私には 中学1年生の娘がいる。 


明々後日から始まる中間テストに向けて、二人で総復習をしている。 


コツコツ積み上げてきたはずの記憶は── 

気づけば、ほぼ綺麗に抜け落ちていた。


最近の彼女は、「学校行きたくない」「高校にも行かない」「働きたくない」「結婚もしない」そんな言葉ばかり口にするようになった。 


目はうつろで、心のどこかがずっと塞がっていた。 


学校の授業は何を言っているのかわからないことも多く、勉強に対する自信も、希望も、どんどん失っているように見えた。 


私には、痛いほどよくわかる。 


「授業が理解できない」という感覚は、子どもにとって“居場所を失う”ことと同じ。 


ただ座っているだけで、 

世界から取り残されていくような孤独。 


そして──静かに広がっていく、絶望。 


じわじわと、氷の海に沈められていくような感覚。 

声も届かず、誰にも気づかれないまま、 

自分だけが、深く深く沈んでいく。


私はこれまで、仕事から帰ってきた21時── 

疲れきった身体でお弁当箱を洗い、洗濯物をたたみ、 

娘の部屋に行って、勉強を一緒に見るという日々を繰り返してきた。 


焦って、急かして、でもどうしても伝わらなくて。私の心も、娘の心も、静かにすり減っていた。 


昨日の夜、娘がこう言った。 

「ママ、もう……ママ、私の勉強、見なくていいよ」 

「自分でやってみたいの。うまくいかなかったら、そのときは……またママ、教えてくれる?」 


その言葉を聞いて、私ははっとした。

 “自分でやってみたい”という意思が、彼女の中に確かに生まれきている。


……いや、 彼女は、前からずっとそう伝えようとしていたのだ。 だけど私には、その手を離すだけの勇気が、持てていなかった。 


でも── 

もしも彼女の目から光が消えてしまったら、 

それは、本物の絶望になってしまうかもしれない。 


息子が不登校だった時のことが、ふと頭をよぎった。 


あの時、本当に大事だったのは、テストの点数を追うことではなくて、自分の「好き」や「楽しい」を見つけて、学校や自分の未来に、少しでも希望を抱けることだった。 


 今、娘は「テニス部が楽しい」と言っている。 

 それはきっと、あのとき息子と探し求めた、私が一番ほしかった“光の言葉”と同じだ。 


「あなたが好きな事は何?」


だから私は今、娘の手を離す覚悟を決めた。


中間テストが終わったら、娘は自分で勉強の計画表を作り、自分のペースで、一歩一歩、歩き出す。


私はそれを“確認”という形で見守る。 

わからないことがあったときに呼ばれたら、その時だけ、そっと手を差し伸べる。 


それが、今の彼女にとっての“自分で歩いてみたい”という小さな意思表示なのだと信じたい。 


もちろん、私には分かっている。 


この先、勉強がもっと難しくなることも、

努力してもすぐに報われない場面が出てくることも、 

彼女がたくさんつまずくであろうことも。 


 “勉強ができない”ということが、時に、子どもの尊厳にまで踏み込んでくる残酷さも知っている。 


 でもそれでも、私は娘を信じたい。 


「勉強ができなくても、人生は生きていける」 


私は中学時代、成績はいつも上位だった。 

でも、今同じ呉服屋で一緒に働いている女性は、中学のときはビリに近かったと言っていた。だけど今、私たちは同じように働き、同じようにお客様と笑い合っている。


成績や偏差値が、人生の幸せを決めるわけじゃない。 

むしろ、社会に出てから必要なのは、人の話を聴ける力、表情を読み取る力、愛される感性。 


それは、学校の通知表には載らない力。 


娘にはこう伝えたい。 


「あなたが勉強に苦しんでいる今も、それが“あなたのすべて”ではないよ」 


 「この先、大人になったら、あなたの良さが光る場所はきっとあるよ」 


 そして── 


「今は苦しくても、大人になれば“勉強しなくてもいい人生”がちゃんと待ってるよ」 


社会も理科も国語も英語も、もう誰にも強制されない。テストもなくて、順位も偏差値もなくて、 

誰かと比べられたり、落ちこぼれと呼ばれたりすることもない。


 “努力の証明”じゃなく、“好きなことを見つける旅”が始まる。 


その世界では、あなたの笑顔が人に伝わるだけで仕事になることもあるし、ゆっくりでも、ていねいに接する力が喜ばれる場所もある。 


 だから今、「どうせ私なんて」って思ってしまう子がいたら── 


 私はこう伝えたい。


「勉強が苦手でも、人生は絶望じゃないよ」 

「その先にある世界は、今とはまったく違うんだよ」

「それが、大人になるってこと。苦しさから自由になるってこと」 


まだ私は楽にはなっていない。


むしろ「見守る」ということの方が、教えるよりもずっと歯がゆくて、勇気がいる。 


それでも。


今、娘の中に芽生えた“自分でやってみたい”という小さな声を私は、何よりも大切に抱きしめたい。