大学でスポーツビジネスについて話をする機会がある。
スポーツビジネスを学ぶ際には、近代史、メディアの発達、時代時代の社会情勢は必ず学んでおく必要があると思う。
20世紀はどんな時代だったかと言われると人によって様々だが、戦争の世紀、コピーの世紀、メディアの世紀、映画の世紀、…そしてスポーツの世紀ではなかっただろうか。
「スポーツの世紀」は言い過ぎだろうか?
では東西冷戦において何故米ソは金メダルの数を競ったのだろうか?
ここではオリンピック誕生から発展の経緯は省くが、当時国威を示すためにオリンピック以上のイベントは無かったというのは紛れもない事実だ。
そしてそのオリンピックはテレビの普及によってさらに多くの人々を惹きつけた。
そうした中、大会レベル、競技レベルの向上には多額の資金が必要だった。
しかし当初それができず1976年のモントリオール五輪では市民がその後10年間に渡って税金を納め続けるという事態が起きてしまった。
それを教訓にした1984年のロス五輪がスポーツビジネス拡大の一つの契機だった。莫大な資金の回収の為に放映権やスポンサーシップ権、マーチャンダイズ権等を整理し販売した。
その後人気の博したサッカーでもFIFAにより洗練された形で各種権利が販売された。1990年代になり衛星放送が始まった時「リアルタイム性」、「グローバル性」という衛星放送ならではの特性にスポーツの相性は良くさらに発展していった。(のちの一部行き過ぎた結果バブルを引き起こしたのは事実だが…)
そもそもスポーツが現在の形になったのは産業革命(18世から19世紀)以降の話だ。それまでスポーツは上流階級の貴族のもの(気晴らしに行われたもの)。産業革命で農民が労働者となる。それまで農民には余暇は無かったが労働者には労働する時間のほかに労働市内時間=余暇が出来た。スポーツは余暇を過ごすために適していた。それがスポーツが大衆に広まるきっかけだった。
こうしたことからも分かるようにスポーツは元来その時々の時代背景、社会情勢に上手く利用されながら敏感に反応し発展していったようだ。
つまりスポーツビジネスについて理解するためには現在の社会情勢、時代背景の理解が必要なわけだ。
最近指導の現場と向き合っていて、スポーツビジネスだけでなく競技そのものも時代背景、社会情勢に大きく影響を受けているのではないかと感じる。
サッカーは昔も今も同じサイズのピッチで11人対11人が1つのボールで相手ゴールにより多くのゴールを奪うことで勝敗を決するスポーツだ。その原理原則は変わらない。ルールも「紳士たれ。」という基本原則を守るために相手を傷つけたり、相手ゴール前での待ち伏せ等の禁止に纏わる制約が殆どだ。しかしテレビ放映の普及、観衆に向けたエンターテイメント性等環境の変化に伴い遅延行為の禁止、それを避けるためのゴールキーパーの制約等マイナーな変化は起きている。
競技特性からサッカーをみるとどうなっているのだろうか。当初相手ゴール前になるべく早く到達するために縦に長いパスで侵入するのがもっとも手っ取り早い方法だった。そのため大きく強いフォワードや速くて上手い選手を前に配置してなるべく高い位置でその選手にボールを渡し何か起きることを期待していた。それに対応するためにゴール前の守備陣が大きく強くなる。そうなるとなかなかゴールが奪えないので一度サイドに展開してから中央を攻める。次にサイド攻撃に対しての対応が工夫される。それならばということで縦と横の組合せによる攻撃が生まれる。相手にイニシアチブを取られたままで横に縦に様々な方法でゴール前に運ばれると失点の可能性が高まる。だったらということでいわゆる決定的なパスの出しどころを抑えるためにパスの出し手に対しての守備の技術が進む。パスの出し手を特定させないためにより早いテンポでパスを回す…
漸く今のバルサのサッカーに追い付いてきた。
時代特性の反映というよりも勝つための試行錯誤の結果だ。
