こんばんは😊
本日2話目のHickeyです😁
いや〜今日も暑い一日でしたな😎 ビバ快晴☀️
梅雨入りってしたんだよな❓🤔
お昼に温度計を見たら余裕で30℃をこえてた😎☀️
熱中症に要注意⚠️
気をつけな‼️
オレに触るとヤケドするぜ🔥(笑)



さて昨日は【沖縄で散華された全ての人々へ】

そういう題で話をさせていただきました‼️


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今日はブログのダブルヘッダー⁉️

本日の1話目は【長坂代議士との車座会議に…】

そういう題で話をさせていただきました‼️


『6月22日の話をもう少し聞きたい!』

そうX(旧Twitter)のDMでリクエストがきたため

急遽サラサラっと…


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今日の本題はココからです❗️

今日のテーマは【清正】です❗️


【Hickeyの今日は何の日❓🤔】

     

慶長16年(1611)6月24日

加藤清正が亡くなったんだ😔

享年 49



諸君は加藤清正って聞いて

どんなイメージを頭に思い浮かべるかね❓🫵😏

『熊本城を築城した人🤔』『虎退治をした人🤔』

そんなイメージを持っているんじゃないか❓




ほとんどの人が加藤清正って聞くと

肥後熊本がスクに頭に浮かぶんだろが…

実は尾張(愛知県)生まれなんだよな🫵😏


永禄5年(1562)6月24日

清正尾張の中村(現・名古屋市中村区)という所で

刀鍛冶をやってた父・加藤清忠と母・伊都の間に

生まれたんだな❗️ 武士の子じゃないんだな🤔

幼名は夜叉若くん‼️

もう気づいた人もいるだろうか清正は生まれた日と

亡くなった日が同じ6月24日なんだよな⁉️

まぁ〜これは旧暦の話だがね🫵😏

新暦にすると生まれは7月25日‼️

亡くなったのは8月2日って事になるけどな…

尾張の中村といえば‥

サル🐒…豊臣秀吉も実は中村の生まれなんだ⁉️





ちなみにサル🐒…

秀吉の母・なかと清正の母・伊都は従姉妹なんだぞ⁉️

清正の生まれた所というのは現在

妙行寺(みょうぎょうじ)っていう

寺院になっているんだぞ🫵😏


この妙行寺(みょうぎょうじ)

清正が建立した寺院でありサル🐒…

秀吉の生まれた所のすぐ隣にあるんだな🫵😏




僕わね豊橋からあま市に行く時には必ず妙行寺に寄り

熊本復興祈願をしていくんだな🙏



父・清忠は清正がまだ3歳の頃に他界してしまうため

清正は尾張の津島という所に母・伊都と移ったんだ❗️

津島には清正が手習いをした妙延寺






清正公社という神社が鎮座してるんだ‼️



清正の少年時代の逸話を一つ教えてあげよう🫵😏

清正叔父の屋敷に居た時に盗賊が押し入ってきて

叔父夫婦は盗賊に縛られてしまったんだ⁉️

でも…

清正は鬼の面をとっさに被り葛籠に隠れたんだ❗️

盗賊なんて盗みをするようなバカな奴らだからね

重みのある葛籠を財宝と勘違いし喜び勇んで

みんなで葛籠を持ち去ったんだ‼️

さて…盗賊が葛籠を開けると中から鬼の面を被った

清正が飛び出してきた👹

それを鬼👹だと思い込んだ盗賊は逃げ出したんだ❗️



清正クソ度胸

頭の回転の早さがわかる逸話よな🫵😏



さて‥そんな清正に転機が訪れるんだな🫵😏


天正元年(1573)

なんと同郷でボス猿的🐒…いや兄貴的存在だった

秀吉が出世をして近江長浜城の城主になり

清正秀吉に小姓として仕えることに❗️

天正4年(1576)には170石を与えられてるんだ❗️

清正秀吉親戚として将来を期待されて

可愛がられた事がわかるよな🫵😏


(現在の長浜城模擬天守⬇️)



天正10年(1582)4月14日

秀吉冠山城攻めのおり清正は城に

一番乗りをし竹井将監という勇将を討ちとり

また同じ年におきる山崎の戦いにも参加してるし

天正11年(1583)には

賤ヶ岳の戦いで敵将・山路正国を討ちとり

秀吉から賤ヶ岳の七本槍の一人として

3000石の所領を与えられたんだぞ🫵😏




ちなみに

清正以外の賤ヶ岳の七本槍メンバーは

脇坂安治・片桐且元・平野長泰

福島正則・糟屋武則・加藤嘉明




天正13年(1585年)7月

豊臣秀吉 関白に就任‼️




それにともない清正

従五位下・主計頭を賜るんだな🫵😏

加藤主計頭清正になったわけだな㊗️




天正14年(1586)

