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中川清秀公・本陣

 郷土豊中の歴史を調べていくうちに出会った戦国武将・中川清秀。知名度は低いけど、実は男気あふれる魅力的な人物。此度タイトルを「中川清秀公・本陣」と改め、清秀公の魅力について皆様と語り合いたいと思います。ご意見、ご感想、情報など宜しくお願いします。

 皆さまゴールデンウィークいかがお過ごしでしょうか。私はこのたび豊中市にある大曽(おおそ)公園に行ってきました。市内の公園の多くがそうであったようにこの大曽公園もかつては農業用水のため池『大曽池』を埋め立てて造られたようです。で、なぜ大曽公園か?しばしおつきあいを。。。


大曽公園

大曽公園 豊中市北桜塚四丁目。第三中学の近くです。


瀬兵衛手作りの田畑


原田城にまつわる文献によると荒木村重の乱の時、原田の城主は原田五右衛門と言ったそうです。しかしこの五右衛門殿、村重に味方して有岡城(伊丹城)に籠城してしまうんです。荒木村重は一年にわたって信長の軍勢に立ち向かいましたが敗北。結果、五右衛門は領地を召し上げられ生活に窮してしまいます。

そこに救いの手を差し伸べられたのが清秀公。以前より原田氏との親交も厚く、しばしば「原田の館」を訪ねられたとか・・・

『勝手迷惑仕るべし(生活に困っているであろう)』と『瀬兵衛手作りの田畑』を与えられ五右衛門は帰農して余生を送りました。。。。


※瀬兵衛 清秀公の通称(字名)。正しくは瀬兵衛尉(せひょうえのじょう)。


原田城跡


※原田城 豊中市曽根西町にある市内で現存する唯一の戦国城館遺跡。『荒木村重の乱』の時には織田軍の出城の一つとして中川清秀・古田佐助(後の織部)が在番した。原田城は北城・南城があり、現在の史跡は北城。南城は住宅地に埋没。。。

※荒木村重 摂津国伊丹(有岡)城主。清秀公の従兄と言われている。信長に仕え重く用いられるが、天正六(1578)年突如として謀反を起こす。昨年の大河ドラマ『軍師・官兵衛』に登場し、少し知名度があがったかな。



瀬兵衛屋敷跡?付近



※瀬兵衛屋敷

『原田の館』については分かりませんが、『大阪府史跡名勝天然記念物』という昔に書かれた本によると「原田南城の西方に地元で瀬兵衛屋敷と呼ばれているところ」があると書かれています。その場所も今は不明ですが、地図などから私が推測している場所。写真の石垣、お城の石垣のような、かなり古いように見えるのですが・・・


字・太祖


 さて、五右衛門が清秀公より頂いた『瀬兵衛手作りの田畑』っていったいどこだろうと以前より考えていたのですが、『新修豊中市史付録』の豊中市大字小字図を見ておりますと熊野田村の近くに原田村の飛び地があって「大祖」ってあります。「太祖」っていうのは名曲『荒城の月』で有名な豊後岡藩(大分県竹田市)の藩祖である清秀公に与えられた尊称なんですよね。


※中川清秀公は摂津茨木城主。次男秀成(ひでしげ)公の時、豊後岡に国替えとなる。



で、現地へ行ってみましたら「大曽公園」があったんです。熊野田村は清秀公の奥方熊野田稍(やや)姫様の出里。何か手がかりがあるのではと思っていってみたのですが・・・「うん!?大曽って“タイソ”って読めるやん!」って気付いたんです。

五右衛門は清秀公に御恩を感じ『太祖』と名付けた?ところが太祖がいつの間にかなまって大曽になったのか?『瀬兵衛手作りの田畑』ってこのあたりにあったのでしょうかねぇ・・・




















「るろうに柴山両賀!」(マンガじゃないですよ!)以前ご紹介しましたが覚えてらっしゃいますか?

「るろうに」って漫画の造語じゃなかったのですよ。そうです元足利幕府の御家人で室町幕府滅亡後堺に行き商人となって莫大な富を築いた彼でしたが・・・・


我も所領ハ不持流浪人なれハ、(中略)此上は所詮何人の手になりとも与力して討死せんと思ひ定め・・・

                                        中川氏御年譜 太祖清秀公より


と「千両箱」を担いで中川家に仕官して来た異色の人物。此度「ザビエルコード」の著者である甲山堅さまより興味深い御話を伺いましたので改めて柴山両賀についてご紹介します。



「岡藩諸士系譜」で柴山両賀=津山漢兵衛が河内に所領を持っていた室町御家人だったことがほぼ特定できました。恐らく北河内だろうと思います。実はどの辺りの出身か?で推理が変わって参ります。

御承知のように、津山漢兵衛は、足利義昭都落ち・幕府崩壊の後に、堺浦で柴屋漢兵衛と名乗り“燃えるもの”を商って僅か7,8年間で外洋船50隻保有するほどの巨万の富を稼ぎ、千両箱を手土産に茨木城に乗り込みました。

                         ・

どうやって短期間にそれ程の富を蓄積できたのか???そこに隠されたミステリーに興味があります。京阪線の“津田山手駅”の近くの生駒山麓に、比較的大きな山城“津田城址”が埋まってますが、あの鉄砲ビジネスを始めた“津田監物算長”一族所縁の城と存じます。そして、津山漢兵衛も同じく、生駒山地全域を庭にしていた“楠木”党に連なる人物と考えています。つまり“津田監物”と“津山漢兵衛”は血縁・地縁で繋がっていた。

ご存じのように、“津田監物”の後を継いで、芝辻清右衛門が堺で鉄砲ビジネスを手広く商う訳ですが、鉄砲は“火薬”=硝石が無ければ、役立たずの鉄の筒に過ぎません。誰かが裏で、火薬つまり“燃えるもの”を取扱い滞りなく顧客に供給出来なければ、鉄砲ベンチャービジネスは成立しません。そして何よりも海外から“硝石”を輸入する必要あります。

柴屋漢兵衛は堺浦で芝辻清右衛門の店の裏側で、自ら硝石を輸入し火薬を調合して店表に供給していたのでは???

