続きです。

 

 

「儺の国の星」に記されていた「蓬莱島」。

それは脊振山系を含む「建日向豊久士比泥別」のこと。

意味するものは、神仙の住む国。

 

ここには、あの徐福さんが来ていた伝承のある山がある。

(創作の可能性が大きい。しかし、そういう人(率いて来た人)はいたと思う)

 

それが金立山(きんりゅうざん)。

 

(図1 地図はGooglemap 脊振山系)
 

上の図が、脊振山系を含む地域。
紫色の線が、背振山系縦走路。(山頂を繋いだ山道。全部歩いた!)
(糸島の十坊山~脊振山~基山まで70キロ)

 

金立山は、脊振山系の南にある霊山。

下のは正現岳。
金立山は峰続きの奥。


 

不老不死の霊薬を求め「蓬莱島」にやって来た徐福さん。

辿り着いたのはこのお山。

その薬草はここに生える「フロフキ」とされている。

 

詳しくは以下のサイトへ。(フロフキの画像もあります)

*フロフキはこっちの呼び名で、カンアオイのことであった。
佐賀市観光協会 ~不老不死を求めた浪漫の旅人~」)

 

 

彼は蓬莱島を求めて来た。
まさに、この地のことになる。
 

彼が来たから蓬莱島になったのか。

(後の人がそう呼んだのか)

「神仙がいるから」と元々、蓬莱島の名だったのか。

 

来日したのは、今から約2200年前。
高良神(饒速日命・AD200年頃と推定)の400年前。

 

徐福さんの話を初めて聞いた時、「ここが蓬莱島?まっさか~!」と思っていたのだが。

「筑紫島の四つの面」を書いている時に、彼らと繋がった。

 

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< 金立山 >
 

つい最近、登っていた。

上宮は立派な石造り。

上の写真の中腹に見える白いもの。
一枚岩からできているそう。

 

 

途中には、摩崖仏の「吹上観音」さまがいはり。

美しい。

 

 

下から長い階段を上がってくると「正規稲荷神社」がある。
 

この山、登山道がいくつもあり、複雑。

山ナビのGPSなしでは、歩くのは無理だ。

あっても迷った。(友達と行ったのでゆっくり)

 

かなりの遭難者が出てるとか。ルート多過ぎ!^^;

 

 

上のは、九州の登山雑誌「noboro(のぼろ)」の地図。(うちの愛読書)
上宮は金立山山頂に近いところにあった。ま~複雑!
(でも、迷路みたいで楽しかった)
破線全部がルートであり、正規ルートです。

 

この地図の一番下に徐福長寿館がある。(薬草や花などが見られる)

 

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< 徐福さんと吉野ヶ里 >
 

一番上の図1の16は吉野ヶ里遺跡。

金立山から、8.6キロしか離れていない。

 

徐福さんは、童子や大陸の者を引き連れていた。

この地に残った彼らが、吉野ヶ里の地に住んだ可能性は大いにある。

 

彼らは、大陸での知識を持っていた。

 

そこで吉野ヶ里の「銅鏡」を思い出した。

制作体験でレプリカを作れるのだ。(下のは自分が作った物)

 

詳しくは、ココログのリンク先へ。

 

刻まれてある文字にはこうあった。
 
”久 不 相 見、 長 毋 相 忘”


(ひさしくあいまみえず、ながくあいわするるなからんことを)
長く会わなくても、お互いを忘れないようにしましょう。

 

リンク先に詳しく書いてるが、漢字で書かれている。

これは、甕棺の蓋の上、頭の方に貼り付けてあったそうだ。


死者に向けての最後の手向けの言葉。

 

意味を理解して、気持ちを込めて使っている。

 

ただ、銅鏡が伝わって来て、使ったわけではない。

漢字や意味を、何故知っていたのか。

 

その時の違和感がようやく腑に落ちた。
彼らは、「徐福」の子孫らだ。
 

饒速日命達に協力していたのも彼らだ、と。

 

 

< 饒速日命の十種神宝と干珠満珠 >

 

饒速日命は、大国主神。

別名、国平神、根子神の名は、国土を平にし、国の根っこを造った者だから。

猿田彦神や、歳神、稲荷神の名は、新しい稲作の技術を広め、稲を作りやすくした為。

(奈良盆地の奈良湖でのような湿田を、水利工事をして乾田にしたなど)

 

彼らには卓越した技術があった。

日本各地で植樹をしたり、水利や治水の工事もしている。

 

中国の言葉で、「水を制するものは、国を制する」がある。

まさに、水を制した彼ら。

それが「干珠満珠」の伝承になっているのだ。
また、様々な功績から、十種神宝の力として伝わっている。

 

 

 

 

☆奈良盆地(やまと)の巨大湖(奈良湖)の水は、三輪の神が引いた。

 

 


☆福岡の那珂川の水路、裂田溝(さくたのうなで)を、武内宿禰として神功皇后と共に造った。

 

 


☆那珂川では高良神として、猫嶺城に住み、那珂川の水の管理をしていた。
夏はせき止め、田畑を潤していた。
 

(私が知るところではこれだけだが、全国にはまだあるかもしれない。
彼ら(名を替えられた彼ら)の名で、伝わっていると思う。)


彼一人の力ではできない。

ここ「建日向豊久士比泥別」は、蓬莱島。

 

伝承の「徐福さん」のような、渡来してきた方々が関わっていることは確かだ。
 

 

< 邪馬台国 >
 

「儺国(なこく)」の「な」は、神の住むところという意味がある。

奇しくも蓬莱島の意味と同じ。

 

「奈良」の「な」と同じ意味。
*ならの「ら」は、古語で神、光を表す。
磯良神の「ら」と同じ。
磯良(イソラ・高良)神=磯神(いそのかみ)=石上(いそのかみ)神宮の神=布留神=饒速日命。


その両方にいた「饒速日命と御炊屋姫」。
彼らのいた場所が「な」の国であり、もう一つの名が「やまと」。
「やまと」も、また、「神の国」を表す。

「奴国(儺国)」も「やまと(神の国)」である。

 

魏志倭人伝の邪馬台国(やまと)は、その両方であると断言できる。
 

奴国(儺国)まで正規の行程。

それ以降は、うやむやにしたのだと思われる。
場所を隠すために。


他国に知られるのはまずいと思うのではないではないか。

自分なら、そうするだろう。

 

もう一つ、このシリーズを書いて気づいたことがあった。

 

 

それは別のシリーズで。

 

 


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