ローマ帝国後期(特に3世紀以降の軍事改革後)におけるドゥクス (Dux)、コメス (Comes)、そしてパトロヌス (Patronus/Patron) は、帝国の軍事・行政組織の変化と、地域的な力の再編を示す重要な用語です。

Dux(ドゥクス、公): 3世紀以降に設置された軍事指揮官の称号。元々は地域的な部隊を率いる指揮官(しばしば辺境の部隊)を指し、のちに軍事長官としての性格が強くなりました。

Comes(コメス、伯): 皇帝に直属する「随行者」や「仲間」を意味し、宮廷や軍の大部隊を指揮する高位の官僚・軍司令官に与えられた称号です。

Patron(パトロヌス): ローマ社会の根幹であるパトロン・クライアント関係(庇護者・被庇護者関係)の庇護者。後期ローマでは、地元の富裕層や軍事的権力者がパトロンとなり、弱小な農民や地方自治体を「守る」代わりに、経済的・政治的影響力を行使しました。 


これらの関係性と背景
ローマ帝国が軍事的な脅威(ゲルマン人やササン朝ペルシア)に対応するため、軍事と行政を分離し、より強力な地域司令官(Dux)や皇帝直属の側近(Comes)を配置する体制に移行した過程で、彼らが地方のパトロンとしての地位を強めていきました。この構造は、西ローマ帝国の崩壊後、封建制の基盤へと変質していきました。 


分立separation 分業division、このラテン語由来の言葉の違いはともかく、分立と分業の違いで話を進めるが、まあ三権分立論とやらは、ホンマ気持ち悪い。「三権分立論なんてブルジョワ的装置」と言ったマルクスを褒めてやりたいくらいである。

実際、三権分立論なんて、その三権に属した者同士の仕事の限定化と癒着隠蔽のアリバイ作りなんだよね。それに第四権力のオールドメディアが絡んでいる日本だから、もうどうしょうもないかな?

まずだね、三権分業に進化させて第四権力のオールドメディアを何とかして見せてくれよな。まあ左翼的野党と司法解説(特にメディア出演の弁護士類)が自らの役目を権力の暴動を抑える監視役に限定して御活躍だから無理だろうけど。もう一度言うと「自らの役目を権力の暴動を抑える監視役」と自称している輩が、一番問題ってことね?

正当な報道と解説ができるメディア体制を確立すること、そして三権分立からみんなに見てもらいみんなに意見を言ってもらえる三権分業に進化させること。そのためには自称監視役が邪魔すぎ。

肝心な三権分業ができないから、これからも間抜けな三権分立についての三角形の図で、次々と育ってくる子供たちに説明するのに忙しいことだろう。

おバカに優しい社会。もはや中道改革のような徒党を組んだ自己反省を身につけた方が、安全な日本です。

 

 
モンテスキュー(1689-1755)が、1789年に勃発したフランス革命の顛末(特にジャコバン派による恐怖政治や社会の混乱)を見た場合、それを容認しがたいものと感じた可能性は非常に高いと考えられます。 その理由は、彼の思想と革命の展開には明確な相違点があるためです。
 
モンテスキューが革命を嫌ったと思われる理由
 
漸進的な改革(穏健な自由)の追求
モンテスキューは『法の精神』において、法の支配、権力分立(立法・行政・司法)、貴族や中間権力の尊重を主張しました。彼は、絶対王政のような専制を否定しましたが、イギリスのような立憲君主制(貴族院を含む制限選挙的な体制)を理想としており、革命のような急進的・破壊的な体制転換は目指していませんでした。
 
暴力や混乱の否定
モンテスキューは秩序と安定を重視する思想家でした。フランス革命がもたらした貴族社会の解体、王権の転覆、そしてその後の混乱や恐怖政治は、彼が理想とした「法による秩序」とは対極にあるものです。
 
貴族階級への信頼
彼は貴族の出身(高等法院判事)であり、貴族や伝統的な中間団体が絶対王政の権力濫用を抑制する「障壁」になるべきだと考えていました。革命が引き起こした貴族階級の没落は、彼の社会観を脅かすものでした。 
 
ただし思想的な影響はあった:モンテスキューが主張した「三権分立」や「自由・平等(制限的な)」という概念は、革命初期の1789年人権宣言(第16条など)に大きな影響を与えました。そして初期の穏健な立憲君主制への動きは肯定したかもしれませんが、革命が社会の構造を根底から覆す「急進的な市民革命」へと進むにつれ、その暴力性や秩序の崩壊に対しては明確に否定的であったろう、というのが歴史的な見方です。 
 
結論として、モンテスキューは「専制」は嫌いましたが、同様に「無秩序」や「急進的な暴力」も嫌いました。したがって、フランス革命の過激化した局面においては、彼の思想を否定するものと受け取った可能性が高いです。