前回⑮は↑
1980年5月25日 ミュンヘン→ベニスへの移動 晴れ ヴェネツィア泊
ヴェネツィア着6:58
こんなに長い距離を電車に乗るのは久しぶりだった。ミュンヘンからベニスまで566km。
ミュンヘンを出た列車はドイツ製の古ぼけたコンパートメント式で、超満員だった。
調子が悪い、ウィーンのユースでのあの悪たれオーストリアのガキどものおかげで、風邪気味だったのが、夜行列車で無理をしたためか、完全に風邪をひいてしまったようだ。頭と喉が痛い。
旅に出て病気になると心細くなってしまい、悲しくなってくる。看病してくれる人もなく、頼れる人も居ない。すべて自分で乗り越えなければならない。
ベネチアという名の最初の駅について、さらに電車は両側が海の上を5分ほど行ったところが本当のベネチア駅で到着。ヴェネツィア・サンタ・ルチーア駅という。
Stazione di Venezia Santa Lucia--Venice Mestre往復
ベニスには車が1台も走っていない。
街中の道は狭く、曲がりくねっている。
駅の階段を下りるとすぐ目の前に運河があり、客待ちの名物ゴンドラが何隻も浮かんでいた。
まずは水上からの遊覧を楽しもうと、ゴンドラは高いので水上タクシーに乗り込むと、ほとんど観光客らしく、英語やフランス語、ドイツ語が聞こえてくる。
のんびりと水上の景色を楽しんでいたが、すぐに終点に着いてしまい、降ろされてしまった。
もう一度、駅前に戻る水上タクシーに乗り込み、逆戻り。
船を降りてから細い道を歩いて、水上タクシーから見えたサンマルコ広場へ向う。
石畳の細い道はくねくねと続き、幾つもの運河に架かった橋を渡り、中心部へと歩いた。
ベニス名物の赤や青色のベネチアングラスが綺麗に並べてある、ショーウィンドウをのぞきながら歩いていくと、途中で白い大理石の古ぼけたリアルト橋が架かっている。
橋と言うよりも道の延長のような感じで、両脇には店が並んでいる。
この辺りがベニスの商店が集まっている所のようだ。
ぶらぶら歩いていくと、観光客だらけのサンマルコ広場にたどり着いた。
サンマルコ寺院は行列で、中へ入るのをあきらめた。
さすがに誰もが目指してやってくるところだけに、広場を囲んだ建物がものすごく、広場の中心に立つと、昔のベニスの栄華が忍ばれる。
ベニスの町は観光客であふれている。まだ観光シーズン前だと言うのにものすごい人出である。
確かにあの運河と建物の古さには驚きだが、それ以上に観光客の多さには驚き。
船で一周の遊びは思う存分味わい、まあ楽しい一日。
風邪薬を飲む代わりに、幸い食欲がまだあるので、とにかく食べられるだけ食べることにした。
まるで大金持ち旅行、約30, 000リラの支出で満腹の料理と酒と、ちょっと豪華なホテル。
ホテルは3級の11,500リラ、そして食事は、昼食が駅の国鉄レストランでスパゲティと魚や海老、イカ、たこの揚げたもの。
それにサラダ、パン、ワインで300リラ。
16時頃ちょっと早い夕食には、ピッザリヤでピザとビールとスパゲテイで5,450リラ。
そして18時頃、ホテルのあるVenice Mestre駅のひとつ手前の駅のレストランでスープ、サラダ、肉、ワイン、パン、ミカンで9,450リラ。合計約8,640円の風邪薬だ。
頭が痛く、何となく熱があるようだ。風邪を治すために大奮発。
これで風邪が治らなかったら今日の支出はパー。
1980年5月26日 ベニスからフィレンツェへ 晴れ
Venice Mestre駅発 9:52
フィレンツェ着 13:22 254km
今朝の目覚めは久しぶりに気持ちよかった。ゆったりとした、シャワー付きの部屋でぐっすりと眠ったためか、風邪も治ったようで調子がいい。
昨夜、入浴洗いをした洗濯物もすでに乾いている。
