歴史主義やカントの理性論以降のドイツを中心とする多岐にわたる思考潮流の中、知の考古学のフーコーや記号の消費のボードリヤールなどの構造主義的思考と深く融合しうるものとして、ディルタイの世界観学(1911)やシェーラーの相対的自然的世界観(1926)が挙げられる。
若干先立つこと新カント派の西南学派代表ヴィンデルバルトが説明するには、法則定立的な自然科学と個性記述的な文化精神科学もしくは人文科学と分類(1892)されたらしい(またランケやレヴィンらの「体系的」と「歴史的」の分類も同様)が、むしろ構造主義との融合に要するのは、人文科学が「理念や世界観を抱いた人々の相互作用」であるのにたいして自然科学は「一方的に我々人間が理念や世界観に自然について組み込むためのもの」である点で分類する必要がある。たとえば認知的人工知能を持つロボット人間みたいなものが互いを認識し合ってどうなるのか?という研究は、半ば人文科学に含まれるのかも知れないが、やはり人工的知能自体は我々の人間が抱く理念で設計されている点で自然科学の側に分類されよう。
フッサールの『厳密な学としての哲学』1911ではディルタイの世界観学とフッサール自身が進めようとする現象学的態度の区別を強調している、確かに相対的歴史主義にあろう世界観学の理念内容は素朴で便りないのだが、しかし個々各人がより一層なる厳密な理念を形成させるための方法なり態度の獲得追及では到底たどりつけないであろう相対的世界観の対立議論の事実収集の意義が置き去りにされているのだ。自然科学の対立で言うならば、地動説は、天動説が正統とさせていた世界観の中いろいろ疑惑なり新たなモデル的解釈の提案などの対立議論を積みかさねることによって「惑わす惑星」ではなく「規則に則った惑星」と結びつき、ようやくより信用できる世界観になったのだ。急進的啓蒙主義は現行体制を天動説者、自身を地動説者とたとえながら、かつ長き対立議論を無視してしまう。アインシュタインの相対性理論が現れた時、急進的啓蒙主義は相対性理論を「悪魔の理論」とののしってしまう立場になりうる。それは相対的世界観という歴史観がない直線的発展歴史観で、自らを華麗なる発展判定を知り尽くした者と無意識に信じ込んでしまうからである。ディルタイはそこまで対立議論の歴史が及ぼす影響を示していないのかも知れないが、厳密な学的方法では賄いきれない領域を世界観学で示唆し始めたのであり、後のクーンのパラダイム論1962に至る素朴な原型と評価されたい。そして知識社会学のマンハイム『イデオロギーとユートピア』1929はシェーラーの相対的自然的世界観(1926)と共に、直線的進歩歴史観や弁証法的唯物史論にたいする相対的世界観史の立場を素朴ながら示している。
カントの理性論からフィヒテ、シェリングを経てヘーゲルの直線的な進歩歴史観と弁証法的な理念発展史論。そして1830年代から1840年代のヘーゲル左派の無神論的唯物論からマルクスとエンゲルスの弁証法的な唯物史論(ヘーゲル観念論からの反転)となった。これらの潮流は個人主義的な卓越選別の主知主義であり、相対的世界観や相対的歴史主義の社会学的立場と大きく異なる。実際カントの理性論や歴史主義の浸透したドイツを中心とする十九世紀では、それぞれ一長一短がある様々な思想哲学が入り乱れ、その中から比較的二十世紀後半の構造主義と融合しうるディルタイやシェーラーの相対的世界観論やフッサールの現象学を選別考慮できるのである。またそれらの一長一短がある様々な対立議論を調べること自体(思考形態論もしくは解釈図式論)は、今日の我々の日常における様々な人々の考え方の位置づけを定めるのに役立つであろう演習問題に相当するのである。
他方でフランク学派が社会改革案の提案に自らの職務を限定させたプラグマティックな思想哲学もしくは社会学に向かった。ホルクハイマー『伝統的理論と批判理論』1937のタイトルに認められるように「宗教的知識と無神論的唯物論の対立」であるヘーゲル左派、「ブルジョワ資本主義と唯物史観の対立」であるマルクス共産主義といった「後者にとる前者批判の役割」が示唆されている。『啓蒙の弁証法』1947ではフランス革命やワイマール憲法などを反定立の基準としている(啓蒙思想以前の歴史を無視した自らの問題点指摘権の独占化)のであろうか、伝統理論を定立とした自らの反定立職で総合への筋書きを宣伝しているのだ。それは他の改革勢力を排除する改革権の独占化あるいは独占化まではいかなくとも他の改革領域は対象外とする改革フランチャイズ商法なのである。現代日本で言えば万年批判専門屋の野党やTBS『サンデーモーニング』にフランクフルト学派の雰囲気が堪能できるだろう。彼らは無批判だった戦中を反省しながら政府監視の批判役を説明することによって偏向三昧であるが、自分に優しい反省によって視聴者が求める反省を上手に排除する達人で、今年の衆議院選における中道惨敗にも自分の自分による自分のための反省を炸裂させていた。そうしたフランクフルト学派の居座り批判職の確立化は『自由からの逃走』1941の論述に認められる。ナチズムの反ユダヤ政策に追われた側として心情はわかるし、当時の即効的抑制勢力形成(プラグマティックな思想哲学)として評価できるが、1960年代の半ば世界的学生運動の結果が生じた後の旧フランクフルト学派の無批判的利用については十分注意されたい。