しかしこうした進化がサッカーの歴史の古い欧州と日本でほぼリアルタイムで起きている。おそらく30年前には起きていなかった現象だ。単なる試行錯誤であれば、日本では歴史の差だけ遅く現状のサッカーの傾向が現れるはずだ。しかし今や町の少年クラブがバルサのサッカーをまねし、メッシだけでなくシャビやイニエスタのパス回しを口にする時代だ。それもこれもメディアの発展によるスポーツのリアルタイムのグローバル化が大きな要因だ。こうして考えると競技そのものも時代に大きな影響受けている。
バルサのようにパスを回すサッカーは見ていて楽しい。しかしそれをゴールに近づけ得点機会を増やすために回すことを指導するのは簡単ではない。
回すことが目的ではなく得点する為である以上パスの出し方、止め方というスキルに加えて、「いつ」「誰に」「どこで」パスするのかという判断力とそのスピードを理解させないといけないからだ。サッカーに答えは無いと良く言われる。しかし“より良い”「解」は常に存在する。バルサのようなサッカーを指導するという事は判断力や判断の質やスピードのより良い解を常に与えることに他ならない。こうしたことを伝えるためには説得力が必要だ。その説得力を出すためには、バルサのサッカー、つまりテレビやインターネットを通して目で見える現象をその背景から本質的に理解して分かりやすく簡潔に説明できないといけない。技術発展は視覚的な利便性を劇的に高めた。目で見たことを真似することから始めることは非常に効率的かつ効果的な手法だ。しかし誰でも出来ることだ。形を本来の目的に近づけるためにはどうしてもその本質を理解しないといけない。
2月にシーズンが始まり、あと2週間でリーグ戦が開幕する。多くのパスサッカーと出会うはずだ。それが単なるスタイルとしてのものか、ゴールに近づくという本質を理解し極めたうえで行われているものかきっと8か月後に答えが出るはずだ。
スポーツ、サッカーに限らず指導する側の学ぶ意識が益々重要な時代になってきた。
大変だがやりがいのある時代になってきたなぁと思う。
スポーツビジネスを学ぶ際には、近代史、メディアの発達、時代時代の社会情勢は必ず学んでおく必要があると思う。
20世紀はどんな時代だったかと言われると人によって様々だが、戦争の世紀、コピーの世紀、メディアの世紀、映画の世紀、…そしてスポーツの世紀ではなかっただろうか。
「スポーツの世紀」は言い過ぎだろうか?
では東西冷戦において何故米ソは金メダルの数を競ったのだろうか?
ここではオリンピック誕生から発展の経緯は省くが、当時国威を示すためにオリンピック以上のイベントは無かったというのは紛れもない事実だ。
そしてそのオリンピックはテレビの普及によってさらに多くの人々を惹きつけた。
そうした中、大会レベル、競技レベルの向上には多額の資金が必要だった。
しかし当初それができず1976年のモントリオール五輪では市民がその後10年間に渡って税金を納め続けるという事態が起きてしまった。
それを教訓にした1984年のロス五輪がスポーツビジネス拡大の一つの契機だった。莫大な資金の回収の為に放映権やスポンサーシップ権、マーチャンダイズ権等を整理し販売した。
その後人気の博したサッカーでもFIFAにより洗練された形で各種権利が販売された。1990年代になり衛星放送が始まった時「リアルタイム性」、「グローバル性」という衛星放送ならではの特性にスポーツの相性は良くさらに発展していった。(のちの一部行き過ぎた結果バブルを引き起こしたのは事実だが…)
そもそもスポーツが現在の形になったのは産業革命(18世から19世紀)以降の話だ。それまでスポーツは上流階級の貴族のもの(気晴らしに行われたもの)。産業革命で農民が労働者となる。それまで農民には余暇は無かったが労働者には労働する時間のほかに労働市内時間=余暇が出来た。スポーツは余暇を過ごすために適していた。それがスポーツが大衆に広まるきっかけだった。