日本だったら厚手の靴下など、一晩では乾かないのに、それだけここは乾燥しているのだろう。
初めてイギリスに着いたとき、2.3日喉の調子が悪く、肺がなんとなく、ぱさついた感じがしたが、今はもう乾燥した気候に慣れたのか、何とも感じなくなったが、この靴下の乾くのを見ると、日本の梅雨がなつかしく感じられる。
9時52分発の電車へ、駅弁を買って乗り込む。
駅弁というのは日本だけかと思っていたが、ベニスにもあり、なつかしくなり買ってしまった。
駅弁と言っても横川の釜飯のような物ではなく、白い紙バックの中にはサンドウィッチと肉とオリーブとワインが入っている。
パンの駅弁ではちょっと雰囲気が出ないが、列車の旅は駅弁を食べなくては始まらない。
Basilica di Santa Croce di Firenze
フィレンツェはルネッサンスの花が咲いた町と言うが、どうもただの町のように見える。
そんな何でもない街なのに、ホテル探しで苦労させられてしまった。
ホテル探しに今までの最高の10軒以上回り、すべて満員だと断られた。
最近は旅慣れた余裕とでも言うのだろうか、なんとなく安ホテルがありそうな場所がわかるようになり、ホテル探しも楽しみのひとつになっていたが、今日のように10軒以上も断られると、そんなことも言っていられない。
そしてやっと見つけたペンションは、ロカンダとも何とも書いてない5階にある普通の家の部屋。
5人部屋のドミトリーで1泊4,000リラ。
部屋に入るとすでに女性が3人いた。
嬉しいやらどぎまぎやらで、ちょっとためらったがここに泊まることにした。
ベッドの上に荷物をおいて
「あー疲れた」と日本語で言うと
3人の女の子達が俺のほうを見て、そのうちの一人アメリカ人らしき女の子が
「ハロー、ユー スピーク イングリッシュ」と言ってきた。
彼女たちはアメリカとオーストラリア人とのこと。
話好きな女の子らしく、いろいろと質問責めにあってしまった。
だんだんと難しい単語も出てきて、そろそろ俺のボキャブラリーではお手上げになってきたところに、運良くだか悪くだか、もう一人男が入ってきた。
男2人に女3人がひとつの部屋、勝手にいろいろと想像してしまう。
たったひとつだけある窓には、女性の下着が干してある。オーストラリア娘の一人は、下着の上に薄いTシャツ一枚だけで、ズボンははいていない。
窓を見ても彼女を見ても、目のやり場に困ってしまうが、彼女たちは別に気にした様子などない。
どうも女の子達に先手を取られてしまっているようで、なんとなく居心地悪い。
部屋は彼女たちに支配され、いづらいので街中へ出かけた。
Cattedrale di Santa Maria del Fiore
フィレンツェの街は着いたときから感じていたが、街全体が汚い。
道には紙屑やタバコの吸殻があちこちに捨てられているし、建物もすすけていて、汚らしく、どう見てもここがあの華やかなルネッサンスの発祥地だとは思えない。
それに何よりも騒々しい。
ベニスとは全く違がって汚いごみごみとした町。
確かに建物は古いが中途半端な古さで、どうもなにがなんだかわからない。
イタリアは汚く騒々しいと、ある程度は予期していたが、オーストリアからベニスに入ったときは、ベニスの街に車がなかったためか、静かでさほど汚いとも感じなかったが、フィレンツェに入ってまず、これがイタリアだと感じさせられた。
これでさらに汚いと言うナポリに行ったらどうなるのだろうか。
フィレンツェの街を歩いていると、北欧やドイツ、オーストリアの街の綺麗だったことが思い出される。
フィレンツェのピッティ宮殿の庭園の中、フィレンツエの市街を一望できるところからは、街の屋根がみんな赤茶色。
上から町を眺めると、ドーモの屋根がぼこっと出ていて綺麗だが、いざ町中に入ると汚くて!
