オンライン&リアル ハリマンヨガの感想3 | そら、空 HARI MAN

そら、空 HARI MAN

BEING HARI MAN

RE ふたたび LAX  ゆるんで 、 HARI 聖なる MAN 人間へ 


  

【2021.9.26 ハリマンヨガWS 背骨・丹田・呼吸編】

✾今日のワークショップで、背骨や丹田を意識しながら呼吸しているうちに、どんどん自分の内側が開いて大きくなっていくのが感じられました。
金曜日から背中が張って少し気持ち悪い感覚がずっと続いていましたが、2時間後終わった時には背中の痛みがなくなり、呼吸がとても楽になりました。

ハリマンさんのヨガは「ほどいて・ひらいてそのまんまの会」から時々参加させていただいていましたが、今まで難しくてよく理解できなかったことが、今日はまるで集大成のようにハリマンさんの言葉が自分の中にストンと落ちていく感じがありました。

自分の感覚に気づけるようになってきたのだと思います。

実は、1年以上前からうつで苦しんで通院している友人がいるのですが、話を聞いているだけではなかなか改善が見られず、身体からほぐすことができればとオンラインで頭のマッサージを学び彼女に施術させてもらっています。

ハリマンさんに相談したところ、タッピングもいいということだったので、マッサージと共にタッピングも取り入れると共に、「そのまんまの会」で自分が癒された仙骨ゆらゆらも取り入れて施術しています。

それが終わるといつも彼女が「あー、楽になった。胸がすっきりしてもやもやしていた頭もすっきりした感じ。気持ちもゆったりして、どうしてここだとこんなに楽になれるんだろう。家もどこも落ち着かなくて自分の居場所がないけど、ここだと落ち着く。」と言ってくれます。

ハリマンさんのおっしゃる微細なタッチや揺れのすごさを感じています。

目の上や腎臓への手かざしをすると「自分の奥にぐんぐん入って来る」とも言ってくれます。

宇宙のエネルギーを通して届けるディバイスとしての私のレベルが上がっているのかなあと、勝手によろこんでいるところです。

ハリマンさんに出会えて良かった❣
私はなんて運がいいんだろうと感謝です。



✾ハリマン返信
ぼくは昔からいつも思っています。
人が健康になるのに、たくさんの薬や医療やアドバイスが必要なんだろうか。
複雑な手はずや段取りが必要なんだろうかと。 

自分自身を、
それぞれの自分自身を、
ほどいて
いのちの力に直に触れることが
いちばん、自分を、まわりの人を、元氣にすると思います


>「仙骨ゆらゆら」、「手当の愉氣」。
ああ、ゆったりゆっくり、ペアを組んでリアル会場でやりたくなってきました(^^)

微細なタッチ、静かな波の揺れ。
静かでやさしいから、向こう(相手)の方から耳を澄まし、安心して、ひらいてくれるのですよね。
いのちの繊細でやさしい波は、ひとつに融け合い、寄せては返し、和らぎが生まれます。

追伸
丹田でテーブル拭き 習慣にしてください(^^)/







【2021.9.25 初めての方向けWS ハリマンヨガ入門・基本編】

✾今日は凄くいい日でした。
ハリマンヨガ基本編。先回基本編が日曜日でした。日曜日は参加できない私は、土曜日の今回を逃してはいけない!と参加。

実は基本編二回目。
一回目で教えていただいた、神門ピッピッピと、脳幹(間脳)活性化は毎朝しています!と思ってたけど、大事なところを落としていたと気がついたのも良かったけれど…

でも、それよりも
今日の私へのプレゼント💕と思ったのは

足首を回してみた時のこと!いつもハリマンさんおっしゃってますよね。
「回す側でなく回される足首を感じましょう 」 と。
「はい、感じてみてます」 と思ってました。
「できてます」 と。😅

