帰家穏座 | そら、空 HARI MAN

そら、空 HARI MAN

BEING HARI MAN

RE ふたたび LAX  ゆるんで 、 HARI 聖なる MAN 人間へ 


  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【帰家穏座】


身体感覚は いま、ここ です 
いま、ここにしか 身体感覚はありません 
 
 

マインドは過去です
過去の記憶で構成されています
過去の記憶から未来を思考します 
マインドを働かせているとき、いまここにいることはできません 



でも
いま、ここ からしかいまここのじぶんとつながれません
いま、ここ からしか隣の人とつながれません
いま、ここ からしかいのち宇宙とつながれません
いま、ここ でしか共振共鳴は起きません




マインド(自我)は、過去の緊張の記憶です
それの緊張が体に残っています
「わたし(自我)」とはその緊張のことです
その緊張(=自我=マインド)で やわらかでのびやかな「わたし(自己)」が見えない、感じられないのです

 

でも、
緊張・自我・マインドがゆるまり目隠しが取れると、やわらかでのびやかな わたし=自己=いのち宇宙のひろがり を垣間見ることができます
はじめはほんの一瞬間かもしれませんが、次第に見えるよう感じられるようになり、「ああ、自分は緊張していたんだなぁ」と気づきます
ふかぁぁく 息が吐ければ どんどんゆるんで 真のりらっくすが訪れます
からだとの こころとの じぶんとの いのちとの うちゅうとの 調和が訪れます、起こります
個でありながら、いのち宇宙という全体WHOLEに還ります



その始まりの初めに あなたのからだをゆるめるんです 
いまここに からだをとおしてかえるんです



水のなかの水に境目がないように
いのちのなかのいのちに還ります



そして、またあらたな個に還ります




✾ ✾ ✾ ✾ ✾




「自分で在る」こと


僕は夕暮れが好きです。夕暮れどきの商店街で買い物したり、散歩したりするのが好きです。

朝、昨日の疲れやいらだちをひきずって起きても、昼間いそがしくココロが いがいがしても、まぁるいあかぁい夕陽をみると、染まっている空、買い物しているおばさんみると、
ふーっと息を吐きだして、力が抜けて、すーっと立っている自分に気づきます。

空も町も柔らかいし、自分も柔らかく立っています。

夕暮れの魔法かなぁと思います。

夕暮れどきの不思議な力です。


昼間はだめです。時間に、きまりに、機械に、速さに自分を合わせ、人(自分も他人も含めて 人)に対してもついきつい口調になったり、冷たい言葉を平気で吐きます。

昼間は我慢して、自分をごまかしてやらなきゃいけないことが多すぎます。多すぎるから自分を押し殺したり、ごまかしたりしているのを忘れてしまいます。だから他人(ひと)にもいろんなことを強制できるのだと思います。

昼間にはきまりや「ねばならない」ことが多いですよね。そんなとき、自分や他人をごまかして我慢させるのに便利なことばが「・・べき」ですよね。

「そうすべき」「そうあるべき」ということばです。


自分が今あるのは、ある程度「そうすべき」「そうあるべき」といわれていることをやってきたからです。

ある意味では、いろんな「べき」に守られ育ってきた、育てられてきたともいえるでしょう。

今まで守ってくれて ありがとうって思います。

でも、そろそろいろんな「べき」をはずしていきたいと思います。
いろんな「べき」をからだにくっつけておくのが窮屈になってきました。「べき」をくっつけておく窮屈さ、そして冷たさ。高校生の頃から感じていたみたいです。
だからイラついたり、無気力になったり、人を責めたり遠ざけたりしたのだと思います。

自分でくっつけた「べき」なのに、他人のせいにしていました。その「べき」に頼って自分は育ってきていたのですが。


僕はいろんな「べき」を溶かしてしまって、夕暮れの世界に浸りたいと思います。逃避なんかじゃぁありませんよ。


昼間の「べき」の世界は好きではありません。自分も他人(ひと)も大切にされません。今の日本では経済が優先されています。お金の方が大切にされています。

そのために時に人は、時間や規則、秩序なんかで緊張させられ、分断させられ、ぶつぶつとぶつ切りにされることがあります。
ある曖昧な価値観で自分や他人を縛りつけています。