こうしたことからも分かるようにスポーツは元来その時々の時代背景、社会情勢に上手く利用されながら敏感に反応し発展していったようだ。
つまりスポーツビジネスについて理解するためには現在の社会情勢、時代背景の理解が必要なわけだ。
最近指導の現場と向き合っていて、スポーツビジネスだけでなく競技そのものも時代背景、社会情勢に大きく影響を受けているのではないかと感じる。
サッカーは昔も今も同じサイズのピッチで11人対11人が1つのボールで相手ゴールにより多くのゴールを奪うことで勝敗を決するスポーツだ。その原理原則は変わらない。ルールも「紳士たれ。」という基本原則を守るために相手を傷つけたり、相手ゴール前での待ち伏せ等の禁止に纏わる制約が殆どだ。しかしテレビ放映の普及、観衆に向けたエンターテイメント性等環境の変化に伴い遅延行為の禁止、それを避けるためのゴールキーパーの制約等マイナーな変化は起きている。
競技特性からサッカーをみるとどうなっているのだろうか。当初相手ゴール前になるべく早く到達するために縦に長いパスで侵入するのがもっとも手っ取り早い方法だった。そのため大きく強いフォワードや速くて上手い選手を前に配置してなるべく高い位置でその選手にボールを渡し何か起きることを期待していた。それに対応するためにゴール前の守備陣が大きく強くなる。そうなるとなかなかゴールが奪えないので一度サイドに展開してから中央を攻める。次にサイド攻撃に対しての対応が工夫される。それならばということで縦と横の組合せによる攻撃が生まれる。相手にイニシアチブを取られたままで横に縦に様々な方法でゴール前に運ばれると失点の可能性が高まる。だったらということでいわゆる決定的なパスの出しどころを抑えるためにパスの出し手に対しての守備の技術が進む。パスの出し手を特定させないためにより早いテンポでパスを回す…
漸く今のバルサのサッカーに追い付いてきた。
時代特性の反映というよりも勝つための試行錯誤の結果だ。
しかしこうした進化がサッカーの歴史の古い欧州と日本でほぼリアルタイムで起きている。おそらく30年前には起きていなかった現象だ。単なる試行錯誤であれば、日本では歴史の差だけ遅く現状のサッカーの傾向が現れるはずだ。しかし今や町の少年クラブがバルサのサッカーをまねし、メッシだけでなくシャビやイニエスタのパス回しを口にする時代だ。それもこれもメディアの発展によるスポーツのリアルタイムのグローバル化が大きな要因だ。こうして考えると競技そのものも時代に大きな影響受けている。
バルサのようにパスを回すサッカーは見ていて楽しい。しかしそれをゴールに近づけ得点機会を増やすために回すことを指導するのは簡単ではない。
回すことが目的ではなく得点する為である以上パスの出し方、止め方というスキルに加えて、「いつ」「誰に」「どこで」パスするのかという判断力とそのスピードを理解させないといけないからだ。サッカーに答えは無いと良く言われる。しかし“より良い”「解」は常に存在する。バルサのようなサッカーを指導するという事は判断力や判断の質やスピードのより良い解を常に与えることに他ならない。こうしたことを伝えるためには説得力が必要だ。その説得力を出すためには、バルサのサッカー、つまりテレビやインターネットを通して目で見える現象をその背景から本質的に理解して分かりやすく簡潔に説明できないといけない。技術発展は視覚的な利便性を劇的に高めた。目で見たことを真似することから始めることは非常に効率的かつ効果的な手法だ。しかし誰でも出来ることだ。形を本来の目的に近づけるためにはどうしてもその本質を理解しないといけない。
2月にシーズンが始まり、あと2週間でリーグ戦が開幕する。多くのパスサッカーと出会うはずだ。それが単なるスタイルとしてのものか、ゴールに近づくという本質を理解し極めたうえで行われているものかきっと8か月後に答えが出るはずだ。
スポーツ、サッカーに限らず指導する側の学ぶ意識が益々重要な時代になってきた。
大変だがやりがいのある時代になってきたなぁと思う。