中川公と忍者 | 中川清秀公・本陣

中川清秀公・本陣

 郷土豊中の歴史を調べていくうちに出会った戦国武将・中川清秀。知名度は低いけど、実は男気あふれる魅力的な人物。此度タイトルを「中川清秀公・本陣」と改め、清秀公の魅力について皆様と語り合いたいと思います。ご意見、ご感想、情報など宜しくお願いします。

徳川家康に服部半蔵あり。信長の家臣・滝川一益は元甲賀忍者という。

そして中川家臣にも忍者あり!

それは中川資料の中の「諸士系譜新古次第」にありました。「諸士系譜」はいわば中川氏の家臣名簿のようなもの。見つけましたよ。その名は井上七郎左衛門。「諸士系譜」によると


本国伊賀にて忍びの術巧者ニ付、慶長年中召し出さる・・・


慶長年中といえば秀成公の時。中川公、忍者召し抱えていたんですねぇ。戦国時代なんで当然と言えば当然ですが・・・


もっといないかなぁと探してみますと、忍者ぽい人いましたねぇ。その名も柘植玄蕃頭(げんばのかみ)。柘植という名字から伊賀出身と推理できます。以前「水戸黄門」で柘植の飛び猿っていてたじゃないですか。忍者の棟梁のお姫様のお供(おもり役?)をして。


・・・ちょっと余談でしたね。でこの柘植玄蕃頭、「諸士系譜」によりますと


伊賀に在りて信長公へ属す、天正六年十一月信長公、清秀公に御合体の後鶴姫様御入輿相済み、其の後玄蕃頭子・勝千代生年拾弐歳長鶴様御伽として附させらる。勝千代より御当家に勤仕す。・・・


これによると柘植玄蕃ははじめ信長に仕えていましたが、天正六年の荒木謀反の時、古田佐助(清秀公妹婿・のちの織部)の説得により清秀公は信長方に転じます。その和議の条件の一つとして信長の十女・鶴姫は長鶴(嫡男・秀政)に嫁ぎますが、この時付き従ってきたのが、玄蕃。


もちろん戦国時代のこと。政略結婚というわけで、姫は絆を深める道具であるとともにスパイでもあったわけです。もし中川におかしな動きがあると、柘植を通じて信長公に伝わるといったわけです。


また古田佐助はこの時から信長の直臣から中川の傘下として活躍しますが、このときも信長から言い含められています。すなわち


中川が骨柄尋常にあらず、佐助縁者の事にも候へバ、今より中川が備えに有りて物毎見聞せしめ、信長への奉公(忠節)振を異見(意見)すべし、

                                   中川氏御年賦付録


古田も信長の目付け役だったのですね。まさに戦国の世。油断は禁物・・・

余談になりますが、家康、服部半蔵、清秀公は同年齢。だったんです。こりゃまた意外!新たな発見。