こんばんは😊
1日1ブログが目標なのに
一日お休みを頂いたHickeyです🙏
昨日は仕事上のトラブルが発覚しその対応で終日
ずっとドタバタしてブログの執筆時間がとれず😨
プロの文筆家じゃないんでこんな日もありますが
これからも宜しくお願いしますね🙏



元気ですかっ‼️

元気があれば何でもできる‼️

きょうはA・猪木デー✊😁




【Hickey今日は何の日?🤔

     


昭和51年6月26日

【格闘技世界一決定戦】として

アントニオ猪木🆚モハメド・アリが

日本武道館でおこなわれたんだ❗️

死闘の結果は15R引き分け…



令和元年6月26日

アントニオ猪木が政界を引退❗️


『体調も壊し

 元気を売る人間が

 元気を売れなくなってしまった』


6月26日は

【A・猪木の日】という

国民の祝日にしようぜ㊗️✊😊

1、2、3、ダァ〜✊😁




【Hickeyの今日は何の日❓🤔】

     

延長8年(930)6月26日

清涼殿に落雷し公卿2人が即死⁉️

これが菅原道眞の怨霊の仕業だと

噂が流れたんだよ😱

何でかって❓🤔

答えを知りたい人は

過去の僕のブログを見てみて⬇️





【Hickeyの暦の部屋🤔】


今日6月26日から七十二候は

二十四節気《夏至》の次候

【菖蒲華】に入ったよ😎

(あやめはなさく)

【菖蒲華】というのは

アヤメが花を咲かせる頃で

それと同時に梅雨がくるので


昔の農家さん達はアヤメの咲くのを

今か今かと待ちながら梅雨の到来を

首を長くして待ってたんだよ☔️

稲作には水が必要だもんな🌾😊

今年の愛知県は

今のところ空梅雨気味だけど

さぁ~梅雨の後半は雨が降るかな❓

今日6月26日からは

七十二候の

【菖蒲華(あやめはなさく)】だよ❗️



前回は【せいしょこさんに祈る…】

そういう題で話をさせていただきました‼️


まだ御覧になってない方は

下をクリックして御覧ください⬇️



さて今日の本題はここから‼️

今日のテーマは【逃げ恥】です‼️


(この逃げ恥じゃない😅💦 ⬇️)



【Hickeyの今日は何の日?🤔】

     

天保4年(1833)6月26日

桂小五郎(後の木戸孝允)が

長門国萩城下呉服町で

(現:山口県萩市呉服町)

生まれたんだよ❗️



諸君は桂小五郎を知っているかね❓🫵😏


『知ってる!知ってる!名探偵コナンくんの☝️😏』

おぃ😒本気で言ってんのか❓🫵😒

それは毛利小五郎だろうが🫵😒



『知ってる!知ってる!奥さんメチャ美人な人😍』

そうそう奥さんは綺麗な幾松さんな‥

って‥おぃ😒

それは桂小五郎じゃなくて奥さんの話だろ🫵😒




桂小五郎って維新三傑と言われてる割には

地味ぃ~な存在なんだよな🤔


天保4年(1833)6月26日‥‥

桂小五郎長門国萩城下呉服町(現・山口県萩市)

毛利元就の7男・天野元政の子孫である

萩藩医・和田昌景の長男として生まれたんだな🫵😒

つまり和田小五郎だったわけだな🤔

お母さんは和田昌景の後妻さんで小五郎には

前妻が生んだ異母姉が2人いたんだ‼️

さて小五郎くん‥小さい頃メチャ病弱だったんだ⁉️

だから長男なんだけど和田家は長女に婿養子をとり

その文讓を跡継ぎとしたんだが長女が亡くるんだ⁉️

だから今度は

次女が婿養子・文讓の後妻さんになるんだわな⁉️

名門ながらもちょっと複雑な家系だな🤔

そんな事もあったもんだから天保11年(1840)

