信長本能寺で自刃…
せっかく苦渋の決断をし織田家に従属した
昌幸からしたら
『なんでこのタイミングで
死ぬかなぁ〜信長 😫
そんな感じだっただろうな‼️



ここで信濃の国衆達昌幸
佐久や小県の国衆の総大将にし団結するんだ‼️
同じ頃‥‥
滝川一益は神流川の戦で北条に敗北し
領国である伊勢へ退却する事に‼️
この時に昌幸滝川一益を諏訪まで
わざわざ送ってるんだよな⁉️
さて‥織田軍が居なくなってしめしめって事で
交通の要所である沼田を昌幸は占拠‼️
武田領は主がいない状態なんで徳川や上杉や北条が
武田領国を虎視眈々と狙ってたんだ🫵😒
上杉景勝が北信濃に6月24日に侵攻してくると
昌幸は上杉に臣従するふりをするんだが…
なんと⁉️ 7月9日には北条氏直に降るんだ⁉️
上杉と北条は川中島に進軍し対峙する事に…
だがその間に徳川家康が甲斐を奪取⁉️
そのため北条は甲斐にむけ転進し上杉は越後に帰国❗️
さてここで…
昌幸は今度は北条から徳川方についたんだ⁉️
この時には
『千曲川を上杉が渡ってくると危険だ!
上田の地に城を築いた方がいい!』
そう家康に進言し昌幸家康の命で上田城を
築城する事になるんだよな🫵😏
まさか家康も後に自分が築かせた上田城で
昌幸に2度に渡り苦しめられる事になるなんて
夢にも思ってなかっただろうにな🫵😏



だがここで問題が発生⁉️
ナント今度は徳川が北条と和睦してしまったんだ⁉️
しかも家康は勝手に北条に
『上野の沼田は北条にあげら~』(三河弁💦)
家康のこの仕打ちに対し昌幸は大激怒❗️
ここでなんと
昌幸は徳川を離れ上杉に従属する道を選ぶんだ❗️
この時に息子の真田左衛門佐信繁を上杉への
人質として越後に送っているんだぞ🫵😒
この辺りは何だかオセロゲームみたいだろ❓



天正13年(1585年)
真田領を狙って家康は鳥居元忠・大久保忠世・
平岩親吉に兵7000で上田城を攻めさせ
第一次上田城合戦がおきるんだ🫵😒



昌幸はたった2000の兵で徳川に勝利🫵😏



同年の冬には真田左衛門佐信繁が上杉景勝の人質から
盟主であるサル…いや…ボスザル…
いや…豊臣秀吉の人質として大坂へ‼️
昌幸は今度は豊臣家に臣従する事になるんだ⁉️
こうする事で真田家は上杉から独立し
信濃の国衆から大名になったわけだな⁉️



天正14年(1586)
徳川家康は真田討伐を企てて進軍するんだけど
豊臣秀吉の調停を受け家康は真田討伐を
中止せざるおえなくなるんだな🫵😏
でも‥‥この調停により昌幸豊臣秀吉
『おみゃ徳川の与力になりゃあせ!』
そう命じられ嫌々だが徳川家の与力になるんだ❗️
再び大名から与力に…実力派の昌幸からしたら
『何度戦っても家康なんかにゃ絶対に負けない!』
そういう自身があっただけに
この調停は悔しかっただろうなぁ~🫵😒

天正17年(1589年)
長年の揉め事となっていた沼田の件でサルの…いや…
豊臣秀吉の裁定が行われて北条には利根川以東が
割譲される事となり昌幸は代替地として
伊那郡箕輪領が与えられる事になるんだな❗️
この時に昌幸は一計を案じ
『名胡桃には我が真田代々の墓がありますゆえ
名胡桃城だけは真田の城としていただきたい』
そうサル‥‥いや‥豊臣秀吉に願いでるんだ🫵😏
『ええぞ🐒』そんな感じで秀吉は許可を出すんだ❗️
名胡桃城に真田代々の墓があるなんて大嘘で
名胡桃城ってのは沼田城と目と鼻の先にある城‥‥
沼田城を攻略するには欠かせない城なんだよ🫵😏
逆に北条からしたら名胡桃城に真田がいたら
いつも沼田城を狙われる形になるわけなんだよな❗️
そんな事もあはら北条氏家臣の猪俣邦憲が
名胡桃城を攻めてしまうんだよ🫵😒
昌幸の挑発は大成功❗️
猪俣邦憲の名胡桃城を攻めはサル…秀吉の出した
惣無事令に対する違反にあたるんだ❗️
これに怒った豊臣秀吉は北条征伐‥
つまり小田原攻めをする事にするんだな❗️

天正18年(1590) 小田原攻めに昌幸も参陣し
小田原攻めで北条家は滅亡‥

慶長3年(1598) 豊臣秀吉が死去‥

慶長6年(1600)
昌幸徳川家康の会津征伐軍に加わるも
石田三成挙兵の報せに
昌幸は真田左衛門佐信繁と共に西軍へつき
昌幸の息子の真田信之は東軍へ‥
これが有名な犬伏の別れ❗️



関ヶ原の戦の直前に昌幸真田左衛門佐信繁と共に
上田城に籠城して中山道を進軍してきた徳川秀忠と
第二次上田城合戦へ❗️
この第二次・上田城合戦で真田は
10倍以上の兵力を誇る徳川軍を撃退するんだ❗️


第二次上田城合戦で徳川秀忠を撃退するも
関ヶ原の戦で東軍が勝利したために昌幸は息子の
信繁と共に高野山への蟄居を家康に命じられる❗️
最初は高野山の麓の細川に入るんだけど
すぐに九度山村の真田庵に移されるんだな🫵😒
九度山村での生活は困窮を極め
昌幸は次第に病気がちになっていくんだな…
そして‥‥
慶長16年(1611)6月4日
最後は真田の郷に帰る日を夢みるも流刑地の 
九度山にて病死…
真田安房守昌幸  享年65




真田安房守昌幸の生き方を
『主君をコロコロかえる卑怯者だ😒💢』
そう非難する人も多いんだが
僕は真田安房守昌幸の生き方は大好きだな🫵😏
この戦国という時代の国衆達は周りの大きな勢力から
領地を必死に守り領民を必死に守ってきた❗️
また武士として家名や血統を必死に守ってきた❗️
前にも触れたが家名や血統は尊いのだ‼️
そのために主をかえながら昌幸は必死に闘い
策略を巡らせながらしたたかに戦国の世を
生き抜いてきたわけだ🫵😏
そういった意味で生涯負けなしの
真田安房守昌幸は立派だと僕は思うね‼️
昌幸の死後‥‥家康は豊臣家と戦をするんだが
その時に大坂城に真田が入ったと聞き家康
『それは親か?子か?』と言い
ガタガタと震えたというんだな🫵😏
まぁ〜徳川は昌幸に三回も大敗してるからな😏



三方ヶ原からはじまる
家康との因縁の中で昌幸は一度も
徳川に負けず戦い抜き死してなお
家康を怯えさせたわけだよな🫵😏
こんな痛快な人生があるだろうか❓
我々は平和な時代の
武士道という目線で昌幸を見て
『主君をコロコロかえるズルい奴』
そう見るんじゃなく
昌幸士道から
生き抜く力というものに着目し
それを真剣に
学んでいくべきなんじゃないか❓
そこに僕は日本を守るヒントが
隠されているような気がする‥
諸君は真田安房守昌幸の生き方を
どう思うかね❓🫵😏



皆さん‼️

どう思いますか❓

共に日本のために‼️

全ては日本のために‼️