私名指しで、まず回す側のつもりでやってみてくださいとのご指示。

足の甲を延ばしてそれからアキレス腱もしっかりなどと思いながら懸命に真面目に作業。😙

では、回される足首の側を感じてやってみて。とご指示。

そして、そのつもりになって足首を感じてみた時、やっと、遂にとうとう👏ハリマンさんが、以前から伝えたかった事が腑に落ちました。

なんたる違いでしょう。自分でもわかる。

ゆったりしていて、なんとも気持ちがいい。

足首は緩んでいく。

比べてやってみて、やっと分かりました。

「回す側でやると上に立った支配的な感じになる。回される側にたつと全体が和となる」とハリマンさん。

さする時も揉む時も、ずっと自分の体にする側に立って生きてきました。

皆さんはとっくにお分かりなんでしょうね。

でも、私はこのことが腑に落ちた時、あーもう今日はここで終わっていいです。と思いました。(つい、声にも出しました。)

足首が回される側を感じる時、自然に目を閉じてました。

そして効率追及でせっかちな私の頭も指示を出さなくなり、ゆったりポカーンとなったのでした。

参加できて、しみじみ良かったです。ありがとうございました。


✾ハリマン返信
>「回す側でやると上に立った支配的な感じになる。回される側にたつと全体が和となる」
>さする時も揉む時も、ずっと自分の体にする側に立って生きてきました

おそらくほとんどの人は無意識に足首をほぐしているので、「足首を回す側」に立って(からだをほぐすために、からだを○○してやろうという側に立って)足首を回します。
すると、一方的な語りかけになって…言い換えれば、支配的、強制的になって…分離が起こります。
「いうこと聞かせる側」と「いうこと聞かされる側」。
本来一つ、一人である自分が「いうこと聞かせる『頭』」と「いうこと聞かせられる『身体』」に分かれます。

「回される側」「ほどかれる側」に立つと、分離が消えるようです。
足首を「回される側」に立つと、受容的になり「回す側」を受け入れます。
と、同時に、両者に調和が起き、静かになり、繊細になり、微細になり、溶け合い、奥の深いところで交わります。
ひとつの自分という存在の中で主体と客体という境が消え、まじわりとけあう。
おおげさに言えば、ひとつのいのちの中でセクシュアルともいえるまぐあいが生まれ、とけます。

調和、和合、WHOLE。
和。

(^-^)簡単にいえば、足首を回す手の動きがゆっくりとなり、心は耳を澄まし始めます。
感覚だけがあり、無心無我となります。
言葉のない世界、言葉を超えた世界に入ります。

「足首ほぐし」。
ただそれだけのなかに、奥深いものがあります。
「ひとつ息を吐く」「お辞儀をする」も同じです。

>私はこのことが腑に落ちた時、あーもう今日はここで終わっていいです

パソコンの画面に見えるMさんの表情が一瞬で変わりました。
やわらかくなった、内側からとろける表情。ほどけて、美しい香りがあふれてくるようでした。
実際、喜びにあふれてましたよね。
「ああ、死ぬ前に気づけて良かった。このことに一生気づかない人もいるかも知れない。よかった!」。

今回のように足首回しひとつでも、その人の「在り方」は変わるのです。
タッピングも同じですね。
タッピングされる側に自分を置くと=在り方が変わると、やり方が変わり始めます。

私もとても楽しかったです。
嬉しかったです。
ありがとうございました🌸m(__)m🌸






【2021.9.21 ゆるむ、ほどける、くつろぐ編】

✾昨日もありがとうございました。

この所、特にハリマンヨガの時間は頭がほとんど機能せず、身体には言葉にしたい感覚が溢れてくるのですが、言語化できないもどかしさと新鮮さ。

今まで通り働こうとする頭(思考)が
すご〜く戸惑って窮地に陥ってるみたいです。

前回は(ほどける)と言う感覚、今回は(命)の感覚がどよめきのように真の芯に響いて、眠れないくらいでした。

舌の先を歯茎の上につけることの必須?は知っているつもりだったのですが、昨夜は全く反対の反応がありたじろぎました。
今日再度こころみたら、舌先をつけた方が俄然柔らかくうごきました。