それぞれの人が、それぞれのあるがままでいることをなかなか許そうとしません。

自分の眼や耳や心を澄ましてながめればわかると思います。



学校の多くも「べき」の世界ですよね。もちろん、幸せにも「夕暮れ」みたいな学校で育った人もいるでしょうけどね。

そういう世の中で育ってきて、ひょっとしたらあなたも無自覚にいろんな「べき」をくっつけて、自分や他人を ぶつっぶつっっとぶった切って苦しめていませんかぁ。
自分の心を閉ざしたり、人を遠ざけようとしていませんかぁ。

僕は今自分で意識できるだけでも、小学校と高校時代に友人の心を固くさせました。
自分の眼や耳やココロにくっついた「べき」のために友だちの淋しさや混乱、辛さが見えませんでした。気づいていたのかも知れないけど、自分のものではない受け売りの「べき」を選び、人を遠ざけました。
そしてそのことで、自分もココロを固くさせました。

しかし、固いココロ、閉じたココロは悪循環しかつくりません。


やわらかく在りたいと思います。

力みがなく、
地面からエネルギーを受けて、足の裏からスーッと背骨、頭のてっぺんまで素直に流れているような在り方。
スーッ とたって、ストンッ といて、ポンッ とあるような在り方、居方。
自分で勝手につくり出した力みで、ぶつっぶつっとからだを分断させるような在り方ではなくて。

そういう在り方の手本を「夕暮れ」が示してくれているように思います。

夕陽、夕焼け、夕暮れの商店街。柔らかいなぁと思う。無心だなぁと思います。

昼間には人にも、自分にも街にもあった「べき」が溶けてなくなっちゃってる。そうしたら、やわらかぁくなっちゃってる。


僕たちの目の前には、すでに敷かれている快適で楽しそうなレールがありますよね。
そしてそこをたくさんの人が走ってますよね。

僕もそうなんだけど、大学に入るまであまり考えずにレールの上を走ってきた人は多いように思えます(その過程が楽しかったか苦しかったかは知らんけど)。でも、そのレールを無自覚に進んでいくのはやめた方がいいですよ。

少し落ちついたら自分が走ってきたレールのまわりを見てください。その行き先がどこなのか考えてください。そこを走っている人たちの表情を ようく 見てください。誰のためのレールなのか考えてください。レールを、レールを走っている人たちを、そこで起きている出来事をようく見てください。

そして同時に、自分自身がRelaxし、喜びを感じ、人を感じることができるのはどんな時かに注意を向けてください。

人が嬉しそうな顔をするのは、人がやさしく在る時はどんな時なのか、ようく見てください。

試行錯誤の中で、自分自身の中にある静かな中心に触れてください。在るがままに感じてください。

そうしたら、どんどんどんどんやわらかぁくなって、どんどんどんどんたくましくなってゆけますよ。


僕は「べき」という言葉を使いましたが、それとレールの上を無自覚に進んでいくのは同じことです。

無自覚に進むと行く先は自分以外の自分です。

それは硬直して苦しい在り方だと思います。

人は自分自身で在るとき最善で、いちばん柔らかく、他人(ひと)をも元気づけてあげるられるのだと思っています。


夕陽、夕焼け、夕暮れの商店街。やわらかいなぁと思います。


(1990年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

じぶんたちの いのちのスケールの大きさ、いのちのここちを知るために

参加申し込み受付中

4./17,29 5/2,3 ハリマンヨガ体験会 参加費1,000円

参加申し込みはharimanyoga☆ezweb.ne.jpまで(☆を@に変えて)

 

 

5/29鎌倉ワークショップ『 いのちのスケール、いのちのここち」
参加申し込みはharimanyoga☆ezweb.ne.jpまで(☆を@に変えて)

 

 

 

~ハリマンヨガのご案内~

いつでもご参加ください

ハリマンヨガはHRAI-MAN YOGAと書きます
HARI とは サンスクリット語で HOLLY の意味です

HARI-MAN
聖なる人間

 

 

ハリマンヨガの2本の柱

からだをゆるめて、ほどいて、埒(らち)のない出発点に還ること 。

日常が楽になります。

 

自分の、人間のいのちのスケールを知ること、体感すること 。

日常がゆたかになります。

 

この二つ 。

 

ハリマンヨガのモットー

「頭は捨てる。シンプルにほんとうにやってみる」。

 

 

 

ハリマンヨガホームページ