続きです。
「くしふるたけ」が脊振山であり、「櫛・奇(クシ)布留(フル)岳」を表す。
ならば、脊振山に降った神は、ニギハヤヒ命。
.
また、その場所こそ、「筑紫の日向の高千穂」になる。
本当の「天孫降臨の舞台」。
”ここ”には、それを物語るものがたくさんあった。
*
< 筑紫の日向の高千穂 >
筑紫は、北部九州。
日向は、日に向かう(日に照らされた)場所。
(朝日のよく差す国、夕陽の照る国である。←ここから日向という美称が付けられた)
高千穂は、たくさんの稲穂を高く積み上げたような山を表す。
*「韓国に向かい」の韓国とはどこか。
古事記の、それが記載されている部分を抜粋します。
「この国は韓国に向かい、笠沙の岬まで真の道が通じていて、
朝日のよく差す国、夕陽の照る国である。それでここはとてもよい国である」
(「此地者 向韓國 有真之道通笠紗之御前 又此地者 朝日之直刺國
夕日之日照國也 故 此地甚吉地也」『古事記』)
(Wikipedia 「天孫降臨」より)
この「韓国」は、素直に朝鮮半島を表している。
「クシフルタケ」が脊振山で 「高千穂」が脊振山系ならば、「向かい合う韓国」は朝鮮半島。
脊振山系は、東の端の基山から、西端の十坊山まで、およそ70キロの長さを持つ山塊。
玄界灘から見れば、稲穂が積み上げられたような「壁」に見える。
また、基山の荒穂神社(今は麓にある)には、瓊々杵命 (ニニギノミコト)が祀られていた。
☆後の記事。
筑紫の日向。
建日向豊久士比泥別は、脊振山系を含むこの地であった。
そこにある「久士布流多気」=脊振のことに他ならない。
宮崎の高千穂なら、「韓国」は韓国岳。
その名は随分後に名づけられたものと言う。
神話の由緒には弱い。
*< 真の道 >
「笠沙の岬まで真の道が通じていて(有真之道通笠紗之御前)」
この言葉に、心当たりがあった。
那珂川市のある地点を通る時、とても強い力を感じるのだ。
ほぼ南北に流れる、力の通り道のようなもの。
その場所は、この緑のラインの中にあった。
ここには、いくつかの神社などがある。
初めに気付いたのは、緑のラインの上から2つ目の☆マークのところ。
「御中主神社」
3番目が、「現人神社」
4番目が、「裂田神社と、迹驚(とどろき)の岡である安徳台」
一番下の5番目が、「日吉神社」。
その線を、まっすぐ北に延ばした一番上には、「筥崎宮」があった。
*
2番目から5番目は、全て那珂川市にある。
彼の地には、古より伝承が数多く残っている。
*「御中主神社」のご神祭は、天御中主神。
*「現人神社」は、住吉三神を祀る元宮。
人(神功皇后)の前に初めて姿を現した神ということで、”現人”神社。
皇后が朝鮮出兵をした際、船の舳先に現れて皇后を守った神。
*「裂田溝(さくたのうなで)」は、神功皇后が指揮して造ったとされる日本最古の水路。
現人神社の神田に水を引く為とされ、今でも那珂川町の田んぼを潤している。
*「安徳台」は、神功記の「迹驚(とどろき)の岡」
(裂田神社と同じ場所)
2000年以上前から何度も宮があり、安徳天皇も壇ノ浦の合戦の前に滞在した。
古の時代より、上の原(うえのはる)・御所の原(ごしょのはる)と呼ばれている。
*「日吉神社」
御祭神は猿田彦神(地元では)。
ここで、天使か天狗の姿のような光を撮った。
どの場所も、特別に強い力を感じた場所。
これらが、このライン上に並んでいる。
これが「真の道」。
< 笠沙の岬 >
地図の一番上の星は、「筥崎宮」。
(穂波(飯塚)から勧請されている)
元は、この辺りは大昔、岬だったそうだ。
ここが本当の「笠沙の岬」では?
「カササ」と「博多(ハカタ)」は、語源が同じだった。
「カタ」「カサ」という言葉は、湾などによく付けられた古語。
**********************************************************
ポリネシア語で「カタは、貝が口を開けたような(湾、地形)」という意味。
ハは、「美しい」。
また、「カタ」がマオリ語になる時に変化して「カサ」になった。
(ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源) より要約
************************************************************
.
また、「サ」は、湿原、葦原、または湿原に生える草の意味。
「日吉神社」の案内板に、「サルタ」の説明があった。
猿田彦の「サルタ」は、米を作る農法。(川の水をせき止めて水田にする)
赤米もそう呼ばれていた。
それは、アイヌ語の「サル」と同じ意味(北海道に猿はいない)。
(韓国語では、サルは米)
札幌の「サ」も、アイヌ語の湿原を表す。(沙流川も湿原の川)
(アイヌ語と同じというわけではなく、古来、広く同じ言葉が使われていたという意味)
「笠沙」の「サ」も、湿原、葦原といういう意味なのではと思っていたら・・・。
この筥崎宮の地、元は「葦津ヶ浦」と言われていたそうだ。
「カタ(カサ)の地の葦原(サ)」で、「カササ」または「カタサ」。
(上記のリンク先によると、「博多」のハは美称。)
古語から導き出された地名は、何よりの証拠。
笠沙の岬まで、「真の道」が通じていて・・・。
その岬が、今、筥崎宮の場所であり、「真の道」とは、このライン。
さらに、このラインをまっすぐ南に延ばすと・・・。
(地図はGoogle Mapより)
脊振山系を越えたほぼ向こう側、佐賀県にある「星」の場所には、
大己貴神社があった。
またもや、饒速日命。
この「真の道」。
人伝に聞いたが、筥崎宮の宮司さんはご存じだった。
その時に直感した。
もしかして、神社などには、真実の伝承が受け継がれているのではないか、と。
*
本当にこの場所が「天孫降臨」の地ならば、この近くにあるはず。
宮を建てたという「底津岩根」。
イザナギ神が禊をした「橘の小門の阿波岐原」。
「筑紫日向の高千穂のクシフルタケ」の側に。
( つづく )