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中川清秀公・本陣

 郷土豊中の歴史を調べていくうちに出会った戦国武将・中川清秀。知名度は低いけど、実は男気あふれる魅力的な人物。此度タイトルを「中川清秀公・本陣」と改め、清秀公の魅力について皆様と語り合いたいと思います。ご意見、ご感想、情報など宜しくお願いします。

久々のブログとなります。秋も深まる中、先日(十一月六日)“天下分け目の天王山”のふもと大山崎町の“ゆひまつり”に行ってきました。“ゆひ(結い)”とは「田植えや稲刈りなどの時、親戚、近所、集落で力を貸しあうこと」だそうです。

 

“丹波亀山鉄砲隊”による一斉射撃!轟音とともに硝煙が辺りを包みました。スゴイ迫力!!

場所はまさに四百年前、中川隊が激闘を演じた場所。「なんとしても高山右近をだしぬいて鉄砲を射かけよ!先陣の誉れは我が中川隊ぞ!」と田近平右衛門に命じる清秀公の怒声が聞こえてきそう!?です。

 

 

 

天王山カエルこれくしょん

昔、大坂に住むカエルと京に住むカエルがそれぞれの町にあこがれ、故郷を出発します。やがて二匹は大坂と京の堺目、天王山のてっぺんでばったり出会い、立ち上がって街を眺めました。故郷と変わらぬ景色にカエルたちはガッカリ・・・

実はカエルの眼は立つと後ろを向くので、実際は自分たちの故郷を見ていたのですが・・・

これは江戸時代の心学者・柴田鳩翁と云う人の道話集(道徳の説話集)の一節だそうですが、

なんぼがんばっても目の付け所が悪ければ見誤る』という戒めがこめられているそうです。

 

このたび地元の作家・やぶきさんとロシアの作家・デニセンコさんたちが作品を持ち寄り、展示会を開かれました。愛らしいカエルたちの魅力に虜になってしまいました。

 

 

皆様お久しぶりです。先日久しぶりに中川清秀公の菩提寺である茨木市梅林寺にお参りに行って参りました。長らく御墓地の改修をなされていましたがどうなっているのでしょうか・・・



中川清秀・淵之助公墓


とても立派なお墓になっていました。日当たりも良いようです。御子孫の清秀公に対する思いが感じられます。






失われていた基壇を除く、五輪塔部分も復元されました。基壇部分が当時のもので「天正十一年」の銘が読み取れます。


御住職による説明版もありましたので、僅写させていただきました。




中川清秀公は安土桃山時代の武将で茨木城主、当山四世是頓上人に帰依した。天正十年六月本能寺の変の後は秀吉に味方し、天王山の戦いでは秀吉方先鋒隊として戦功をあげた。

翌十一年賤ヶ岳の戦いでは秀吉方最前線の大岩山(滋賀県余呉町)に布陣、柴田勝家方の猛将佐久間盛政に急襲され、孤軍奮闘の後討ち死にした。(四十二歳)。

この清秀公の墓は、戦死の報を受けた是頓上人が、賤ヶ岳の戦地から彼の遺髪を持ち帰り菩提を弔ったものである。淵之助は清秀公の弟である。

また清秀公の二男秀成公は家督を継ぎ豊後竹田に移って岡藩の開祖となった。梅林寺の寺紋(抱き柏)は中川家の家紋を引き継いだものである。

二十八世仁誉識


戦国の世を強く、たくましく、彗星のごとく駆け抜けて行かれた清秀公・・・

泉下で喜んでおられると思います。有難うございました。合掌。



 先日豊中市熊野町(旧熊野田村)にある熊野田城跡に行ってきました。えっ?熊野田にお城があったのか?実はあったのです!お城というより居館というのでしょうか。

現在の八坂神社がある丘一帯が城跡の様なのです。以前発掘調査がされたようなのですが、その時室町時代と思われる館の跡とか室町幕府管領(室町幕府の№2)や摂津などの守護等を務めた細川氏との関係を示す“花押”が描かれた茶碗が出土しています。詳しいことは教育委員会発行の文化財ニュース№29に載っています。

