知識社会学で著名なマンハイムは、特殊的イデオロギー理論と普遍的イデオロギー理論に分類した。特殊的イデオロギー理論は他者の考え方に限定した虚偽意識理論で自身を解説者と限定するもの。一方の普遍的イデオロギー理論は他者と自身の双方に虚偽意識を認める相対主義的なものと要約できる。勿論、自らを第三者的解説者とした相対する双方に関するイデオロギー理論も可能なのだが、問題は人間一般についての知識形成論や知識所持論(知識を所持していることで生じる社会的言動の傾向に関する理論)がどれだけ解説者自身の現知識状況にも即しているかにあります。

 現象学で著名なフッサールの場合、「間主観性」が普遍的イデオロギー理論と隣接した雰囲気にある。特殊的イデオロギー理論は自らを客観視する解説者として演じながら、他者の主観性を断じるかのごとく説明する傾向にあるのだが、間主観性は解説者自身にも主観性を認めようとする普遍的イデオロギー理論の態度と類似するわけである。現象学における「判断中止」は自身の知識状況を自覚する意味でも有用性が高く、「志向性」や「ノエマ、ノエシス」は理論づけするさいの限定的事象選択を自覚させ、相対する双方の議論においても事象選択状況の吟味や理論に潜む前提条件の吟味につながるものだろう。

 そうなのだ。知識社会学には自らの知識状況も再吟味する意識が求められるのであり、いわば知識社会学と現象学には重要な接点があると言ってよい。

 引き続き知識社会学の立場からノモス(知識内容)とフュシス(人間存在)と解して話を進めるが、古代ギリシャではヘロドトスやプロタゴスなどノモスに関する相対主義が認められる。二十世紀前半で言えば、たとえば自文化中心主義という用語でお馴染み文化社会学のサムナーや言語学におけるサピア=ウォーフの仮説が相対主義に該当するようだ。そんな相対的多様性をあらわにするノモス(知識、文化、言語などなど)は当然歴史的過程を経て形成されたものであり、外部作用や相互作用によって様々な形になったのだろう。

 そこでアリストテレス『形而上学』の「作用」「形相」「質料」(四原因のうち「目的」を除く三つ)を用いて、ノモスは外部作用によって形成変化する「形相」とし、一方のフュシスは「質料」とする解釈図式に則ることにするが、それは銅像の姿形が「形相」でその材料の銅が「質料」に相当する。またアリストテレスの用語「現実態」「可能態」についても触れておかなければならないのだが、たとえばニーチェの先行貴族道徳と奴隷道徳を例にあげて説明しておこう。まず貴族道徳(ノモス)が所持されていた社会では人々(フュシス)はどう振る舞っていたかが当時の現実態であり、そして奴隷道徳に入れ替わった社会では人々はどう振る舞っていたかが新たな当時の現実態である。問題はここからで、実はまだ奴隷道徳を知らない貴族道徳(ノモス)の時期の社会(フュシス)には、やがて入れ替わる奴隷道徳(ノモス)を受け入れうる可能態が含まれているということだ。そして新たに奴隷道徳に入れ替わった時期の社会の現実態には、過去に貴族道徳を経験した痕跡が刻んまれているのである。(歴史的形状記憶は形相の一部に含まれる)

 言うなれば、先行状態のフュシスに後からノモスが加わったわけではなく、先行状態にも素朴ながらもノモスがあり、かつ後発ノモスが先行フュシスを抑圧するのではなく、以前と変わりないフュシスが新たな後発ノモスを考慮しながら抑制している感じとなる。(通時性分析)

 総ずること、知識社会学という知識が加わることによって、自らが知識を持っていることについての現実が明るみになる。一方浅はかな理想主義は、自らの理想を所持している社会的現実(他者との知識所持に関する影響の受け与え)をおろそかにしながら、ただ単に現実をよくしようとする意気込みに没頭してしまう。たとえばソクラテスの知徳合一やカントの実践理性論なんかはその最たるものに該当しよう。今日でいうところの自己啓発、教育、支援などなどには、自らの限定された専門職やら専門店の開業経営に勤しむ広報的学問の匂いがただよう。特に自らの仕事を監視役に限定する批判専門家とも言ってもよい日本左派政治家にその特徴が顕著である。

 古代ギリシャから始まったであろうノモス(法、習俗)とフュシス(自然)であるが、ここでは思い切って異なったとらえ方をする、それはノモス(知識内容)とフュシス(人間存在)である。知識(ノモス)は存在せず、必ず人間存在(フュシス)によって所持されるのである。たとえるならば貨幣である。千円や一万円の価値は存在せず、千円札や一万円札という紙とそれを所持する人間が存在するのみなのだ。ヒュームで言えば、当為(ought)と存在(is)がそれぞれノモスとフュシスに対応し、カントの実践理性について言えば、それは『道徳観念を所持する人間存在』を存在論的に解釈する純粋理性に包含される形となり、個人にとって純粋理性と実践理性が同等に位置するわけではない。またフロイトで言えば、超自我がイドを抑圧しているのではなく、超自我内にある道徳観念やら規制観念など(ノモス)を無意識に考慮したイド自身の抑制(フュシス)にすぎない。

 では古代ギリシャではどのように扱っていたのであろう。カリクレスは先行的素朴社会(弱肉強食)をフュシス(自然)、後発的人為制定をノモス(法)としており、ニーチェの貴族道徳と奴隷道徳の対比との類似性が指摘される内容だ。アンティポンは「フュシスを抑圧するノモス」かのようで、カントの実践理性論やフロイトの超自我のような傾向である。そしてトラシュマコスの場合は「ノモスは支配者の利益になるよう働く」というノモスの現実論的見解で、プロタゴスの相対主義やヘロドトスのノモスの扱いと近い。

 カリクレスは先行的素朴社会に素朴なノモスを見ず、かつ後発的人為制定後の素朴社会と同等のフュシスを見ていない。一方ニーチェは先行貴族道徳と後発奴隷道徳ということで双方にノモスを見ている点で賢明だった。またニーチェは結局のところ力の意志(フュシス)を貴族道徳と奴隷道徳の双方、また新たな理想像とした道徳に拘束されない超人にも適応していた。ただソクラテスが知徳合一を理想としたのにたいして、力への意志という理想に置き換えたニーチェであって、知識社会学なき自己啓発を脱してはいない。またアンティポンについては、様々なノモスを所持した人々(フュシス)の相互作用を見ていない。その点トラシュマコスやヘロドトスは、まだ所持論的知識社会学の立場にありそうだ。