小五郎くんは7歳の時に向かいに住んでいた

桂九郎兵衛孝古(家禄150石)の末期養子となり

長州藩の大組士っていう

武士の身分と禄を得る事となるんだな🫵😏

つまり和田家から桂家に養子に出たから

桂小五郎

そう名乗り身分も武士になったわけだな❗️

でも養子に出た翌年‥桂家の養母も亡くなるんだ⁉️

だから桂小五郎は生家である和田家に戻り

また実父母や姉と共に暮らす事になるんだよな🫵😒

ただ姉の所に養子に入った旦那さんが和田家の

家督を継いでいるからな🤔

だから一緒に和田家で暮らすようになったってだけで

名前は桂小五郎のままなんだな‼️







さて小五郎くんだがね病弱な割に武勇伝も残っていて

かなり悪戯好きな子だったみたいだな🫵😏

萩城下の松本川を行き来する船を船頭ごと転覆させて

快哉を叫ぶという悪戯に熱中してたらしいんだな😱

ある日のこと船をひっくり返すために水面から

顔を出し船縁に手をかけたところ‥‥

船頭に櫂で思い切り頭を叩かれちゃうんだ😖

悪戯され続けてきた船頭も遂にキレたんだろうな❗️

小五郎くん‥‥額から血を流しニタニタ笑いながら

陸にあがったそうだよ😱

さて‥そんな悪戯をして過ごした小五郎くん‥

他方では藩主・毛利敬親による親試で2度ほど褒賞を

受け長州藩の若き俊英として注目されてたんだ❗️

ただの悪戯好きじゃなく頭も良かったんだな🫵😏

嘉永元年(1848)

姉と実母を相次いで病気で失い悲しみの余り

病床に臥してしまった小五郎は周囲に出家すると

ギャーギャーわめい騒ぎまくったそうだよ❗️

ちなみに元服もこの年にしてるんだぞ🫵😏

嘉永2年(1849)

吉田松陰山鹿流兵学を学び

『事をなすの才あり』と評されるんだ❗️

松蔭は20歳‥‥小五郎は17歳‥

松蔭とは年齢も近かった事もあり師弟っていうより

兄弟みたいな仲だったらしいな🫵😏




子供の頃あんなに病弱で養子に出されたのに

桂小五郎って実は剣術の達人って知ってたか❓

弘化3年(1846

長州藩の柳生新陰流・内藤作兵衛の道場に入門❗️

嘉永5年(1852)

萩を訪れた神道無念流・斎藤新太郎と出会い

小五郎は藩に江戸遊学の許可をもらい

私費で江戸に剣術修行に出るんだぞ⁉️🫵😒

そこで練兵館に入門し免許皆伝を得て

更に練兵館の塾頭を務めようにまでなったんだ⁉️





ちなみに新撰組・近藤勇小五郎の事を

『恐ろしい以上に

    手も足も出なかったのが桂小五郎だ😨』

そんな風に評価してるんだぞ🫵😒




小五郎が江戸に出た翌年となる

嘉永6年(1853)

黒船来航




この黒船来航に大きな刺激を受けた小五郎

剣術の師である斎藤弥九郎の仲介で

伊豆韮山代官の江川太郎左衛門に入門🫵😒

西洋兵学を学びだしたんだな⁉️

他にも浦賀奉行与力・中島三郎助から造船術を

長州藩士の手塚律蔵からは英語を学ぶなどして

欧米列強に負けないために!

そう最新知識を吸収する努力をしたんだ🫵😏

やはりもともと頭がいいからな🫵😏

万延元年(1860)

水戸藩尊王攘夷派と密約を結び同じ長州藩の

高杉晋作や…




久坂玄瑞などと

尊王攘夷運動の指導的立場となっていくんだ❗️




でも晋作玄瑞小攘夷論だけど

小五郎大攘夷論だからね🫵😏

小五郎

当時は開国派と呼ばれてた勝海舟




横井小楠とも会い意見交換をしているんだ❗️




またオランダ語や英語に通じた

村田蔵六(のちの大村益次郎)

小五郎が長州藩に推挙したりもしてるんだぞ❗️




文久3年(1862)小五郎は上洛し

他藩渉外役・政務座副役などの

長州藩の重役になるんだ 🫵😒

でも諸君らも知っての通り…

文久3年(1863)

八月十八日の政変がおきるんだよな🫵😒




これにより長州藩朝廷内の尊攘派公卿は失脚し

多くの者は国許(長州)に引き揚げる中で

小五郎は京に残り活動を続けるんだな🫵😏




元治元年(1864)

