神功皇后と饒速日命。

彼らの偉業が「潮干球、潮満珠」の力の一つとして、伝わっている。

大和の奈良湖の水を引いた「大和川川床開削」と、福岡那珂川の「裂田溝(さくたのうなで)」として。

★目次

☆1 古代奈良湖

☆2 亀の瀬の山体崩壊

☆3 明日香の亀石

 

  古代、奈良湖

 

古代、奈良には巨大な湖があった。

それが通称、奈良湖。

 

下の図1の薄い青の周辺がその範囲。

 

これは、AD200年前後までとみている。

(これは後に)
 

図1 出典「古代で遊ぼ」

サイト素晴らしいです!ぜひ!
 

 

下の記事より。
この湖の水を引いたのは、三輪の神である饒速日命に繋がる。
彼は高良神である物部の祖神。
 
これが「干珠満珠の象徴」ともなった出来事になる。
 
時系列として、
倭国騒乱
饒速日命が大和へ移動。

御炊屋姫と夫婦になる。
 
上の状態から、「大和川川床開削」して、
濃い青の地点まで水を引かせる。(下と順番は不明)

奈良盆地を開拓。
周辺は湿地帯になり、稲作ができるようになる。
「葦原の中津国」とは、この後のこと。
(葦は、湿地帯に生える草の総称。)
 

 

  亀の瀬の山体崩壊

 

彼らは湖の水を引いた。

 

その地点が、下の画像の大阪柏原市の「亀の瀬」。
☆亀の瀬については「古代であそぼ」を参照しました!
 

(図2 出典 画像は「古代で遊ぼ」)

中央辺りに、「亀瀬岩」がある。
その辺り一帯が「亀の瀬」。

左斜め上に「三体崩壊?」とある。
 
図3 出典 画像は「古代で遊ぼ
すごく丁寧で詳細な説明です。サイトを直接ご覧ください!
その当時の様子を見事に再現!惚れ惚れします!
 

その辺りは、地滑りがしやすい土地だった。

山体崩壊によって、川がせき止められてしまったのだ。

 

件のサイトによると奈良湖の推定水面標高は45m。

2000年前からあった唐古遺跡は、一度水に沈んでいるそう。

 

 

この辺りの標高を「標高が分かるweb」で調べてみた。

唐古遺跡は49m

その1.5キロ西の石見駅で45m

☆増水前の奈良湖は、図1の2番目に濃い青の範囲

 

耳成山の側が湖の端、ここで50mほど

増水で推定50mまで上がったと思われる

 (上の図に50mとありましたね)

 

誰かが抜かなければ引かないのだ

 

 

  山体崩壊から亀石へ

 

山体崩壊について、以下のサイトからの引用。

 
竜王社」(りゅうおうしゃ)大阪府柏原市-じゃらん旅行記
 
数百万年前に「亀の瀬」北には火山があり、最低2回は噴火したと言われています。
1回目の溶岩や積した地層の上に2回目の噴火に伴う溶岩がのっています。
その溶岩の境目が非常に脆く、水分を含むと上の溶岩が滑り台のように滑ってしまいます。
亀の瀬には昔から亀岩と呼ばれる巨石があり、この亀石が動くと、地すべりが起こって大和川がふさがれ、大和に洪水が起こるという伝承があります。

そこは何度も地滑りを起こす地帯であり、その度に、大和に洪水が起きていたのだ。

「亀石が動くと、大和に洪水が起きる」という伝承、実際は反対になる。
 
柏原市のサイトの「亀の瀬こぼればなし(2)」に、
亀岩が動いて地滑りを起こすのではなく、地滑りが起こると亀石や周りの地形がうごいてしまう」(上記サイト引用)とある。

んん??
奈良の人ならこれとよく似た話をよくご存知。
うちも小さい時に、そこへ行く度に何度も聞かされた。
「明日香の亀石」だ。

 

 

  明日香の亀石

 

明日香の亀石には有名な伝承があった。
あの石が西を向くと奈良盆地が沼地になるのだ。
 

画像はwiki「亀石」より
 

Wikipedia「亀石」でその伝承を詳しく。

 

奈良盆地一体が湖であった頃、対岸の当麻のヘビと川原のなまずの争いの結果前者が勝ち、水を吸い取られた結果、干上がってしまい、湖のカメはみんな死んでしまった。
これをあわれに思った村人たちは、「亀石」を造って供養したという。
亀石は最初は北を向いていたが、次に東を向いたという。
そして、現在は南西を向いているが、当麻の方向の西を向いた時、奈良盆地は一円泥の海と化すと伝えられている。
実際に亀の瀬地滑り地区の調査で、古代には地滑りで大和川がせき止められ、亀の瀬のかなり上流まで湖状になっていたことがある。

 
この亀石がある地は「川原」。
「川原のなまず」とは、この「亀石」のある地帯のこと。
では、「当麻のへび」は何を意味する?
 
  
(つづく)
 
 題名変更しました。