豊後竹田・岡城探訪 | 中川清秀公・本陣

中川清秀公・本陣

 郷土豊中の歴史を調べていくうちに出会った戦国武将・中川清秀。知名度は低いけど、実は男気あふれる魅力的な人物。此度タイトルを「中川清秀公・本陣」と改め、清秀公の魅力について皆様と語り合いたいと思います。ご意見、ご感想、情報など宜しくお願いします。

春高楼の花の宴・・・

ついに!念願の豊後竹田に行ってきました。そうです!中川公十二代の居城、岡城。これからは数回にわたってレポートしていきたいと思います。


大分駅から豊肥線に揺られ、山の中を行くこと約一時間半、豊後竹田駅に到着です。名曲「荒城の月」が出迎えてくれます。


中川清秀公・本陣


今を去ること文禄二年(1593)、中川秀成公は家臣三千名を引き連れ意揚々と山深い新天地豊後岡を目指したのでした。しかしことは順調には進みませんでした。

※秀成公は清秀公の二男。兄秀政公の戦死により家督を継ぐ。


「なぜ播州三木から見れば辺境にしかすぎぬ豊後の岡を選ばれたのですか!」と家臣たちは猛反対。中には脱藩も口にする者さえ出る始末!


※中川公の居城の変遷

清秀公(摂津茨木)→秀政公(播州三木)→秀成公(豊後岡)


加えて秀吉からは「その方の事、来春豊後へ遣わされ候。ついては家来ことごとく召し連れまかり越すべく候。自然逐電の族、これあり候へば、追って先々成敗を加うべきなり」とのキツイお達し。サル=天下人の命令じゃ仕方がないかと一応家臣らの収まりはついたが、収まらないのが奥方連中。


「豊後国と申せば鬼の住み処と言うではないですか!何の因果でその様な遠い所へ・・・うっうっ・・・(泣)」そこで秀成公は「岡に入ったら京都風(都会風)の町をつくり、畿内から商家(デパート)も移すから!ネ!ネ!お願いしますよ(汗)」となんとか説得。文禄三年二月八日秀成公率いる大船団は豊後速見郡小浦に着岸。陸路新天地を目指しますが・・・


二月十三日、岡領に差し掛かった秀成公一行。前方を見ると

「えっ!なんやねんあれは!」見ると大友家浪人三、四百人が逆茂木(さかもぎ=バリケード)を作り、入国を阻む構え。

「我は此の度秀吉公の命により豊後国に入国する中川秀成である。でむかえもせず、逆茂木を築き行く手を遮るとは何事か!」

しかし、「中川公に敵対する意思はないが、引き渡せという命令がない以上ここを通すわけにはいかん!」とまさに一触即発の構え。


※豊後国はキリシタン大名大友家の旧領。大友家滅亡後浪人たちは公領となったこの地を管理していた。


ようやく現地の代官・熊谷半次が駆けつけ「中川殿御役人に土地相渡すべし」という命令が下った。ここでめでたし解決、解散!となればいいのですが・・・やっぱりいるんですねぇゴネル人ってどこでも・・・不満を持つ百余人が抵抗をします。やむを得ず、秀成公はこれらの輩への攻撃命令を下します。八十四人が討ち取られ、生け捕られた十七人も磔に・・・

よにいう「赤岩事件」ですが、この冷徹とも取れる処置は厳然とした支配に向けての支配の表れでした。秀吉によって一応は天下は統一されたとはいえ戦国の士風は色濃く残っており、秀成公の処置は妥当であったと思います。


余談ですが、肥後国に国替えになった佐々成政は一揆を鎮圧出来なかったのを口実に切腹させられています。もしかするとすきあらば中川も!と秀吉狙っていたのかもしれませんね。ともあれ秀成公は波乱に満ちた国造りの第一歩を踏み出したのでした。


参考資料

シリーズ藩物語 岡藩

中川氏御年譜