最近、朝起きたら舌が干からびたみたいになっているので、眠っている時口呼吸になってるんだと改めて気がつき、今朝から久しぶりにあいうべ体操開始しました^_^

ほどけると言う感覚は溶けるや流れるというのとはまるで違う感じです。
溶けたものは又かたまりそうですが、ほどけたものは解けたまま永遠でそこに在る感じでした。



✾ハリマン返信
>溶けたものは又かたまりそうですが、ほどけたものは解けたままで永遠にそこにある感じでした

はい、上の言葉すごく感じ入ります。

奥のところで深く震え、響きます。


>身体には言葉にしたい感覚が溢れてくる
>言語化できないもどかしさと新鮮さ

今まで眠っていたものが、少しずつ目を醒まし始めたのかもしれまん。

「もどかしさ」と「新鮮さ」
よくわかります。 

もどかしい。
それでも、そぉっとそっと、澄んだまま 。

新鮮さ。
清んで、澄んで、ただ新鮮さ、そのままに 。

しだいに いのちの裡から 言葉がひらかれてくると思います。

というか、闢かれはじめましたね。


真の芯 。


Tさん、ありがとうございます。



 



✾昨夜は愛媛でも美しいお月様が出ていました。
夕方にぱんぱんに張っていた首から肩にかけてでしたが、ヨガ終了後にはお陰様ですっかりとれて、清々しい気持ちでお月様を見上げることができました。

特に上半身をほぐすことに重点があったわけではなく、骨盤をいっぱい揺らして、全体をバランスよく伸ばしたことだけが印象に残っているのですが、それでこんなに楽になれるなんて!と嬉しかったです。

いつもしてくださるお話は、あまり頭でとらえようとせず、感性で…と心がけているのですが、目に見える奥にあるものの深さやロマンを感じてワクワクしたり、私たちの体を通して、宇宙まで広がる大きな可能性に希望が見えて嬉しくなります。何よりハリマンさんご自身のワクワク感が伝わってきています。

ありがとうございました。

最後に質問です。
舌を上の歯茎の裏に付ける件ですが、口を閉じて舌を前の方に持っていったら、自然に舌全体が上顎に収まって舌が歯茎に触れていると思うのですが、口を閉じていても意識して力を入れて「舌先」を歯茎につけるようにした方が良いのでしょうか??ベロが上顎全体にくっついているのなら楽にできます。

 

 

✾ハリマン返信
>舌を上の歯茎の裏に付ける件ですが、口を閉じて舌を前の方に持っていったら、自然に舌全体が上顎に収まって舌が歯茎に触れていると思うのですが…

はい。それだ大丈夫です。
本来はOさんのように上口蓋に舌がぴったりくっついて納まっているのが自然(といか理想的)です。
(わからない人は、つばを飲み込むときの舌の位置を感じてみてください。舌が上口蓋にぴったりとくっついているはずです。それが理想の位置です)

今の時代は、柔らかいものや食べやすいものばかりを食べる傾向があり、それらにつられて咀嚼不足で奥歯でたくさん噛む習慣がありません。
そうなると、顎の力や舌の力が衰え、舌の位置が下がり、口を閉じても舌が上歯茎にくっついてない人も多いです。
そういう人たちにフォーカスしての昨夜の言い様でした。

★昨日参加されてない方のために書きますと、舌位が下がり、上の歯茎に舌が触れていないと、触れているときに比べ身体の氣の流れが低下します。
また、わずかな重さと思われるかも知れません、舌がきちんと納まってないと舌の重さを支えるために首に負担がかかります。

ちなみに私も二年前まで舌位が下がってました。
自分では生まれてからそれまで、舌位のことなんて考えたこともありませんでした。
ある時、整体の先達から指摘され、また歯科医師からは「生まれるつき上口蓋が狭くそのまま成長したので、舌が上口蓋に納まりにくくなっています」と言われました。
そのような人は少なくないそうです。

舌位が下がっていると、氣の循環の流れが低下する・口呼吸になりやすい・虫歯になりやす・首が凝る・姿勢が乱れるなどにつながりやすいです。

私は舌位を上げるために、毎朝、洗面台で舌はがし・あによべ口腔体操(あいうべ体操)を一年間やったところ、舌位上がりました。
よく咀嚼する習慣も、顎を鍛え、舌を鍛えることにもつながります。
そして、舌位が上がると鼻呼吸がしやすくなります。

●違う話ですが昨夜の話に関連する追伸
私たちは2021年の社会・世界を生きている「いのち」であります。
でも、このいのちの中には人類誕生してからの20万年生き抜いてきた遺伝子が遺っています。
もっと大きく言えば138億年前、宇宙が始まって以来の宇宙遺伝子の集まりで、最先端のいのちとも言えます。
生命の元をたどっていくと地球(木火土金水)から誕生し、星と地球の関係から誕生し、その星の始まりも始りを辿っていけば…「オウム」という宇宙に最初に生まれた「音=振動=波」だとヨガの世界は言っています。
ちなみに、古事記では「う」という音(振動・波)が初めに現れ、そこから「あ」の渦と「わ」の渦が生まれ、今もなお世界(宇宙)は新しく創造されていると。

