2月11日(日)『三味線小曲の世界』会場のいけばなについて | TAKのブログ

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三味線小曲の世界 会場のいけばなについて

今井清賀

 

 明治政府は近代化(日本においては=西洋化)政策を遂行するために、江戸期までの日本文化―ハイカルチュア・ローカルチュアを問わず―を排除した。日本人に内在する動作、音感を含め徹底的に改造しようとした。

 とりわけ庶民に好まれた芸事には学校教育を通じて「弾圧」に近いような仕打ちが徹底された。都市部での端唄・俗曲はもとより、地方の地唄・民謡に至るまで言葉狩りと、民俗文化として体現されてきた音感の排除があった。それをくぐり抜けたのは、都市部では花街における密室での遊興―そこは政府の目が届かない(しかし政府高官もお座敷に興じていたはずなのだが、「それとこれは話が違う」のだろう)―、地方では「ハレの日」において日常抑え込まれたエネルギーをはじけさせる場としての「祭祀」で繰り広げられる唄や踊りによって、江戸期までの日本人の動作、発声法などが伝承されてきた。

 一方華道に目をやると、明治になり一気呵成に西洋文化が入り込んできた中で、西洋の「可愛い花」が入りこんできた。江戸期の裕福な階層に流行していた華道では立華・生花という「長尺な花材」を用いていた。華道界では丈が短かく色調も強い西洋花を取り入れるかどうか選択が必須となった。しかし取り入れると決定したとしても、既存の花型では取りこむ方法論が見つからなかった。そこで明治中期に剣山の発明と共に盛花が考案されるという文脈があった。

 

 この時期に三味線小曲の領域は、江戸期の端唄、俗曲に留まることなく、小唄という領域が出現した。近代化により日本人の時間感覚に変化がおこり、浄瑠璃や常磐津、長唄といった「語りもの」をじっくり味わうといった余裕がなくなったのだろうか、それらに代わって演奏・鑑賞共にコンパクトな小唄が花街を中心に流行し始めた。ただしこの流行は、学校教育とは切り離された世界であったからこその現象だった※。

 さて本日の『三味線小曲の世界』は、生き残ってきた都市部、とりわけ「お江戸」での庶民の唄、踊りを再現することで、日本人が育んできたが、近代メインストームから外れながらも連綿と続いてきた日本文化の一端を楽しんでもらいたいという趣旨で開催される会である。この会で置いた花の企図は…

 

※長唄や浄瑠璃は、茶道とともに昭和初期頃まで政財界では「(たしな)み」とされていました。

余談(あくまで余談です。裏はとれません)…細川護熙氏あたりまでの歴代首相は茶の湯を嗜んでいたようです。その多くは裏千家のようですが、細川護熙氏は表千家のようです。

 

【会場を飾る花につきまして】
―三味線による小曲に「花を添える」―

 この会での花は第一景、四景に出演する今井清賀(小原流)が担当しています。
 

1.受付の迎え花:最も現代的でコンパクトながらもはなやかさが演出できるヨーロピアン・フラワーアレンジメント(COMFYRAL Design)で皆様をお迎え致しました。
 

2.会場までのアプローチ:

①室町末期に確立した池坊の格式高い「立華」や江戸初期の上方で確立した「生花(せいか)」よりも、江戸中期頃から始まった、茶花を茶室の外に出し大型にした、当時としてはカジュアルな、瓶(壺)に(なげ)()れる『瓶花(へいか)』を置き、江戸後期あたりのお座敷をイメージしてみました。

※なおこの瓶花につきましては小原流家元教授大島豊史氏に活けていただきました。

②明治中期に小原流によって剣山が開発され、西洋花や野にある草花も活けられるよう考案された『盛花(もりばな)』を置きました。小原流での分類は「盛花 写景挿花自然本位」。この挿法は戦後考案されました。六甲山中腹の四季の景色について「心象描写」するものです。季節感を大切にしてきた日本人の自然に対するオマージュです。

 

3.舞台上:下手(しもて)に、江戸末期において一部文化人の間で好まれた「文人花(ぶんじんばな)」を置きました。珍花奇草を、それぞれ一人格としてとらえ、取り合わせることでその「妙」をたのしむものです。小唄発生前夜の時代の花です。

 

 唄の世界と活ける花の理由を理解いただけたなら、より楽しめる会になると思います。