1970年代にいたる構造主義で哲学が出揃い、そして終焉を迎えたものと考えた上で、その後の哲学を効率よく理解する方向性を示しておきたい。
 
1.ヒュームの当為oughtと事実isの区別をすること。
 あくまでも事実側を基本とし、当為については判断する人間の存在に結びつける立場に立とう。すればカントの場合、純粋理性批判が基本となり、実践理性批判は事実を解釈するものではなくして「実践理性を使用する人間の存在」を解釈する純粋理性の問題にする立場となる。
 
2.フッサールやショーペンハウアーのように判断や表象を外部の現実的状況とみること。
 我々ははじめ有意義な知識を得ようと試みるがそれが有意義であれ否であれ、実際に抱かれている知識を外部的な状態として見る必要がある。ただし知識の外部性は他者にたいしてに限らず自分自身の抱いている知識についても施す必要があり、知識社会学でお馴染みマンハイムが言うところの「普遍的イデオロギー把握」の意識に該当しよう。
 
 
 以上それぞれの関心ごとがあろうから最も重要な二つに絞ったが、それは構造主義ボードリヤールの「記号の消費」に関連づけたい事柄でもある。またボードリヤールは「消費社会の神話と構造」としたが、一方の「生産社会のの神話と構造」は?あるいは「売買社会の神話と構造」は?という思考パターンを拡張してみたいところでもある。
 
 
 欲を言えばクーンの「パラダイム」で、たとえばアインシュタインの相対性理論が従来の科学思考をイギリス経験論、大陸合理論、そしてカントの純粋理性批判などによる吟味(無意識なる思考パターンの吟味)に由来している点であり、それを人文系にも適用することだ。・
 

 哲学は1970年代の構造主義で出揃った。それ以降はテレビなどの解説が大多数に影響を及ぼし、次の社会状況を形づくって行くことになった。

 もはや哲学が出揃った中で「そこだけを解説するんかーい」という偏向した解説、つまり解説の偏向性とその社会的影響を見極めるのが出揃った哲学の役目になった。そんな哲学は解説職には相手にされない。むしろ解説職たちは偏向性の暴露が侵入しないよう協力しているかのようである。オールドメディアの偏向報道の逞しさは、ますます進化していくだろう。そして「弱い者が夕暮れ さらに弱い者を叩く」ので「戸惑う僕には何にもできない だからみんな頑張れ」となる。

 

 フッサールは「意識の志向性」に注目したが、哲学が出揃った以降は「解説の志向性」に関する社会学でそれぞれ自分の人生を歩むことになろう。仮面紳士たちの偏向的解説を眺めながら、「なぜそれを説明して、あれを説明をしないのか」を見極めなつつ………

 

フランスを中心とした構造主義で哲学は終わった。きっと思考パターンが出そろったのだろう。


それはマンハイムの知識社会学の系統と同じくし、グルードナーの『社会学の社会学』に象徴される。社会観を抱いている人々(社会)についての社会学、つまり『理念と存在』の入れ子構造もしくは再帰構造で思考パターンが出そろったのだ。




日の下に新しきはなし 「伝道の書」