筑後国一之宮、高良大社の高良神は白日別である。

筑紫神であり、筑紫の国魂。


それは、古事記に記載されている「筑紫島」の一つの「面」の名。

(下記に記載)
筑紫島には文字通り四つの面があった。
それは、彼らを明かす鍵にもなる。

☆1 古代の筑紫島
☆2 考察

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☆1 古代の筑紫島

 

高良大社の前方にはこんな風景が広がっている。
 

 

遠くに見えるのは、脊振山系(その向こうに那珂川市(儺の国))。
「彼ら」の時代は、その間に海があった。

今よりも海面が高かったのだ。

 

 

以下が、海面上昇シミュレーションシステムによる、
現在(左)と、AD200年頃(右・海面標高5m)の海岸の位置。

南西が有明海(筑紫平野)で、その上の北西が玄界灘(博多湾)。

 

図1 海面標高5m

海面上昇シミュレーションシステムより

 

これに、川を水色の線で加え、今の地図に合わせると。

 

図2(地図はGooglemap
標高4mを結んでる。5mとあまり変わらない)
 

「儺の国の星」で、真鍋大覚氏は、太宰府の針摺(はりずり)が海峡であったと記していた。

上の地図で太宰府市と書かれている下辺り。

 

玄界灘と有明海は繋がり、それぞれの山塊は島に見える。

脊振のある方は古来、「蓬莱島」と呼ばれていた。(「儺の国の星」より)

 

 

後の記事の「竺紫と筑紫」。

竺紫とはこの離れていた時代の「筑紫」を意味していた。

 

 

下記が中村啓信氏訳の「古事記」(一部)。

 

「次に筑紫嶋を生みたまふ。此の嶋も身一つにして面四つ有り。面ごとに名有り。故筑紫国を白日別と謂ひ、豊国を豊日別と謂ひ、肥国を建日向日豊久士比泥別と謂ひ、熊曽国を建日別と謂ふ。

 

筑紫島は身一つにして、面が四つあり。

筑紫国が、「白日別」。
豊国が、「豊日別」。
肥国が、「建日向豊久士比泥別」。

熊曾国が、「建日別」。

 

 

☆2 考察


ここから、考察したことをいくつか。
 

☆筑紫島が九州では無い。
(筑紫島が九州であると認識されたのは、おそらくもっと後の時代)
 

☆島が四つあるとは言ってない。
筑紫島に面が四つ」。
 

☆この地名、今(と、古事記が編纂された頃)の感覚で考えると分からない。

当時の地形と川を当てはめてみる。
 

これが四つの顔を持つという「筑紫島」の姿。

 

図3 (画像は海面上昇シミュレーションシステム

 
それらは、島ではなく、「四つの面」。
そこに立てば(高良大社辺りから見れば)、「四つの面」に見えるはず。

 

上の図の青い線は川。
建日別の上にあるのは筑後川。
 
筑紫国の国魂は高良大社の高良神。
ここが白日別なのだ。
 
では、その他の地も彼に関わる。
 

次は、四つのそれぞれの「面」について。
それぞれの考察。

 
( つづく )
 
*1
海岸線で塩を作っていたという、福岡市南区の塩原(しおばる)の標高が6~7m。(注*1)

山や川からの堆積物などあり、今の標高から当時の海岸線を推測するのは難しい。

例えば、福岡の片江は今の標高17mだが、名づけられる時期まで海岸線だと思われる。

(文化財総覧webgisから4mの位置からも遺跡が出ている箇所がある。島として出ていたか)

 

ここではみやま市の瀬高が5mよりも上にあるので、5mを採用した。(そこまでが当時の3~4mの範囲と推測)

地名の意味は「海の瀬が高い時にその位置まで来た」ということだ。

さらに、内陸は幾筋もの川や海の満ち引きで、深いところまで湿地帯だった可能性もある。

イメージ的にはこのようだったと思われる。

「筑紫島の四つの面」の趣旨は変わらないので。


*2 穂波川
実際は夜須高原から流れ、冷水峠手前で筑豊の方へ流れている。
冷水峠からは山家(やまや)川が現れる。
厳密に言うと峠を「分けて」いない。
が、これが「よどみ」になり、命尽くし神が現れた原因であったと思う。
 
 
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