3泊するのだから2日間はどこか郊外へ行こう。
1980年5月27日 小雨 フィレンツェ泊まり⇔ピサ往復
Firenze Santa Maria Novella Pisa往復162km
2日目のフィレンツェは小雨が降っている。
雨の日はどこへも出かけず、ぼんやりと外の景色を見ていたいが、他に4人もいる狭い部屋ではどうも落ち着いていれず、ヨーロッパでは余り見かけない、日本から持ってきた折り畳み式の傘を差して外へ出てみた。
宿の近くのバールでカプチーノとサンドウィッチでの朝食。
カプチーノは400リラ、まあ高く感じるが安いものだ。
日本だとシナモンが付いているが、本場イタリアのカプチーノにはついていなかった。
泡立てたミルクとコーヒーを小さなカップにくれるだけ。だがこれが実にうまい。
Museo Nazionale del Bargello1996
いつのまにか雨もあがったがどこに行くあてもない。と言っても歩くところすべてが博物館でもあり、美術館でもあるのだから、入場料を払わない歴史見学だ。
ぶらぶらと歩いていると、のみの市に出くわし、冷やかし半分に見て廻った。
イタリアは世界でも屈指の革製品の産地で、中でも靴は世界一の生産国らしく、小さなテントの店には靴屋が多い。
サンダルが欲しかったので見ていると、おばさんが大声と大きな身ぶりで呼び込む。
ついつい大げさな手振り身ぶりに誘われて、革製のサンダルを900リラで買ってしまった。
さっそくニューヨークで買った靴を脱いで、サンダルにはきかえ、歩いていたところ、ちょと小さかったようで、指の皮がむけてしまった。
13時20分発の電車で斜塔で有名なピサへ。
ピサの駅に降りると、止んでいた雨が又降り出していた。
ヨーロッパの人間はちょっとした雨なら傘も差さずに平気に歩いている。
ヨーロッパの女の子は髪が濡れることなど気にもせず、平気な顔をして歩いている。
日本人は髪型や化粧を気にするのもあるだろうが、これも気候の違いだろう。
やはりヨーロッパは乾燥しているから、すぐに乾いてしまうが、日本は濡れたままでは風邪をひいてしまう。
日本人が雨に一番弱い人種なのかもしれない。
だからちょっとした雨で、傘をさすのがかえって恥ずかしくなってしまう。
特にイギリス人などは傘を持っていても、大粒の雨にならないと傘を広げない。おかしな国民だ。
イギリスは傘が高いからもったいなくて、持っているだけで使わないのかもしれない。
地図もなく、どこにピサの斜塔があるのかも解らなかったが、適当に歩き始めた。
ちょっと遠回りをしたようだが道を尋ねることもなく、目指す斜塔についた。
この頃は感もなかなか良くなったもので、道に迷うことがなくなった。
ピサの斜塔は本当に傾いている。
今でも年に何ミリかずつ傾いているらしく、このへんで傾きを止めようと、凝固剤を地中にいれているらしいが、それでも傾きは止まらないらしい。
もしこの塔が地盤沈下で傾かなかったら、こんなにも有名にならず、イタリアにしてみればごく平凡な建物で終わっていたかもしれない。
しかし我々日本人の目は大理石になれてないためか、又木ではなく石の建物だからか、何か建物から迫力が感じられる。
フィレンツェのドーモもそうだが、ペンキで色が付けられているのかと見えるが、違う色の大理石がひとつひとつ積み上げられてできている。ものすごい。
しかし街全体はピサにしてもフィレンツェにしても、粘土色をしている。
川の流れも、建物の屋根も、すべてが黄土色している。
だから一段と街が汚らしく感じるのだろう。
スペインが赤と黒の国ならイタリアは茶色の国、そしてギリシャは白、フランスは灰色、北欧は青。
日本は何色だろう、たぶん24色すべてが当てはまるのではないだろうか。
どうしてフィレンツェがファッションの中心といえるのか。あの汚らしさがあるから一段と目立つからか。
今日はイタリア人と初めての会話のようなものをした。けっこうスペイン語でも通じるものだ。
それにしてもイタリア人はスペイン人より頭がおかしいではないかと思う。
スペイン人が馬鹿声を出すと思ったら、それ以上にイタリア人は馬鹿声を出す。
しかし言葉は大事で、スペイン語でも英語でもフランス語でも何でもよいから、2か国語を話せたら、もっと楽しい旅ができるのではないかと思う。