池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの

尊王攘夷派志士新選組が襲撃❗️

池田屋事件がおきたんだな🫵😏

でも小五郎は予定より早く池田屋につき

一旦は池田屋を出て対馬藩邸

話をしていたために間一髪で難を逃れるんだ⁉️




元治2年(1865)

上洛した長州軍が御所へと向かい薩摩会津などの

幕府方に撃退される禁門の変が起きるんだ❗️

この禁門の変では長州の若きリーダーの1人

久坂玄瑞が亡くなってるんだぞ🫵😏




この禁門の変

長州藩朝敵の烙印を押されるんだな🫵😒

小五郎は乞食に身をやつし橋の下に潜伏⁉️

それを当時は芸妓だった幾松

食べ物を運んだりして助けているんだよな🫵😏

幾松は後に小五郎の奥さんになるんだぞ🫵😏




長州藩幕府から

長州征伐

これをを受ける事になるんだが小五郎

対馬藩の手引きで但馬出石にまたもや潜伏⁉️

こんな事が続いたもんだから

【逃げの小五郎】

そんなありがたくないイメージが

後世にまでも浸透してしまったんだろうな🫵😏

だがね小五郎は決して自分の身が可愛くて

逃げたり潜伏生活をしていた訳じゃないんだぞ🫵😒

國のために生きのびる道

これを選択したからこそ橋の下で暮らすような

恥辱も耐えきれたんだよな🫵😏




幕府の前に一度は恭順した長州藩‥‥

でも高杉晋作らの決起によって藩政府は転覆⁉️

慶応元年(1865)

ようやく小五郎は長州に帰国できたんだよな🫵😏

慶応2年(1866)

禁門の変以降仲が悪かった長州薩摩

大攘夷を成し遂げるために結ぼうと坂本龍馬

中岡慎太郎が奔走し京都でようやく

薩長同盟

これが結ばれたんだ🫵😏




この時の

長州の代表は桂小五郎❗️

薩摩の代表は西郷隆盛❗️




この時の働きを評価し長州藩主・毛利敬親

桂小五郎に【木戸】姓を与え名乗らせるんだ⁉️

ここから木戸孝允になるわけだよね🫵😏




薩摩藩からの武器援助などもあって同年6月からの

第二次長州征伐では長州藩は幕府軍に圧勝して

翌年の慶応3年(1867)

大政奉還




王政復古の大号令

これが出され新政府が発足したんだ❗️




明治新政府で木戸孝允は

参議や文部卿などを歴任🫵😏




さらに岩倉使節団全権副使として

欧米を歴訪するんだな🫵😏




その後も版籍奉還廃藩置県など政策を

次々と実行していくんだな🫵😏

だが朝鮮への使節派遣や台湾出兵に反対‥‥

出兵が強行されると辞職をするんだな🫵😒

その後に政府に請われて参議に復職⁉️

明治10年(1877)

西南戦争が勃発❗️

木戸孝允は盟友・西郷隆盛を説得するため

薩摩にむかうんだけどな…

その道中である京都で病に倒れてしまうんだ⁉️

木戸孝允は見舞いに訪れた

大久保利通の手を握りながら

『西郷もいい加減にせんか!』

そう言いのこし亡くなるんだな‼️

木戸孝允  享年45




最後まで日本という国を案じながら

木戸孝允は亡くなった…

木戸孝允は多くの幕末の志士が眠る

京都の霊山墓所に奥さんの幾松と

並び今も静かに眠っています‥‥

今の日本というは木戸孝允の目には

どのように見えているんだろうな❓




(霊山墓所から見た京のまち⬇️)





僕は自分の祖先が旧幕府軍として幕末の上野戦争で

彰義隊に参加して亡くなっているからね🫵😒

どうしても旧幕府軍に肩入れをしてしまうし

薩長をはじめとする新政府軍(官軍)は嫌いだ❗️

だが好き嫌いで國史を語るべきじゃない❗️

今日の桂小五郎(木戸孝允)

前に話をした大久保利通の回もなるべく

中立的な立場で話たつもり🫵😒

もしも所々にトゲがあったと感じたならば

我が祖先の辿った運命というのを御理解いただき

御容赦を願えたらと思う❗️



皆さん‼️

どう思いましたか❓

共に日本のために‼️

全ては日本のために‼️