「痛みのある手放し」と「痛みのない手放し」


「子どもの自主性が大事だと思うんです」 

「うちは勉強も全部、子どもに任せてます」 

「私はあまり口出ししないタイプなんで」 


 ──そう語る母親たちの言葉を、私は今までに何度も聞いてきた。 


そして、そのたびに胸の奥に、どうしようもない怒りが湧き上がってくる。 


 私には、中学1年生の娘がいる。 

勉強が苦手で、長期記憶も苦手。 

文章を読めないことに絶望し、 

「学校に行きたくない」「高校も行かない」と口にするようになった。 


そんな娘と毎晩、疲れ切った身体で勉強を見てきた。 

でもある日、娘は言った。 


「ママ、もう……私の勉強、見なくていいよ」

 「自分でやってみるから。うまくいかなかったら、またママ、教えてくれる?」 


 私はそのとき、“手を離す”という選択の本当の意味を知った。 


 🔻痛みを伴わない手放しと、痛みを伴う手放し 


「子どもに任せてる」と軽やかに語る母親の多くは、 


もともと“任せてもできる子”の親だった。 


子どもが、何も言わなくても宿題をこなし、成績も落ちず、将来も見えていて、つまり"手を離しても飛んでいくタイプの子”だった。 


だからその「任せてます」は、 “手放し”ではなく、ただの“放置してても大丈夫だっただけ”なんだ。 


一方、私は「任せたら落ちるかもしれない子」を前にして、それでも信じるという決断をした。 


「わからない」が続くことも知っている 


 成績が下がっていくかもしれない 


 将来が見えなくなる不安もある 


 それでも、 


 「私はあなたを信じる。だけど、その結果も全部、あなたと一緒に受け止める」 


 そう思って、手を離す。


 その「手放す」は私の、命がけの決断。 

両腕に翼のある子どもに「飛んでごらん」と手を離すのと、 
片翼しかない子どもに、それでも「旅立ちたい」と願われて手を離すのとでは、 
その覚悟の重さは、似ているようでまったく違う。
それでも私は、彼女の“飛びたい”という意志に賭けてみたいと思った。

 だから私は── 


「子どもの自主性が大事ですよね」 

「信じて任せれば、うまくいくものですよ」 


なんて、涼しい顔で語る母親たちに、怒りが込み上げてくる。 


 あなた達は、きっと知らない。 


「信じる」って、どれほどの絶望を抱えながらの選択なのか。 


成績が落ちたらどうしよう 

本当にこのまま全教科がわからなくなったら 

社会に出て生きていけるのか 


 ──そんな不安を、喉の奥に押し込めながら、毎晩、笑顔で「がんばってるね」って言う親の痛みを、あなた達は知らない。 


 痛みがあるからこそ、私はこの手放しに意味を感じる。 


 もしこの先、娘がつまずいたとしても、

「自分でやってみたい」と言ったあの日の言葉を、私は信じる。


でも、それは決してキラキラした美談じゃない。

失敗も、絶望も、現実のすべてを背負っての信頼。

それが、本当に「信じる」ということだと思っている。


だから私は、こう叫びたくなる。

「“信じる”って言葉を、軽々しく使わないで」

「子どもを“任せて放っておけた”のは、たまたま“放っておける子”だったからじゃないの?」

私たちは、沈みそうな我が子の手を、泣きながら、それでも放している。


そして── 


あなたたちが口にする「子どもを信頼しています」という言葉と、苦しみのどん底から、それでも信じようと願う母親の「信頼しています」は、同じ言葉でも、背負っている重みがまるで違う。 


私はいつも、そこにある“言葉の軽さ”と“言葉の重さ”の違いを、静かに感じ取っている。 


そして私は、迷いながら、傷つきながら、それでも
“重いほうの言葉”を選び続けたいと思っている。