超、話が大きくなりました(笑)が、
自分たちの「いのちのスケール」を、どれくらいのスケールで持つことができるかということは、これからの時代、とても大切なことだと思います。
『人間』というスケールをどう持つか、『いのち』というスケールをどれくらいのスケールで捉えられるか。
私たちは「2020年代の社会枠内の人間いのち」でもあるけれど、「宇宙的スケールを持った存在という人間いのち」でもあります。








【2021.9.14 瞑想・意識編】


✾朝から雨音がすごい愛媛です。
昨夜もあっという間の楽しい時間でした。
ありがとうございました!

心の内なる声に耳を澄ますこと。


昨夜の解説に加え、身体を触りながら「ただ感じる、その感覚でさえ言葉に変換しない」というような(?)ハリマンさんのひとことに、「耳を澄ます」の奥深さ、繊細さをいつもより深く感じました。
つい言葉に変換してしまっている自分を客観視でき、意識することでどんどんワークにシンプルに向き合えたように思えます。

普段、自己流身体ほぐしの時だけでなく、生活の中で何かを決めなくてはならないシーンでも、できるだけ頭で考えるよりも「今どう感じてる?どうしたい?」と身体に聴こうとする、これまでとは違った自分の姿勢にも喜びを感じていましたが、ワークを重ねることで、まだまだ進化できそうなワクワク感が生まれています。

面白かったのはジベリング(でしたっけ??)。
3分間も!?と思いましたが、やってみたら「まだまだ行けそう!」という楽しさが!終わった後のスカッと爽快感には驚かされました。

そのままの楽しい気持ちでの母音のワークも、音の振動がいつもより素直に体に響く感じがし、頭のスッキリ感は、今朝も続いています。

日々丹田を意識することでの、身体や行動の変化も味わいながら、ハリマンヨガのお蔭で、日常が変わっていくことを実感しています。

昨日は茶道でコロナで着る機会がなかったため、久しぶりに着物を着てのお点前をしましたが、胸を帯でしめつけられたうえで、丹田を意識することの難しさ!着付けの工夫やまだまだ足りないタンデリング修行など、道は長いことを実感です。


✾ハリマン返信
>ただ感じる、その感覚でさえ言葉に変換しない…

「耳を澄ます」。そっと、ピアニシモに、意識を向けるだけ。
「心を澄ます」。なんにもしない、ただ 在る。

「自分」を澄ます。

「ほんとうに起きていること」「ほんとうに生まれていること」に意味垢をつけずにふれる。

ふれる と ふれられる は常に一緒です。

ひいつのいのちです。

ほんとうにふれるとき、ふれるとふれられるの「別(境・分離)がほどかれます。

ひとつのいのちにほどかれます。

丸ごとの(WHOLEの)ひとつのいのちに還ります。


>身体を触りながら「ただ感じる、その感覚でさえ言葉に変換しない」というような(?)ハリマンさんのひとことに、「耳を澄ます」の奥深さ、繊細さをいつもより深く感じました。
つい言葉に変換してしまっている自分を客観視でき、意識することでどんどんワークにシンプルに向き合えたように思えます…

(^-^)はい。
ハリマンヨガのモットーは、易しいシンプルなことを ほんとうにやる です。
「ほんとうのこと」は、当たり前すぎて、容易くて、シンプルです。
幸せの青い鳥のようです。

