人は、個人的実績を個人的努力の成果とすることに、不快感を示す。たとえば日本では「お客様は神様」とか「関係者の支えのお陰」、あるいは「運も実力のうち」などで
その不快感を回避する傾向があった。
ところで西欧キリスト教文化圏では、アウグスティヌスの原罪や堕落と絡んだ「恩寵」が
個人的な自由意志の成果とすることにたいする対抗理念として働いた形跡が認められる。十七世紀フランスで言えばジャンセニスムのパスカルがそうだ。
しかし問題は、有名についての世界観だと思う。有名にまつわる恩恵は何だろう?有名人に集まる称賛や報酬であろうか?いや称賛や報酬が集まり始めた後も時は流れ、次なる有名が待ち構えている。そうある時点での有名における恩恵は有名人を目撃した人々(有名とは有名人だけで成立せず、有名人を認知する人々がいなければ成立しない)にも施されているのである。
有名の光によって取り残された陰を、もしかしたらアウグスティヌスの恩寵論は「原罪」と呼ぶのかも知れない。全知の神様が知らせる無知の社会学?
耳に私の歌が 通り過ぎてゆく 「喝采」
織りなす布は いつか誰かを あたためうるかも 知れない 「糸」