命の重さについて思うこと | 自然を愛する理想主義おやじのつぶやき

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理想と現実の違いを見つめながら、日々思いついたことや感じたことを綴りたいと思います。自然を愛することは自分を愛し、母なる地球の未来に希望を託すことです。本当の幸福への第一歩だと思います。

私達はこれまで、この肉体を使って生きるために必要なことを得ながら過ごしてきました。少なからずその過程で怪我をしたり病気になったりして思うように動けなくなったりしたことがあると思います。

 

私も二十歳の時に生死をさ迷うような怪我をしました。大きな病気をしたことはありませんが、ちょこちょこと何らかの怪我を負うことがありました。今も去年の交通事故が原因で左肩の痛みがあり、普通に動かすことはできなくなりました。

 

それでもまだバイクに乗ってYUKOと季節の移り変わりなどを味合うようなリラックスした時を過ごせることができています。もうだいぶ暖かくなってきましたが、バイクを走らせながら受ける風はまだまだ冷たく感じられています。

 

さて、もうそろそろ株価も下がって、実体のない仮想的な経済状態が解消されるべきところですが、中々きっかけが整わないようで実現されていません。春には賃上げが期待されるなどの報道もありますが、もう何を言われても心は全く動くことがありません。

 

日銀のマイナス金利政策が来週になると解除されるかもしれないという情報もあります。プラス金利になればもう円による投機はできなくなるので、株価は下がることになるでしょう。できれば経済崩壊につながるようなレベルになってくれたらと思います。

 

ところでIn Deepさんの昨日の記事で、「日本人がたくさん亡くなっている原因が多岐過ぎて、もはやよくわからなくなっている」というものがアップされていました。その内容はこれまでの常識的なことから逸脱した状況の中で、病気によって多くの人達が無くなっているということです。

 

もはやワクチン接種によって自己免疫力が風前の灯火状態になってしまえば、この社会に蔓延している数多くの害毒要素からの悪影響を避けられない状況になることは止む得ないと言えるかもしれません。

 

そんな中でこの三次元世界で生きることの意味や学ぶ意義を知ることで、この命の重さに改めて気付くのではないかと思います。文字通り私達はこの肉体を通して、この肉体を懸けて生きるのであり、学ばなければなりません。

 

そんな肉体が蝕まれてしまうことになるのは、生きるための自由度が制限されることになり、学ぶために必要な体験や情報が思い通りに得られなくなることにつながります。

 

そうであれば、このかけがえのない肉体を最適に保つことは、実際的には生きる上で最優先事項であることに間違いないと言えるでしょう。

 

そのようなことに後で気付いても、もう取り返しのつかないことになることは本当に辛く悲しいことだと思います。それでも現実的にはこの大切な命が、自己判断の誤りが原因での身体機能不全によって失われています。

 

私達はすでに生きる意味やこの世界における存在意義について学びました。それゆえにこの肉体のバランスを最適化し、健康であることに十分留意してきました。そしてコロナワクチンの害悪性にも敏感に反応しました。ゆえに接種すれば命に関わることも容易に判断できました。

 

もうすぐ新世界での生活が始まろうとするこの時期に、命を失くさず健康な肉体で旧世界を卒業できる人達は考えていた以上に少数であることに心が痛みます。微力ながらこのブログからも数多くの危険性を発信しましたが、ほとんど個人の自由意思に影響を与えられませんでした。

 

 

 

春がそこまで来ています。もうすぐ桜の花も咲きます。この明るく陽気な雰囲気の春の日にこの命の重さを改めて思うことは、暗く悲しいことの方が多いような気がしますが、私の心はもうあまり揺れることはありません。

 

春が過ぎればまた夏が来て、そして季節は巡る。そんなことが繰り返されるようなこの命の永遠さを知って、それを思うことができてるからでしょうか。