英語を母国語とする連中は、さほど苦労せずに世界中を歩けるが、日本人やその他の言語の人間は苦労する。
人ずてに聞いた話だが、今、世界の鉄鋼業界は日本語を習っているとのこと。
早く日本語だけで世界旅行のできる時代が来て欲しい、まあ夢かも知れないがそうなることを望む。
1980年5月28日水曜日 晴れ フィレンツェ⇔ボローニャ⇔ベローナ
Firenze SMN Verona往復422km
途中のボローニャ駅で昼飯でも食べようとレストランに入ったところ、日本人に出会った。
久しぶりの日本人だったので話が弾んだ。
彼は30歳ぐらいで画家だと言う。
毎年、絵を書きにイタリアへやってくるらしく、よく話を聞くと、銚子出身の渡辺画伯の弟子だと言う。
彼の名は川端、彼の先生は銚子の生んだ渡辺学先生の弟子人。
どこでどんな人に会うか分からないものだ。
マカロニをケチャップであえたのとワインがうまく、ちょっと話が弾みすぎて、予定の電車を一本乗り過ごしてしまった。
こんなに夢中に話をしたのは久しぶりの気がする。
長いこと日本語を話さないでいると、すぐに日本語が出てこなくなってしまう。
イギリスのファームキャンプにいたとき、日本語を長いこと話さないでいたときなど、考え事が英語で浮かんできた事があった。
レストランでのウェーターの印象はとてもよく、少し話をした。
気分が良かったのでチップを150リラおいてきた。
フィレンツェからベローナまではちょっと遠かったが、古代競技場は一見の価値がある。
まるで現代の後楽園球場のような造りでそれも全部石で、すべて四角に切られた石を積み上げてできている。
内部は通路まであり、選手入場口まである。すばらしい、建築力だ。
ベローナのアレーナ(古代競技場)は時間がなくゆっくりと見られなかったが、ものすごい。
遂にイタリア国鉄の遅れにあった。
今日までだいたい時間通りの電車ばかりだったのに、今日は1時間15分遅れ。
宿に戻り、部屋にいるのは俺とオーストラリアの女の子一人に、新しく入ってきて寝ている女の子の計3人。
今日はなんだか疲れた、目がしぼしぼする、車窓から外の景色を見過ぎかな、日中走る電車は景色が見えていいが、今日のような動き方では疲れる。
シャワーを浴びたい。
それよりも今は散髪をしたい、昨年の7月に床屋へ行ったきりもう10カ月以上も床屋へ行ってない。
その間自分で散髪、記憶に残っている大きな自力散髪はフライデイブリッジとロンドンでの2度。
宿のおじさんに部屋代を12,000リラ払った。
明日はナポリ、ぎらぎらの太陽の下、赤茶けた石造りの家に囲まれた細い路地の階段を上っていくと、頭上には風になびく満干の洗濯物、ソフィアローレンの様なお姉さんが大手を振って、俺をじっと見つめながら降りてくるので、俺もじっと見つめ返したらすれ違いにチャオ、と言ってそのまま大手を振って歩いていった。
しばらく登っていくと足下に家々の赤い瓦越しに、青い青い海が見え、その向こうにはカプリの島がオリーブ色に浮かんでいる。
ああナポリだ、オー、ソレ、ミオ!
となることを期待して明日はナポリ。
イタリアもイタリア語が話せたらもっと楽しい街なのに残念。
美人も多いし、気さくな感じなのに残念。
カンツオーネの一つぐらい知っていれば歌いながら歩いたのに残念!
部屋ではオーストラリア娘が歯を磨いている。
黒のTシャツに黒のGパン、外人(白人、アングロ)には珍しく、なんとなく東洋的な神秘的な面を持った女の子だ。
することなく、タバコに火をつけた。まだDucadosが残っている。
1980年5月29日 曇り フィレンツェ→ローマ→ナポリ
Firenze SMN 発11:00
Roma乗換
Napori c 着18:00 530km
ナポリのイメージとは全く違ったナポリにがっかり。噂通りの街のようだ。
フィレンツェよりベニスより大きい街、そしてうるさい。
車の音、警笛、人の声、そしてごちゃごちゃしている。
スペインのセビリアのような街を予想していたが、もっと大きな街、全くイメージ違い。
これが世界三大美港の一つかと思うと、美港と名の付くところも決して見たいとは思わなくなってしまう。
イタリアに入ってからフィレンツェでうるさい街だと思ったのに、ナポリに着いたら、いてもたってもいれないほどのやかましさである。
世界最悪の国ではないのだろうか。
