こんばんは😁
 今日も元気なHickeyです😁
突然のクイズだが…
諸君は平成がいつまでだったか覚えているかな❓
平成は31年まであったんだが
平成最後の日
これは平成31年4月30日までだったんだな‼️
昭和から平成への御代がわり
平成から令和への御代がわり
全く違う形式となりましたが覚えているかね❓
どんな日だったかは過去のブログで話をしてるから
下をクリックして御覧ください⬇️



さて昨日は【昭和の日…】

そういう題で話をさせていただきました‼️


まだ御覧になってない方は

下をクリックして御覧ください⬇️


この回にコメントが寄せられているので

ここで紹介させていただきます☝️😁

オヤジ戦隊ダジャレンジャーさん😁


このオヤジさんのコメントというのは僕が以前

お話しをした國體とは何ぞやへと

繋がっていく話ともいえると思います‼️


オヤジ戦隊ダジャレンジャーさん😁

コメントありがとうございました😁





【Hickeyの暦の部屋】


今日4月30日から七十二候は

二十四節気《穀雨》の末候

【牡丹華】に入ったよ😁

(ぼたんはなさく)

【牡丹華】というのは

【牡丹の花が咲く時期になったよ】

そういった意味だね😊

牡丹は春の終わりを告げる花…

いよいよ夏がくる☀️



牡丹の花の写真を撮影しブログに掲載しようと

辺りをキョロキョロしてみたんだがね…

案外と牡丹の花って街中で見かけないんだな😨

考えてみたら牡丹の花って公園とかで

近年あまり見なくなったと思わないか❓🤔

僕の周りだけなのかな❓🤔

牡丹の花かと思って近寄ってよく見たら

芍薬(しゃくやく)だっなんて事もあるしな😨💦

ちなみにこれが牡丹で‥‥




こっちが芍薬😅💦




まぁ~牡丹芍薬も同じ

ボタン科ボタン属だから似て当たり前か😅



七十二候牡丹華が終わると

二十四節気の穀雨も終わって立夏だ😎

晩春も終わりいよいよ初夏に入るんだな😎

いきなり最高気温35℃くらいになっても

僕は全然かまわないんだけなぁ😎

暑いの大好き😎



さてここからが本題です‼️

今日のテーマは

戦國の時代の女性】です‼️



山あいに

    かなしき姫の

                声ぞきき

                   その身を思い

                           我は泣きぬる

                                                 

         ~Hickey~




さて今日の話は戦國時代ある女性の話なんだがね…

なぜ急にこんな話をするかというと実は

ある人から『地元の宣伝をしてくれないか🙏』

そう頼まれたからなんだな‼️

最後に宣伝が入る形となるが真面目に話すから

申し訳ないが最後まで付き合ってくれたまえ‼️

さて…諸君ら戦国時代というと

どんなイメージが頭に浮かんでくるかね❓

織田信長武田信玄などの戦国大名とか‥‥




お城とか‥‥




甲冑とか‥‥



合戦とか‥




戦国時代なんていうから

ずっと戦ってるイメージを持つ人もいるだろうし…

でも当然ながら戦国時代にも平時とか

有事というものは存在するし合戦をするのは

武士だけじゃなくも参加をするし

それらを支える人達もいるんだよな🫵😒

そんな乱世の時代に散った

一人の女性の話を今日はします❗️

その名は…

於ふう

(おふう)




諸君は数年前にあの反日で有名なNHKが放送した

大河ドラマ【真田丸】を視聴していたかね❓🫵😒

えっ⁉️視聴してた❓けしからんな😏(笑)