その、誰も気に留めないような「やさしい、シンプル」なことの中に、壮大ないのち(宇宙)の力(ハタラキ)があります。

それに氣づけた人は、よりいのちの力が発露されます。


「いのち」のスケールをどう設定するか。

今の令和の社会に収まる小さなスケールのいのちか、宇宙が始まって以来、その力の中で遥かに綿々とつながっているいのちととるか。

どちらも自分です。小さな自分と遥かな自分。

それらが互いにまぐわい、交わりながら、影響しあいながら、ひとつの宇宙といういのちがつねに新しく変化している。そんな気がしてなりません。

小さな社会(世界)も、遥かなスケールの宇宙も。


内が外になり

外が内になり

小宇宙が大宇宙を通り

大宇宙が小宇宙を通り

いのちにいのちがとおる

いのちがいのちをとおる。


追・ジベリッシュ。
身体だけでなく、言葉や呼吸や頭も、膠着・鬱滞しないように時にはほどいてみる(^-^)
言葉も呼吸も身体も頭も心もぜんぶ一つ緒の、丸ごとWHOLEの「からだ」です。
「自分」が「澄んだ(清んだ」とき、空となり、「からだ は 空だ」になります。

空っぽになって、「宇宙いのちの 器」になります。






✾先日のヨガ教室、楽しかったなぁと思い出してます。
「感覚そのものになる」ことについて、先生が話していたと思うのですが、それまでのいろんな動きで、ほぐれてほどかれて、最後のチャクラの発声で、「あ。わたし、音だった。」と、音そのものになっている感覚で広がっていました。

わたしは、本当は「音(周波数)」なのに、触覚や感覚や、あたかもそれが実在かのように感じることができる。それってすごいなぁ、と。
はじめに言葉ありき。確かに、と実感しました。

また、ジベリッシュは本当面白かったです。
私、出来るのかな?と思って始めたら、つるつる出てくる!終わったときに、ほっぺたが子供みたいに持ち上がってる感覚で、それも楽しかったです。

ありがとうございました。


追伸
思い出したので、もう一つ感想を。
先日のヨガ教室では、自由にからだに任せてみる、というワークが続きました。
「自由に」って言っても、どこかで頭が働いてしまうから難しいな、と思っていましたが、なぜかこれまたするすると、からだがうごきました。

そのワークの前に、ただ身体に触っていくだけのワークがあり、不思議なことに、ただ触ってるだけなのに、解放、浄化のあくびや涙、げっぷがどんどん出ました。
不思議だけど、きっと「ほんとうに」「触れる」ことができていたんだと思います。

そうした流れがあって、自由に動くこともできたし、音の感覚にも繋がっていったんだなぁ、なんかすごいなぁ、と思いました。

ご一緒できる皆さんにも、感謝です。



✾ハリマン返信
>私、出来るのかな?と思って始めたら、つるつる出てくる!終わったときに、ほっぺたが子供みたいに持ち上がってる感覚で…
>自由にからだに任せてみる、というワークが続きました。
「自由に」って言っても、どこかで頭が働いてしまうから難しいな、と思っていましたが、なぜかこれまたするすると、からだがうごきました。


(^-^)
とにかく、こころを空っぽにしてためしにやってみることですね。
子どものように、無邪気に。
そうすると、ほどかれます。

「頭」を外し、「意味」を外し、強い「念」(笑)を外し、ただやってみる。
無邪気なこどものように。

…ほっぺたが子供みたいに持ち上がってる… よくわかります。この言葉だけでも「からだ」に喜びが湧いてきました(^^)

…「ほんとうに」「触れる」ことができた時、別なく(境なく・分離なく・時差なく・即)「ほんとう」から「触れられて」います。
天才サックス奏者:阿部薫が言った「僕はだれよりも速くなりたい。寒さよりも、アンドロメダよりも」という言葉も、このことが含まれていると思います。

ほとんどの人はヨガであれ、何であれ、「ほんとうに」はやってないんですね。
言い換えれば「いま」にいない。
「この効果は?」「段取りを覚えておこう」「何のためにこんなことやるのかしら?」「あ、これは知ってる」「今の感情のイライラが収まったらやります」って思いながらやったりしてます。
それじゃ「いま」にはいられないです。

(先ほど「念」と書きましたが、一般的には「念」とは強く願うこととされているように思いますが、次元を上げて言えば、「念」とは「今にある心」のことです。
そこに「自我」はありません。心が今にあるとき、無心です)

「効果は?」「覚えておこう」「何のため?」「知ってる」「後でちゃんとやる」と心に浮かぶのは自然なことで良いも悪いもないのですが、
その心を引きずらず、やる時はただシンプルにほんとうにやる だけ って無心無我でやると つるつる、するすると Aさんのように「ほんとう」にほどけてゆきます(^-^)

『ただ身体に触っていくだけのワーク』。私も大好きです。