イタリアは北と南では全く違うと、ナポリについてつくづく感じた。
町中は騒がしく、汚らしい。
綺麗な女の子が平気な顔をしてタバコを投げ捨てる。ピザを包んだ紙を投げ捨てる。
路地の至る所が吹き溜まりとなってごみが積もっている。
むやみやたらと鳴らすクラクションと、両手を広げて大げさに大きな声で話し合っている、ばかでかい声。
もし、日本からいきなりナポリに着いたら、頭がおかしくなっても不思議でないほどの騒々しさ。
下を見ればごみくず、上を見上げれば満艦飾の洗濯物。
綺麗なのは遠くに見える青々とした海だけが広がっている。
これなら北イタリアの人間が、南部はイタリアではないと言うのも納得する。
しかし南部の人間に言わせると、せこく働く北イタリアの人間はイタリア人ではないらしい。
イタリア人とは畑でオリーブを摘み、ワインを飲んで、カンツォーネを歌うのがイタリア人らしい。
ナポリを見て死ねとは誰が言ったのか知らないが、確かにいろんな意味で一見の価値がある。
電車がまたもや遅れて14時頃着く予定であったのに18時。
なんたることだ、おかげで安ロカンダを探し歩いたが見つからず、暗くなってしまったので仕方なく、1泊9,700リラのホテルになってしまった。
しかしシャワー付きのシングル。
駅から1時間ほど歩いて探したが、ペンションやロカンダは皆断られ、ホテルを探したところ、ホテル2軒目にこのホテル。合計6軒件目の宿探し。
ホテルへ荷物をおいてから、暗くなってしまい街へ出ても仕方ないので、10カ月ぶりの床屋へ行ってみた。
駅の地下にある床屋へ、6カ国後辞典を持って入った。
もうちょっと短く、シャンプーをして、などと悪戦苦闘の末、できあがった頭は坊主刈りをちょっと長くした感じ。
短すぎたと思ったのも後の祭りである。
南に下るにしたがい、夜でもちょっと暑いくらいなのでちょうどいいや、と納得して、10カ月ぶりの床屋代は3, 000リラ。
夕食はナポリピザの立ち食い。
駅前の大通りCorso Umbertol通りを駅から10分ほど歩いた通りの左側に、ピザとコロッケの屋台(中はBar)があり、そこのピザは大きく安く500リラ、レストランで食べると同じものが1,800リラ、コロッケも200リラと安く、駅周辺では一番安い。
他にナポリの食堂では、駅から2本目の右側の通りを入っていき、1本道を横切った角の店、スパゲティ700リラ、イカの唐揚げ1,200リラ、ワイン小さな瓶500リラ
1980年5月30日 曇り Napoli⇔Ponpei
今日はポンペイの遺跡見学。
ナポリは街の騒音を聞いていたら、頭がおかしくなりそう。
街角はごみの山、人々は大声を出し、車はごちゃごちゃ最悪!
どうしてこうもイタリアの街はひどいのか、南に来るにしたがってそれが一段とひどくなった。
ベニスに入り汚いなあと感じ、イタリアらしいなあと思ったが、フィレンツェに来て汚いと感じ、ナポリに来たらもう居るのが嫌になってきた。
頭がおかしくなりそうだ。
女の子は美人だけど、平気でごみを道に捨てるし、又そのごみの山のところにいても平気で居る。
どうしてこんなにも汚い、ごちゃごちゃ、ごみごみしたところに平気でいれるのか。本当に恐ろしくなってくる。
こんな街には日本人は住めない。
東京を汚い、ごみごみした街だと言うが、東京の方がどんなに綺麗か。
ポンペイまで私鉄を利用したため1,000リラかかってしまったがその価値は充分にあった。
ナポリから電車で25分ほどの所にポンペイの遺跡がある。
ポンペイ行きの電車の車内は、観光シーズンにはまだ早いためか、旅行者風の人の姿は見あたらず、地元の人ばかり。
地元民の中に混じって椅子に腰掛けていると、まわりに座った人々はじっと俺のことを見ている。
子供達はよほど東洋人が珍しいのか、それとも俺が珍しいのか、指さして何か言っている。
車内の注目を一身に集めているようで、どうも居心地が悪い。
しかし、この地元民は好奇心が旺盛なのか、お節介なのか、親切なのだろう、ポンペイの駅に着くと、隣に座ったおばちゃんや、離れた席の子供達までが手振り身ぶりで「ポンペイ、ポンペイ」と言ってここで降りろと教えてくれた。
ヨーロッパの名のしれた観光地の人々は、旅行者ずれしていて、旅行者には目もくれない土地が多いのに、ここ庶民の国南イタリアの人々は違っていた。