つまり“柴山”と“芝辻”は共同事業者だった!そうでもなければ短期で巨万の富は得られません。単なる柴や薪の商売では高が知れてます。

それに名前の共通性が引っ掛かります。“津田”と“津山”。 “柴山”と“芝辻”。

                         ・

柴山漢兵衛は火薬貿易商人として、いったいどの辺りまで外洋船を仕立てて出掛けたのか??

インドのゴア周辺に硝石鉱山があったそうですから、案外そこまで行ったか?・・・あるいは南洋の島々(今も肥料グアノ取ってる島ありますね)?

大航海時代に南洋の海を正に“るろうに柴山両賀”を想像するだけで夢が広がります。

実は、私儀、出来ることなら“大航海時代”に生まれたかった!

                                   では、甲山

いやぁ全く驚きました!そんなことまでわかったのですね!何ともすごい人物です。戦国時代はとてもグローバルな時代だったのです。江戸時代のイメージで見ていてはダメですね。これからは折々に甲山さんのお話紹介させていただきたいと思います。

さて、その甲山さんの著書、中川公ゆかりの豊後竹田市の推奨図書ともなった「ザビエルコード」についての紹介です。


筆者の家には明治になるまで秘密とされていた岡藩に関する古文書が伝わっており、その古文書にもとずく岡藩の驚愕の事実が書かれている。

                          広報たけた平成24年6月号より

今年は「大坂夏の陣四百年」、またキリシタン武将「高山右近没後四百年」にあたるそうですね。そのあたりのことも「ザビエルコード」に描かれています。これを読めばあなたの戦国史観が変わること間違いなし!中川ファンの方もそうでない人もぜひご一読を!

皆様お元気でお過ごしでしょうか。えー突然ですが今回は『虎退治』のお話です。虎退治といえば清正公(せいしょうこう)こと加藤清正の虎退治が有名ですが、なんと中川家にも虎退治にまつわる話がありました。


時は天正二十年、太閤秀吉の命を受けた中川秀政公(清秀公嫡男)は意気揚々と海を渡ります。その時のお話・・・


諸陣騒動す、敵出るかと見るに、其郷に隠れなき大虎陣々にて人を喰ひ、此方の陣に飛来る。渋谷弥右衛門二十間計りにて見掛け、薙刀を取直す処、弥右衛門に飛掛り、冑(かぶと)の鉢に喰付き喰伏る時に、弥右衛門兼て虎ハ猛獣二て、死たるものハ喰ハずと聞し故、空死して居けバ、虎冑を放し一、二間飛しさり(去り)うなり(唸り)居る・・・・

                               中川氏御年譜 秀政公(原文はカタカナまじり)


えっ諸陣を驚かせていた「人食い虎」が中川藩の陣所に出没!渋谷弥右衛門に飛び掛かった!兜の上から頭をガブリ!とっさの事にも弥右衛門さん、少しも動ぜず『虎は死んだ者は食べへんって聞いたことがある!よっしゃここは死んだふ(空死)りや!』←おそらく関西出身。大阪府池田市の渋谷か?

虎は飛びのきましたがまだ警戒して唸り声をあげています。弥右衛門さんの運命やいかに!


下村太郎太夫中次、御本陣より鉄砲を掲げ馳付け、間合三十間計りにて撃んとす、虎真一文字に飛来る居り敷き、十匁筒二ツ玉十間計りにて放つ、過たず中(あた)りて虎二、三度飛上り小谷に落ちて死す。

                               中川氏御年譜 秀政公(原文はカタカナまじり)

得意げ助かった!下村太郎太夫さんなかなかの銃の名手です。もちろん中川公よりご褒美を賜ります。


人をも数多喰ひたる虎を撃止る事、(秀政公の)御感(関心)浅からず、当時の御褒美として、茶緞子の御陣羽織に穀餅紋(中川家の替え紋)付きたるを、御手自ら下し置かる・・・・

                               中川氏御年譜 秀政公(原文はカタカナまじり)

さて、弥右衛門さんもお褒めのお言葉をいただきました。


・・・弥右衛門空死の事、落付きたる仕形なりと感ぜらる。

                               中川氏御年譜 秀政公(原文はカタカナまじり)


ところで朝鮮での虎退治の話って有名ですが、なんと虎は朝鮮軍の戦術だったことが中川史料からわかりました。


朝鮮人味方の陣頭に虎を放ち掛けれバ、櫻井五兵衛利之剛弓の精兵たるに付、御下知(命令)あって虎を射る、二匹共にこれを射留む、御感浅からず、即座に御賞誉あり。

                               中川氏御年譜 秀政公(原文はカタカナまじり)


朝鮮軍には「猛獣使い」がいたのか・・・でも中川家には鉄砲の名手や弓の名手がいて頼もしいです。余談ですがこのあいだテレビで「クマと出会ったら死んだふりをしたらいいというのは迷信です」って言っていましたが、虎と出会ったら死んだふりするのもありかも・・・(あっ兜被ってなきゃダメか・・・)ちなみに清秀公の幼名も加藤清正公と同じ「虎之助」。もしこの時までご存命であったら虎との一騎打ち!?があったのかも。。。

ところで『二ツ玉』ってなんでしょう。連発銃?中川藩には最新式の火縄銃が?ご存知の方教えてください。