あの物語は父・真田安房守昌幸

その子である長男・真田源三郎信之

次男・真田源二郎信繁(幸村)という親子を

中心に真田家の人々が戦国乱世の世を

どう歩んでいったのかって話だったね🫵😒




物語のスタート時には真田家

甲斐・武田家の国衆だったんだんだが

甲斐・武田家では信玄が亡くなり

息子の勝頼に代替わりをしていたんだな🫵😒

その甲斐に織田信長が侵攻‼️

勝頼は敗れて武田家は滅亡‼️

そんな感じで物語はスタートしたんだ🫵😒




ちなみに国衆ってのは守護大名の領地

土着してたいわゆる地侍の事だ‼️

つまり真田家大名じゃないんだな🫵😒

全国の守護大名の下には国衆

いっぱいいたって事わけだな🫵😒

ちなみに

真田家は信濃・真田の郷の国衆




武田家の国衆だった真田家からしたら

武田家の滅亡っていうのは一大事‼️

そこで真田安房守昌幸

この真田家を

滅亡させないためにどうするか‥

そう必死に考えて悩む訳だな🫵😒

上杉に従属し守ってもらうか‥‥

北条に従属し守ってもらうか‥‥

単独で織田軍と戦うのか‥‥

織田信長に従属するのか‥‥




悩んだ挙句に真田安房守昌幸

織田信長に従属する事によって

真田家の滅亡を避けたわけなんだな🫵😒




だがそれも束の間の平和であって

織田信長が本能寺で明智光秀の謀叛にあい

織田信長が亡くなったしまったため

真田安房守昌幸は敵対していた上杉家

息子の源二郎信繁を人質に出すことによって

上杉家に従属したりその上杉家

豊臣秀吉🐒の傘下に入ると今度は

豊臣秀吉🐒に従属したりしてコロコロと

主君をかえながらも真田家真田の領地

真田の民守り抜いていったわけだな🫵😒

『何だか真田安房守昌幸って

もの凄くズルい人だな~😒』

そう思う者も諸君らの中にはいるだろうがね😒

何もこんなのは

真田安房守昌幸だけの話じゃなくてだね

全国の国衆達が正直こんな感じであって

それぞれの乱世の世の中で生き残りをかけて

を守り領地を守り抜くためには

至極当たり前の話だったんだよ🫵😒

諸君が思っている武士道

乱世を生きていた彼らの士道というのは

全く違うものだからね🫵😒







さて‥

真田安房守昌幸がつかえていたのが

武田氏の武田勝頼だったわけだが…

その武田家滅亡のきっかけになったのが

天正3年(1575)5月21日

設楽ヶ原の戦い‼️

ある程度の年の人は長篠の合戦って学校で

習っているのかな❓🤔

いいかね‼️ 

長篠の合戦と設楽ヶ原の合戦は戦場が別‼️

これは一連の戦だから正しくは

長篠・設楽ヶ原の合戦‼️




この長篠・設楽ヶ原の合戦の時に

長篠城の城主をしていたのは

奥平貞昌

(おくだいらさだまさ・後の奥平信昌)

弱冠21歳の若武者だったんだぞ❗️😒




 

この奥平氏というのは

奥三河の作手という所の国人国衆‼️

貞昌の祖父にあたる貞勝の代までは

今川氏に従っていたんだが今川義元

永禄3年(1560)5月19日

桶狭間の合戦で敗死してしまうだろ❓

だから‥‥

その後に奥平氏奥平貞勝の子の

奥平貞能(さだよし)の代からは

徳川家康の傘下に入ったんだな🫵😒




だが地図で見てもらえばわかるように

奥三河は国境地帯(今の県境)だからね

武田徳川の領土争いの舞台になるんだな🫵😒

そんな紛争地域の奥三河に武田信玄

侵攻してきた際に奥平氏武田宇治

従属する事により奥平家奥平の領土

を守ることにしたんだね‼️

その時に奥平貞能は息子の奥平貞昌

嫁である於ふう(13歳)と

貞能の次男である仙千代(10歳)と

奥平勝次の次男の虎之助(13歳)を

武田氏に人質として差し出したんだな🫵😒

たが‥‥‥元亀4年(1573)

駒場にて武田信玄が死去‥‥

同年7月に徳川家康長篠城を包囲すると

長篠城の城主だった菅沼正貞

城を放棄して逃げ出してしまいこれによって

長篠城徳川の城になったわけだな🫵😒

これを機に奥平貞能武田氏から離れ

徳川氏へ帰参し息子である貞昌長篠城

城主にしてしまうんだな‼️

『あの…

人質の事を忘れちゃいませんか😅』

そう思った者もいるかと思う…

当然ながら忘れてなんかいないよ🫵😒

貞昌武田氏

人質に差し出され16歳になっていた

於ふうに離縁状を送り離縁するんだな‼️

つまり武田氏に対して

『離縁したんだから

於ふうは奥平の者にあらず!

即時解放してやってくれ!!』

そう貞昌はアピールしたって事だな🫵😒

何とかして助けてあげたかったんだろうなぁ‥‥

だがその願いも通じることなく

元亀4年(1573)9月21日

武田勝頼山県昌景に命じて

奥三河・鳳来寺山にある

鳳来寺の表参道口・金剛堂前

仙千代を鋸引きで処刑‥‥

虎之助仙千代の処刑された場所にほど近い

万寿坂で殺害転々

於ふうは今の鳳来寺小学校近くの

マイマイ坂(現・コオリ坂)にて

磔にし処刑してしまうんだな‥

於ふうは処刑される直前に

『来世で自分は

畜生に生まれたいと思います!

畜生はおのれに

正直に生きていけますが

人は互いに騙し合わねば

生きていけません!!

人は畜生以上に

浅ましいものでございます!

そう言い残したと言われてるんだ‥‥


於ふう 享年16歳…



幼い3人は処刑後に表参道口にて晒し首されたんだ‥

その夜‥‥乳母が3人の首を盗みだし

広祥院に埋葬されたんだそうだよ🙏






こちらは仙千代の墓🙏





こちらは於ふうの墓🙏




今日の冒頭に詠んだ和歌は

於ふうを思い俺が詠んだものだ‼️

於ふうの死を伝え聞いた

貞昌の気持ちはいかばかりだっただろうね…

於ふうへの思いが設楽ヶ原の合戦時の

長篠籠城の頑張りに繋がったのかもしれない‥







於ふうの死を背負い生きていく貞昌

設楽ヶ原の戦の働きを信長に褒められて

信長の名から信の字をもらい信昌に改名‼️

また設楽ヶ原の戦の翌年となる

天正4年(1576)には

徳川家康の長女・亀姫と結婚‼️

この後 の奥平信昌は岐阜加納城に転封となり

10万石の大名へと出世していくんだな🫵😒

こうして奥三河の国人国衆だった

奥平家奥平信昌の代に大名になり

それを礎にして幕末まで家名を存続させたんだよ‼️

だが‥その繁栄の陰では於ふうという

尊き犠牲があった事を忘れちゃいけないよな‼️

今日は乱世のならいとはいえ若干16歳で

山あいに散った戦国の世の小さき花…

於ふうの話でした‼️


GWまだ行く所を決めてない人‼️

愛知県新城市の長篠城跡で

5月3日〜5月5日まで

のぼりまつり

これが開催されます‼️

この祭りを見に行って

今日の於ふうの話に出てくる

鳳来寺山の鳳来寺まで

足を伸ばしてみませんか😁

この宣伝を地元の方々から頼まれて

今日のブログとなりたした🙏

愛知県で待ってるよ😁👍