ポンペイの駅に降り立つと、あの日本人がいた。
リスボンの駅で話しかけられた、話好きの40歳くらいの日本人にまた出会ってしまった。
正直なところこの話好きのおじさんにはまいってしまい、マドリッドにつくやいなや逃げるように別れたのに、又出会ってしまった。
このおじさんは根っからの話し好きで、イタリア人にも負けないほど南イタリアにはぴったりの人だ。
「やーリスボンであった人だね」
「久しぶりですね」
「ポンペイはいいところですよ、私はこれで二度目なんですがね、ここへ来ると2000年前に一瞬のうちに戻った気がして、実にいいところだ」
「そうですか」
「私たちは昨日ナポリに着いてね、昨日のうちにナポリの観光をして、今日はカプリとポンペイなんだ、あ、そうそう、これがうちの家内なんだが、彼女はヨーロッパが初めてなんで私が案内役なんだ。まあ私の案内は、ヨーロッパは3度目なので、そこらの団体旅行の添乗員の説明よりしっかりしてるからね」
「どうも、初めまして、ご主人にはリスボンでお会いしました」
「初めまして」
と奥さんが言うと旦那が話を遮るように
「ところで君はもうアイスクリームを食べた?」
「いいえ、まだです」
「だったら是非ともここのアイスクリームを食べてみなさい、この道を行ったところに安くてうまいアイスクリーム屋があるんだ、この前来たときに食べたらうまくてねえ、今日は家内にも本当のアイスクリームの味を教えてあげようと思ってね、今から行くところなんだ、君も来ないか」
「ええ、それじゃ」
「私はねえ、ヨーロッパはこれで3度目だから、ざっと見るだけでいいんだ。しかしナポリは遅れているなー、インドにしたって日本の20年前と同じだ。そう世界はすべて日本と同じなんだよ。インドだって日本の終戦直後と思えばいいし、ナポリは15年くらい前の日本と同じだし、すべてどこへ行っても日本と同じなんだ。君はそう思わないかね」
「そうですね」
「私はそう思うから、知らない地でも、どこへ行ったって、日本の街と変わりないから、一人でどこへでも地図もなくて歩いていけるんだ。
それに私は英語もフランス語も話せない、しかし、通じるんだな。
君なんかまだ若いから英語も話せるだろうけど、片言ならかえって話せないほうがいい、私なんかこれまでに3回も来ているが、すべて日本語で通しているんだ。
ようは心が通じればいいんだよ」
「はあー、そうですか」
まいったなあ、この調子で話されたのではせっかくの古代遺跡も腐ってしまう。
気のない返事をしていたが、結局、遺跡を見て廻る間中話通しで、自分の自慢話で大騒ぎ。
挙げ句の果てには遺跡の中にある売店の店員と口論を始めてしまった。
全く手のつけようがない、奥さんも奥さんで別に気にもとめない様子で、平気な顔をしている。
途中で我慢できなくなり、
「さっきの女郎部屋をもう一度よく見たいので、先に行っててください」
と言うと
「いいことだ、気に入った物はよく見たほうがいい。
それじゃ私たちはナポリへ行くから又ナポリで会おう。君のような若いうちに何でもよく見ておいたほうがいいことだ。よく見なさい」
「それじゃ」
やっとの事別れられ、落ち着いて遺跡の見学。
劇場や円形競技場、酒屋、浴場などすべてが残っている。さらに灰に埋もれたときのままの姿のミイラまである。
2000年前、日本だとまだ穴に住んで、裸の生活をしていただろうに、すでにナポリには娼家までがあった。
それにすべての道は石畳でできていて、馬車が通ったのだろう、くっきりと車輪の幅に石畳がすれ減っている。
そして歩道のところには男性の生殖器の印があって、その示す方向へ行くと娼婦の家がある。
これらがすべて2000年前のことだとはちょっと信じがたいほどだ。
ポンペイでこれほど驚いていたのではギリシャへ行ったらひっくり返ってしまうだろうか。
一人で遺跡をぶらぶらして2000年前の姿を思い浮かべていると、時間のたつのは早く、ナポリに戻ってきたときはすでに暗くなっていた。
夕食は駅の右側にある、ちょっとごちゃごちゃしたレストランへ行き、スパゲティーとイカフライ、魚のフライとパン、ワイン。
イタリアのいいところは食事がうまい、日本人の味覚にあっている。
*ポンペイの行き方
ナポリセントラル駅の地下鉄乗り場へ階段を下りていき、左へまっすぐ動く歩道に乗る。
