さて昨日は【昭和の日…】
そういう題で話をさせていただきました‼️
まだ御覧になってない方は
下をクリックして御覧ください⬇️
この回にコメントが寄せられているので
ここで紹介させていただきます☝️😁
オヤジ戦隊ダジャレンジャーさん😁
このオヤジさんのコメントというのは僕が以前
お話しをした國體とは何ぞやへと
繋がっていく話ともいえると思います‼️
オヤジ戦隊ダジャレンジャーさん😁
コメントありがとうございました😁
【Hickeyの暦の部屋】
今日4月30日から七十二候は
二十四節気《穀雨》の末候
【牡丹華】に入ったよ😁
(ぼたんはなさく)
【牡丹華】というのは
【牡丹の花が咲く時期になったよ】
そういった意味だね😊
牡丹は春の終わりを告げる花…
いよいよ夏がくる☀️
牡丹の花の写真を撮影しブログに掲載しようと
辺りをキョロキョロしてみたんだがね…
案外と牡丹の花って街中で見かけないんだな😨
考えてみたら牡丹の花って公園とかで
近年あまり見なくなったと思わないか❓🤔
僕の周りだけなのかな❓🤔
牡丹の花かと思って近寄ってよく見たら
芍薬(しゃくやく)だっなんて事もあるしな😨💦
ちなみにこれが牡丹で‥‥
こっちが芍薬😅💦
まぁ~牡丹も芍薬も同じ
ボタン科ボタン属だから似て当たり前か😅
七十二候牡丹華が終わると
二十四節気の穀雨も終わって立夏だ😎
晩春も終わりいよいよ初夏に入るんだな😎
いきなり最高気温35℃くらいになっても
僕は全然かまわないんだけなぁ😎
暑いの大好き😎
さてここからが本題です‼️
今日のテーマは
【戦國の時代の女性】です‼️
山あいに
かなしき姫の
声ぞきき
その身を思い
我は泣きぬる
~Hickey~
さて今日の話は戦國時代ある女性の話なんだがね…
なぜ急にこんな話をするかというと実は
ある人から『地元の宣伝をしてくれないか🙏』
そう頼まれたからなんだな‼️
最後に宣伝が入る形となるが真面目に話すから
申し訳ないが最後まで付き合ってくれたまえ‼️
さて…諸君らは戦国時代というと
どんなイメージが頭に浮かんでくるかね❓
織田信長や武田信玄などの戦国大名とか‥‥
お城とか‥‥
甲冑とか‥‥
合戦とか‥
戦国時代なんていうから
ずっと戦ってるイメージを持つ人もいるだろうし…
でも当然ながら戦国時代にも平時とか
有事というものは存在するし合戦をするのは
武士だけじゃなく民も参加をするし
それらを支える人達もいるんだよな🫵😒
そんな乱世の時代に散った
一人の女性の話を今日はします❗️
その名は…
於ふう
(おふう)
諸君は数年前にあの反日で有名なNHKが放送した
大河ドラマ【真田丸】を視聴していたかね❓🫵😒
えっ⁉️視聴してた❓けしからんな😏(笑)
あの物語は父・真田安房守昌幸と
その子である長男・真田源三郎信之と
次男・真田源二郎信繁(幸村)という親子を
中心に真田家の人々が戦国乱世の世を
どう歩んでいったのかって話だったね🫵😒
物語のスタート時には真田家は
甲斐・武田家の国衆だったんだんだが
甲斐・武田家では信玄が亡くなり
息子の勝頼に代替わりをしていたんだな🫵😒
その甲斐に織田信長が侵攻‼️
勝頼は敗れて武田家は滅亡‼️
そんな感じで物語はスタートしたんだ🫵😒
ちなみに国衆ってのは守護大名の領地に
土着してたいわゆる地侍の事だ‼️
つまり真田家は大名じゃないんだな🫵😒
全国の守護大名の下には国衆が
いっぱいいたって事わけだな🫵😒
ちなみに
真田家は信濃・真田の郷の国衆
武田家の国衆だった真田家からしたら
武田家の滅亡っていうのは一大事‼️
そこで真田安房守昌幸は
この真田家を
滅亡させないためにどうするか‥
そう必死に考えて悩む訳だな🫵😒
上杉に従属し守ってもらうか‥‥
北条に従属し守ってもらうか‥‥
単独で織田軍と戦うのか‥‥
織田信長に従属するのか‥‥
悩んだ挙句に真田安房守昌幸は
織田信長に従属する事によって
真田家の滅亡を避けたわけなんだな🫵😒
だがそれも束の間の平和であって
織田信長が本能寺で明智光秀の謀叛にあい
織田信長が亡くなったしまったため
真田安房守昌幸は敵対していた上杉家に
息子の源二郎信繁を人質に出すことによって
上杉家に従属したりその上杉家が
豊臣秀吉🐒の傘下に入ると今度は
豊臣秀吉🐒に従属したりしてコロコロと
主君をかえながらも真田家と真田の領地と
真田の民を守り抜いていったわけだな🫵😒
『何だか真田安房守昌幸って
もの凄くズルい人だな~😒』
そう思う者も諸君らの中にはいるだろうがね😒
何もこんなのは
真田安房守昌幸だけの話じゃなくてだね
全国の国衆達が正直こんな感じであって
それぞれの乱世の世の中で生き残りをかけて
