今年の四月二十日は清秀公四百三十回忌になります。私賤ヶ岳に赴き清秀公の墓前にお参りさせていただきました。
天正十一年(1583)、中川清秀公以下五百の将兵は孤軍奮闘、善く孤塁を堅守し壮烈な最期を遂げられました。今、砦跡には百回忌に再建された清秀公のお墓が旗下将兵の御霊とともに安らかな眠りについている・・・
お墓は三百年以上の時を経ながらもよく原型を保ち、白く輝いているように感じられました。あたかも百回忌に建てられた碑文のごとく「美しい清秀」の姿が目に浮かびます。
砦跡には地元の城郭研究家の方による案内図が建てられ、往時を偲ぶことができます。
下の写真は大岩山砦の木戸口。弓の精兵・熊野田孫七はこの木戸口に立ちふさがり、矢種が尽きるや大薙刀を振るって敵陣に突入!清秀公御生害までの時間を稼ぎ、壮烈な最期を遂げました。またここは「賤ヶ岳合戦屏風」で打って出る清秀公が描かれているまさにその場所。
大岩山へは江土(みど)登り口から行くのが断然良いのですが、最近は害獣対策として高圧線が張られています。跨げば通れる高さですが、行かれるときはご注意下さい。
(農家のお爺さんは触れてもピリッツとするだけやと言われますが・・・)
こんな表示も・・・
※賤ヶ岳の碑文
百回忌に清秀公以下将兵の位牌がある、木之本浄信寺の住職雄山が記した。
・・私今ここに美しい清秀が見えるようである。いわんやその功は立派であるのでこれを記しておく・・・
余呉庄と賤ヶ岳の戦いの意訳より一部抜粋