歩道の手前に切符売り場があるので、往復1,000リラで買う。
下車駅はポンペイ、ビラデ、マルリ駅、駅を下車したら駅を背にして右へ5分ほど歩いたところが入り口。
ユースホステルカードで無料になる(150リラ)
1980年5月31日 晴れ Napoli-Capli-Brindisi
カプリ島見学。
ナポリの渡船場までいき、往復切符を買って小さな船へ乗り込んだ。
乗客は大部分がカプリ島の住民といった様子の人達ばかりだった。
天気はいいが風が強く、沖に出ると船が大きく揺る。
真っ青な海を進むと、船のあとが白くなって、青い海に残った。そしてナポリの街はどんどん小さくなっていく。
ベスビオ山には雲がかかっていて、頂上が見えない。
カプリ島についてすぐに、船着き場のすぐ前にある店でピザを買い、食べながら散歩をした。
カプリ島は車も少なく人も家も少ないので静かで気持ちいい。
あいにく、青の洞窟は風が強く、波があったためか船が出られず、行けなかった。
海岸へ行くと波は高いが、海が恐ろしいほどすごく澄んでいて、コバルトブルーというのだろうか、日本では見られないような色をしている。
こんな美しい海に囲まれたカプリの印象も、ナポリの渡船の切符売り場で一段と悪くなってしまった。
船に乗り込むとき、6カ国後辞典を見てイタリア語で往復と言って買った切符を、お金だけとって片道切符だけしかよこさなかったとは、たいしたものだ。
切符の真ん中に切取線が入っていたので、片側が往路、もう片方が復路用だとばかり思って、ナポリからカプリに来るときに半分にされた切符を大事に持っていた。
カプリからナポリへ帰るとき、その半分になった切符を船のおじさんに渡して船に乗り込もうとしたら、ダメだといわれてしまい、いくら往復のお金を払ったといっても解ってもらえず、結局帰りの切符を買うはめになってしまった。
ナポリについてまっすぐに切符売り場へと向かうとすでに違うおじさんがいただけだった。
切符売り場の奴を恨みながら、どついてやるぞと、意気込んでいったのに。
充分注意しているつもりなのに、ごまかされてしまった。
2, 000リラの損600円。畜生!
しかしそれにしてもイタリアは本当にイメージダウン、今までで最悪の国。
旅とはおもしろいもので、どんなに美しい風景や、貴重な遺跡などを見ても、その土地の人々の印象が悪いと、全体が悪くなってしまう。
逆に、たいした見物もないのに、親切にされたりすると良いところだとなってしまう。
スペインのセビリアは街はさほどのことはないが人々が良かった。
カプリ島へは
ナポリの駅前広場、駅を背に広場の左側の方の乗り場から、150番のバスに乗り、Molo Beverello港下車(お城の下)乗車券は乗り込むと車掌が廻ってきて100リラ、CapliとIschia行きのある乗り場で切符を購入。往復3,500リラ、船は2時間に1本。
最近ものすごい食欲で、いくら食べても食べられます。
健康な証拠か、しかし金がかかってしょうがない。スペインを出てからずっと食欲がある。
食べ物に対して不満は全くなく、何でもよく食べれる。今もBarで魚のフライとパン、ビ-ルを食べてきたところ。
スペイン、イタリアは魚をよく食べるのでうれしい。
しかしイタリアの物価の高いのにはちょっと驚き、もっと安いものとばかり思っていた。
ナポリ発、23時42分なのでそれまでナポリの街中を散歩。
1980年6月1日 51 曇り Napoli-Brindisi-bari 273
Napori c 発23:42
Brindisi着8:10 627km
Bari往復222km
イタリア人というのは本当に気に入らない。
べつに脅かされたり、金を盗まれたりしたわけではないのだが、どうも頭が悪いためか、それが態度にあらわれ気に入らない。
突然大声を出したり、ばか騒ぎをして歩いていたり、平気な顔で道路にごみを捨てたり、ひどいのは自分の家の中のごみを、家の前の道路に捨てる奴もいた。
どう見ても高校生ほどの子供がタバコを吸い、女の子の後を追っかけて大騒ぎをしている。
陽気と言えばそうとも言えなくもないが、気に入らない人間が多い。
こう言うとファームキャンプであったイタリア人のマリルーやアンジェロに悪いが、ナポリでの悪い印象が強く、どうもこんなふうに言いたくなってしまう。