熊野田の城主

さて戦国時代の熊野田の御殿様は“熊野田隠岐守宗伯”と言い幕府から“熊野田の御代官”に任じられ、また当時勢力のあった池田城(大阪府池田市)の城主に属していました。

隠岐守には女の子と弟の男の子がいましたが、先行きの見えない戦国の世。娘を立派な武将に嫁がせ、家を栄えさせたいと考えていました。

熊野田城主の娘婿

そんな折、池田城主の元でメキメキ手柄をあげている若武者がいました。兄弟は同じ具足を身に纏い、戦場で見分けを附けるために兄は“赤の日の丸”弟は“白の日の丸”を背負って戦いました。その兄こそのちに摂津茨木城主となり、熊野田氏の娘・稍(やや)姫の夫となる中川清秀公の若き日の姿でした。

隠岐守は颯爽たる若武者・清秀を見て一目で気に入り、娘との婚約を申し込みます。「熊野田氏世譜」という熊野田氏に関する文献によると・・・

「清秀様御年若の時、御武勇比類なく、其上御家は御代々摂州の旗頭筋にて候得ば、後々御家運開かせらるべしと思惟し、娘に御縁を組み、御縁者になりて子供をも皆御家来になして行く末を頼み奉る」

とあります。弟は千助・資勝といいますが、清秀公に仕えて手柄をたて、のちに家老となって中川姓を賜わり、中川(熊田)隠岐守となりました。

「摂津国豊嶋郡熊野田村古跡見聞書」

 その後、清秀公は荒木村重・織田信長・羽柴秀吉といった名だたる武将の元で手柄をあげますが、天正十一(1583)年、秀吉と柴田勝家が争った賤ヶ岳の合戦で戦死してしまいます。戦死の報に接した秀吉は涙を流して感謝したと言われています。

中川氏はその後、播州三木から豊後岡(大分県竹田市)に国替えとなり、人々の記憶から「熊野田の城」のことも忘れ去られていましたが、幕末の安政四年、熊野田を訪れた中川藩士の記録が残っていました。藩士の名は“下村市之丞”。熊野田村の庄屋・負田七郎兵衛の案内で熊野田を探索し、熊野田の城についても記述を残していました。

少し長くなりますが記述を引用してみます。

「庄屋の宅の後の方に御城山と申し候所が御座候。則ち是が熊野田隠岐守様の御居城の蹟と申し候。是を古(むかし)の殿様と申し候得共、御家、御子孫も絶え果て、跡形も之無く哀れなるけしきにて御座候と申し候ゆえ、私申すには熊野田様の御子孫は奥様の御由緒にて中川家へお出でにて御家老をして今其末は重役をして四、五家有之候」

と、七郎兵衛との会話を記録しています。当時の認識では“熊野田氏は滅んでしまった!”と思われていたようですね。市之丞から話を聞かされた七郎兵衛は

「殊の外歓び、むかしの殿様の御家に御座候へば一入御なつかしく、何卒して御機嫌伺いに豊後に出でたし」

と言っています。さて城跡については

「御城蹟と唱え候は山の尾崎を切り広め只今にては小松とつつじ御座候。赤土の小石交じりにて御座候。寛永の度 公儀(幕府)より古城蹟御取崩しに相成り候蹟と相見え申し候。石垣等の是が蹟と相見え候所は御座候得共、今にては名は之無く、山の方堀の蹟水溜り内廻して御座候。上の平の所は只今にては漸う漸う弐反位御座候。山の高さは六、七間位御座候。入り口の所弐反に御座候。」

と述べています。当時はまだ少し面影が残っていたようですね。城跡に関しては最後にこう締めくくっています。

「・・・夫れ是として荒れ果てたる有様、斯くもありしや。こふも有りしかとむかしを思ひ、さなきだにも秋の夕べの物かなしく哀れに成り、そぞろに落涕仕り候・・・」

私も市之丞さんの記述を片手に現地を回ってみましたが、当時を想像するのは容易ではありません。



八坂公園の五輪塔


八坂神社に隣接する八坂公園の一角に小さな一石五輪塔を見つけました。今でも誰かが供養して下さっているようです。熊野田氏ゆかりの五輪塔でしょうか。。。この辺りも小高い丘で城の郭のような雰囲気でした。


稍姫イラスト

原田城跡の古文書講座でご一緒している漫画家・木戸りんごさんに稍姫のイラスト描いていただきました!とてもかわいいです。ありがとうございました。


                 

参考文献:調査報告「原田氏と中川氏」高市光男著