こんにちは!先日公民館講座「刀根山城を歩く」に参加してきました。
刀根山城。皆さんご存知ですか。天正六(1578)年、謀反を起こした伊丹(有岡城)主・荒木村重を攻めるため、織田信長が築いた付け城(砦・陣城)がなんと!豊中に在ったのです。
信長の一代記である「信長公記」によると配下の美濃三人衆が守ったとか。。。。
※美濃三人衆 安藤伊賀・氏家常陸介・稲葉一鉄
太郎助:このうちの一人、稲葉一鉄って武将。「ガンコ一鉄」の語源になったとかならんとか・・・
信長自身も視察にわずかの重臣を従えて視察にやってきたことが記されています。
「(十一月)廿四日に刀根山御取出(砦)御見舞として、御年寄(家老)衆召し列れらる」
信長、来てましたねぇ・・で、刀根山城って今もあるの?って話ですが、「発見!消滅!」ってタイトルにありましたように、最近まで「刀根山城の石垣らしきもの」があったのです。しかし開発工事により残念ながら消滅してしまいました。。。。
今回案内していただきました、豊中の郷土史家・高市先生のレジメよりその模様を紹介します。
刀根山御坊の碑
刀根山城の跡はどこですか?と地の人に尋ねると「刀根山御坊に行きなさい、そこに碑が建ってるよ」と教えられる。訪ねてみると門内に家型の碑が建っている。
刀根山御坊由緒
本願寺第三世寛如法主の嫡男存覚上人が貞治二年に摂津の国豊島之庄(石橋)に創立し、当時は門前に下馬札が立てられ、本堂屋根には菊の御門章があり、大名といえども素通りができなかったと言われた。当境内地は約六百年以前織田信長が築いた刀根山城跡である。
と刻している。貞治二年(1363)存覚上人が石橋に道場を開いたことが起こりで、いつの日か刀根山城跡に移転したという刀根山御坊の縁起である。(中略)ただ「約六百年前、織田信長が築いた刀根山城跡」というのは大きな間違いである。
太郎助:うーん・・さすがに六百年はサバ読みすぎ((笑))お寺も間違いに気付いたのか、六の所に四の訂正をテープで貼って修正したそうですが、また剥がれていました・・・お寺の創建とお城の築城時期を混同したらしいです・・・
刀根山城跡の発見と消滅
2014年2月頃だったか、市軸神社の上から東を見ると、k邸の屋根がはがされている。張替か?と思い数時間後また通ると解体するらしいことが解った。(中略)数日後、十三中(豊中第十三中学校)側の低地から眺めて、ハッと気が付いた「これ!刀根山城の遺跡だ!」
刀根山城の石垣?当日のレジメより
太郎助:はたして刀根山城の石垣だったのでしょうか。今となっては確かめるすべはありません・・・素人の私には解りませんが、先生の指摘されている安土城の石垣の積み方によく似ています。
ちなみに散策中に私が見つけた石垣らしきもの。これも刀根山城?表面はセメントしてますが、よく見ると奥に裏込めのグリ石のようなものがあります・・・
地蔵街道
散策の道中には「五輪塔」と呼ばれる戦国時代の供養塔が「お地蔵さん」としてかためてお祭りしてあるところが何か所かあります。先生によると信長との戦いで亡くなった武士や百姓を供養したものとのこと。刀根山周辺で戦闘があったのでしょうか。再び信長公記です・・・
十一月十四日
先陣伊丹へ相働(出撃)、足軽を出だし候。武藤宗右衛門、手(配下)の者ども懸け入り、馬上にて組み討ちして、頸(くび)四つ討ち取り、あま(高槻市)へ持参いたし候て(信長の)御目に懸くる。近辺放火候て、伊丹を押へ、刀根山近々と陣取る。
やはり周辺で激しい戦闘があったようですね・・・・
凄惨な歴史を今に伝える五輪塔。大切に伝えていきたいものです。
梅の花が咲いていました。ホット一息。
豊中唯一の博物館。待兼山修学館。豊中市のマスコット「マチカネくん」のモデルとなったマチカネワニの化石が展示してあります。
待兼童子!?よくわかりませんが、何かほっとします。
刀根山城の石垣?があった場所。見事に消滅!しました。
天上影は替わらねど 栄枯はうつる世の姿 映さんとてか今もなお 嗚呼荒城の夜半の月