だが、女性は動かず話さずにいれば美人が多い。
イタリアは不思議な国だ、北ではフェラーリなどの車を作るし、映画だって良いものが多い、ファッションだって世界の先端をいっているのに、南に来るとそんなかけらなど全くない。
どうしてこうも接する人間はみんなアホのような人間ばかりなのか。
パリの軍事博物館で見た映画の中に、連合軍がイタリアに入ってきたとき、イタリア人は手に手にアメリカの国旗を持ち、もう片方の手にはワインを持っていた。
まるでお祭りのような場面があった。
それに比べ日本の沖縄の人々は、アメリカが上陸してきたときには集団自決をした。
日独伊三国同盟の仲間の国とはとても思えない。
そんないい加減な奴等がイタリア人だ。
昼食は寂しくピザとカプチーノだけ。
ブリンディジまでの電車はイタリアにしては珍しく空いていて、8人用のコンパートメントは一人だけだった。
おかげでぐっすりと眠ることができ、ブリンディジに着いた朝には快調そのものである。
アテネへの船は夜の10時出発なので時間つぶしに近くの街へ。
ブリンディジ周辺の街にはこれといった名所もないが、時間までとにかく歩き回ることにした。
観光地でもない街を歩くとイタリアの大衆の生活が伝わってくる。
バーリの街中を少し歩いたがイタリアの街では一番きれいじゃないかと思う。
BariとBrindishiの間はオリーブ畑が一面、そして海、白い家のかたまり、確かに景色だけを見るならきれいな田舎でいい。
だがどうもイタリアは嫌いだ、こんないやな国は初めて。
こういう国には住みたくない。イタリア人のようにはなりたくない。
ブリンディジの駅から船着き場へ向かう途中にコロッケ屋があった。
看板はピッザリアだがコロッケやチャーハンのおにぎりに、ころもをつけてフライにしたような物などがあり、それが安くて旨い。
公園で食べていたが、あまりにも旨いので、もう一度買いに行くと、そこのおばさんがピザをおまけにくれた。
ギリシャのパトラス行きの船はユーレルイユースパスが使えるが、すべて無料というわけには行かず、出国税等で5,300リラ払わされてしまった。
ブリンディジの海岸にあるアドリアティカのオフィスへ行き、パスポートとユーレルユースパスを示して、乗船券をもらう。
そして船乗り場にあるイミグレのオフィスへ行き、まだイタリアにいるのに出国のスタンプを押してもらう。
ここの出国検査はちょっと厳しく、荷物検査も正式にやられ、犬が2匹乗った台に荷物を持っていくと、3m程の長さの台の上を犬が行ったり来たりして、荷物や俺の体の臭いをかぐ。これが麻薬のチェックである。
ちょっと見にはばかそうな犬なのに麻薬G犬なのだろう。
乗船は22時半から始まる。
バックパックを背負った旅行者が目立つ。みなギリシャへ向かうユーレイルパス使用者のように見える。
歩き疲れてしまい、イミグレの前の通路にザックをおいて、寝ころんでいたところ、日本人の姿が見えた。
この頃は日本人を見ると何故か話しかけたくなり
「アテネへ行くんですか」
彼は設計士だと言う。
やはり彼もユーレイルパスでギリシャへ渡るとのこと。
どうも日本人同士だと最初はお互い警戒し合ってしまう。
しかしそんなことも時の問題であった。
2人で通路に寝ころんでいると、類は友呼ぶと言うように、隣にやってきた外国人がなまった英語で話しかけてきた。
「パトラスへ行くの」
彼の名はソクラテス、アテネの実家へ帰るとのこと。
彼の名はソクラテス、哲学者ではない。もう一人の名はエルメスト、アルゼンチン人。
設計士は吉田さん
ギリシャ人と一緒というのは心強い。
アテネに着くのは明日の夜になるようなので、見知らぬ地に夜に着くのは心細いので、地元民がいれば何かと心づよい。
ギリシャ人のソクラテス君とアルゼンチン人のエルメスとを仲間にし、4人で船に乗り込んだ。
アルゼンチン人のエルメスは英語が話せない、ましてやギリシャ語など話せないのに、何故かギリシャ人のソクラテス君と気が合うというのか、話が通じるようだ。
船の階段を上っていくと階段を上りきった真正面に、真っ白な制服を着た船長らしき人が座っている机を囲んで、8人ほど立っていて、驚かされた。
「パスポートプリーズ」
俺達の居場所は4人とも2等以下の切符なので船室には入れず、一番上の甲板である。
つづき