ニーチェの『力への意志』について
ところで『力への意志』は各個人個人が求めるべきものなのだろうか?力は他者への影響を及ぼすことと考えると、それは『影響力への意志』となろう。
だが自分自身にたいして自信がない段階においては、人々に影響を及ぼしていることについての調査や観察の方が賢明であろう。まあそんな調査観察の時期にも『影響力への意志』を忘れるなということなのかも知れない。
中島みゆきの『糸』は広く知れ渡るのには、かなり時間がかかったわけだが、彼女には『影響力への意志』はあったのだろうか?いくら良いものをこしらえても影響力がなければ意味がないとする『力への意志』なのだろうか?また死後の影響力を想定したものも『力への意志』に該当するのであろうか?
ニーチェは弱者的道徳による強者的支配の排除を言っていたのだから、弱者的道徳の居座り的支配に対抗する『力への意志』と考えていたと思うが、そんな道徳による居座りを転覆させるための影響力の意志には、長い目で見た新たな社会観の発信も含まれるのであろうか?
自分が生きている間に自分の影響力を見なければならないとする『力への意志』ならば、なんでも「貧乏人のルサンチマン」として自分の持論を発信する金持ちが「力への意志」の完成形の見本なのかも知れない。
なにゆえにニーチェは『社会観への意志』もしくは『公共意識への意志』としなかっのか不思議である。まあそんなことをしたらナチズムの扇動に利用されて、ますます混乱しちゃったかもね?
それにしてもフロムの『自由からの逃走』は酷い著書で、日本の批判屋もしくは自らを監視役に限定して騒ぎ立てる、そんな左派政治家を育成してしまった感じだ。
「憐みとは、自らが弱く偶然の苦難にたやすく負けると感ずる人々が抱きやすく、他者の受ける害悪は自分にも降りかかると思うことによる。」
これはデカルト『情念論』二部186 の見解で、フランスのロフシュコー『箴言集』Ⅴ版264 にも似た見解がある。また日本の『情は人のためならず』の超拡大版って感じでもあろうし、『明日は我が身』にピッタリだ。はたまたイギリスのホッブズ『リヴァイアサン』六章にも似たものがあるが、そこでは同情や共感度が問題とされ、大きすぎる災難や遠い災難には薄くなると言う。
さてフランスのパスカルであるが、ジャンセニウムの原罪、堕落、恩寵論に重きを置いているためか、「不幸な人々を憐れむのは何も与えず親切の評判を立てられるのを喜ぶ」『パンセ』B版452とロフシュコー『箴言集』Ⅴ版463と類似した自利欲を示している。それは憐れられた側からの『同情するなら金をくれ』にたいして、第三者側からの『同情するなら金をやれ』なのかも知れない。
またパスカルは「不信仰者や無神論者を憐れむこと」『パンセ』B版189,190を推奨している。また『パンセ』B版229。
オランダのスピノザの場合は「他者の不幸をみて生じる悲しみ」であり、加えること同類であるという判断が必要条件『エティカ』三部定理22注解である。それはホッブズの同情共感にも似た感じだが、スピノザの場合はもっと戦闘における制裁結果にたいする受容感情の多様化状況を想定している感じであろう。
これらの憐み論を人それぞれがどう見なしたかということも含めて、知識所持の社会学や知識所持の歴史学の問題が広く深く横たわっている。