家を守り領地を民を守り抜くためには
至極当たり前の話だったんだよ🫵😒
諸君が思っている武士道と
乱世を生きていた彼らの士道というのは
全く違うものだからね🫵😒
さて‥
真田安房守昌幸がつかえていたのが
武田氏の武田勝頼だったわけだが…
その武田家滅亡のきっかけになったのが
天正3年(1575)5月21日
設楽ヶ原の戦い‼️
ある程度の年の人は長篠の合戦って学校で
習っているのかな❓🤔
いいかね‼️
長篠の合戦と設楽ヶ原の合戦は戦場が別‼️
これは一連の戦だから正しくは
長篠・設楽ヶ原の合戦‼️
この長篠・設楽ヶ原の合戦の時に
長篠城の城主をしていたのは
奥平貞昌
(おくだいらさだまさ・後の奥平信昌)
弱冠21歳の若武者だったんだぞ❗️😒
この奥平氏というのは
奥三河の作手という所の国人国衆‼️
貞昌の祖父にあたる貞勝の代までは
今川氏に従っていたんだが今川義元が
永禄3年(1560)5月19日
桶狭間の合戦で敗死してしまうだろ❓
だから‥‥
その後に奥平氏は奥平貞勝の子の
奥平貞能(さだよし)の代からは
徳川家康の傘下に入ったんだな🫵😒
だが地図で見てもらえばわかるように
奥三河は国境地帯(今の県境)だからね
武田と徳川の領土争いの舞台になるんだな🫵😒
そんな紛争地域の奥三河に武田信玄が
侵攻してきた際に奥平氏は武田宇治に
従属する事により奥平家と奥平の領土と
民を守ることにしたんだね‼️
その時に奥平貞能は息子の奥平貞昌の
嫁である於ふう(13歳)と
貞能の次男である仙千代(10歳)と
奥平勝次の次男の虎之助(13歳)を
武田氏に人質として差し出したんだな🫵😒
たが‥‥‥元亀4年(1573)
駒場にて武田信玄が死去‥‥
同年7月に徳川家康が長篠城を包囲すると
長篠城の城主だった菅沼正貞は
城を放棄して逃げ出してしまいこれによって
長篠城は徳川の城になったわけだな🫵😒
これを機に奥平貞能は武田氏から離れ
徳川氏へ帰参し息子である貞昌を長篠城の
城主にしてしまうんだな‼️
『あの…
人質の事を忘れちゃいませんか😅』
そう思った者もいるかと思う…
当然ながら忘れてなんかいないよ🫵😒
貞昌は武田氏に
人質に差し出され16歳になっていた
於ふうに離縁状を送り離縁するんだな‼️
つまり武田氏に対して
『離縁したんだから
於ふうは奥平の者にあらず!
即時解放してやってくれ!!』
そう貞昌はアピールしたって事だな🫵😒
何とかして助けてあげたかったんだろうなぁ‥‥
だがその願いも通じることなく
元亀4年(1573)9月21日
武田勝頼は山県昌景に命じて
奥三河・鳳来寺山にある
鳳来寺の表参道口・金剛堂前で
仙千代を鋸引きで処刑‥‥
虎之助は仙千代の処刑された場所にほど近い
万寿坂で殺害転々
於ふうは今の鳳来寺小学校近くの
マイマイ坂(現・コオリ坂)にて
磔にし処刑してしまうんだな‥
於ふうは処刑される直前に
『来世で自分は
畜生に生まれたいと思います!
畜生はおのれに
正直に生きていけますが
人は互いに騙し合わねば
生きていけません!!
人は畜生以上に
浅ましいものでございます!』
そう言い残したと言われてるんだ‥‥
於ふう 享年16歳…
幼い3人は処刑後に表参道口にて晒し首されたんだ‥
その夜‥‥乳母が3人の首を盗みだし
広祥院に埋葬されたんだそうだよ🙏
こちらは仙千代の墓🙏
こちらは於ふうの墓🙏
今日の冒頭に詠んだ和歌は
於ふうを思い俺が詠んだものだ‼️
於ふうの死を伝え聞いた
貞昌の気持ちはいかばかりだっただろうね…
於ふうへの思いが設楽ヶ原の合戦時の
長篠籠城の頑張りに繋がったのかもしれない‥
於ふうの死を背負い生きていく貞昌は
設楽ヶ原の戦の働きを信長に褒められて
信長の名から信の字をもらい信昌に改名‼️
また設楽ヶ原の戦の翌年となる
天正4年(1576)には
徳川家康の長女・亀姫と結婚‼️
この後 の奥平信昌は岐阜加納城に転封となり
10万石の大名へと出世していくんだな🫵😒
こうして奥三河の国人国衆だった
奥平家は奥平信昌の代に大名になり
それを礎にして幕末まで家名を存続させたんだよ‼️
だが‥その繁栄の陰では於ふうという
尊き犠牲があった事を忘れちゃいけないよな‼️
今日は乱世のならいとはいえ若干16歳で
山あいに散った戦国の世の小さき花…
於ふうの話でした‼️
GWまだ行く所を決めてない人‼️
愛知県新城市の長篠城跡で
5月3日〜5月5日まで
のぼりまつり
これが開催されます‼️
この祭りを見に行って
今日の於ふうの話に出てくる
鳳来寺山の鳳来寺まで
足を伸ばしてみませんか😁
この宣伝を地元の方々から頼まれて
今日のブログとなりたした🙏
愛知県で待ってるよ😁👍