サル🐒…秀吉が九州平定をし清正

肥後北半国19万5千石を与えられ

隈本宇土城に入城したんだな🫵😏

『Hickeyのヤロ〜隈本城だって🤣

誤字ってやんの🤣』

そう思ったソコのバカ左翼🫵😏 少し落ちつけ‼️

この時の熊本は隈本って書いてたんだよ🫵😏

でも清正【隈】の字っていうのは

【畏(おそれる)】の字を含むから

武将の居城の名に相応しくないって言って

【熊】の字に変更して熊本になったんだ🫵😏


天正19年(1591)

熊本城の築城開始🏯




文禄元年(1592)文禄の役

慶長3年(1598)慶長の役

半島に渡り清正は大活躍してるのは知ってるだろ❓

例えば清正の虎退治の話は有名だろ❓🫵😏

清正の小姓だった上月左膳が虎に喰い殺され

それに怒った清正が虎の群れを襲い片鎌槍や

十文字槍で討ち果したって話な🫵😏

だがね‥‥

実はコレ江戸時代に創作された話なんだよな🫵😒

実際の話わね当時の朝鮮半島にゃアムール虎

シベリア虎が数多く生息してて人喰い虎として

朝鮮の民を苦しめていたらしいんだな🫵😒

清正の陣にもたびたび人喰い虎が出没していて

そこで清正は虎を退治する事したわけだ🫵😏

清正は高台から鉄砲で一斉射撃したんだ‼️

その群れから人喰い虎が一頭が清正に向かって

襲い掛かってきたんで清正自身が鉄砲を使って

人喰い虎射殺したんだよ🫵😏




文禄の役の時に清正

咸鏡道(ハムギョンド)の会寧(フェリョン)で

朝鮮の二王子を捕らえるんだ‼️

その他にも重臣や女官や従卒など200人も

捕まえたんだが清正は彼らの縛を解き二王子に対し

『日本は仁義の国だから

降伏した者には決して危害を加えない!』

そう言い王子達を礼遇するんだよな🫵😏

明との講和が結ばれ二王子が解放される時に王子達は

『清正の慈悲深さは仏のようニダ🙏』

そう記した書を贈り感謝の意を示したんだな🫵😏

王子達の従者だった金官は自軍に厳しい軍律を課して

朝鮮での略奪を許さなかった清正を信頼し

自ら望んで清正と共に日本に渡り生涯を通して

清正に仕えているんだぞ🫵😏

清正も金官に200石を与え面倒をみるんだ‼️

ちなみに…

清正の死後に金官は殉死をしてるんだぞ⁉️

慶長の役の時には浅野長慶らの籠る

蔚山(ウルサン)城が明と朝鮮連合軍に包囲されたが

別の城にいた清正

『わしは日本を発つ時

    左京(長慶)の父(浅野長政)より

    左京(長慶)を頼むと言われたのじゃ!

    左京(長慶)を討たせては武士の一分が立たぬ!』

そう言って蔚山城に急行し共に籠城するんだ⁉️

だが水の手を断たれるし食糧は枯渇してしまったため

壁土を煮てたり牛馬を食べ自分の小便を飲むほどの

飢餓に襲われるんだ‼️

だが清正は弱音を吐かず『必ず援軍は来るぞ!』

そう味方を鼓舞し大将にだけ配られた一膳の飯を

箸の先に米粒を数粒ずつけ将兵に分け与えるんだ⁉️

やがて毛利秀元が到着して敵を撃退‼️

苦楽を共にした清正に兵達は感謝して

皆が泣いたという逸話も残っているんだぞ🫵😏




朝鮮半島から帰国した清正石田三成と対立‥

そんな事もあり関ヶ原の戦いでは

徳川方に味方するんだ…

と言っても関ヶ原にゃいかないんだけどな🫵😏




関ケ原の戦いの後に

清正肥後54万石の大名となり

熊本城熊本城下町…

また街道治水・灌漑などに力を入れて

領国をせっせせっせと整備していったんだ‼️


慶長16年(1611)3月

徳川幕府を開いた徳川家康

既に将軍の座を息子・秀忠に譲っていて自らは

大御所となっていたんだが豊臣秀頼との会見を

豊臣家に求めてくるんだ🫵😒

清正豊臣家のために二条城における

家康と豊臣秀頼との会見を取り持ち

秀頼のSPとして会見の場に同席したんだ🫵😏





こうして最後まで豊臣家に忠義を尽くした

清正秀頼大坂城帰還を見届けてから

大坂を発ち領国の肥後へと向かう途中で

船内で発病し熊本に到着し間も無くの

 慶長16年(1611)6月24日

加藤清正 死去  享年50




熊本では今も清正は愛されていて

清正公(せいしょこ)さんと呼ばれ

清正が祀られている加藤神社には

参拝する人が絶える事がないんだ🙏



今日は愛知にも

我が一族の父祖なる地・熊本にも

ゆかりのある加藤清正の話でした❗️




忠臣・加藤清正

今も守っている熊本の地の

震災復興を心より御祈ります🙏

頑張れ肥後っ子‼️



皆さん‼️

どう思いますか❓

共に日本のために‼️

全ては日本のために‼️