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1980年4月25日 曇り グラダナ→リスボン
Granada 発 8:30
Bobadilla 乗換
Sevilla 乗換
Hoelva 乗換
Ayamonte 乗換 フェリー
Vila Real 乗換
Tunes 乗換
Brreiro 乗換 フェリー
Lisboa へ524km
朝7時頃起きるとまだ外は薄暗く寒い。今日は天気もそんなに良くなく景色も良く見えない。
アフリカから来た日本人も、パリに住んでいるピアニストも彫刻家も、セビリアの話をしたら是非見たいというので、4人でセビリアへ行くことになった。
女の子はさすがよく気が付くもので、電車の中でお昼頃になると、いつの間に買ったのか、パンと牛乳、みんなの分を取り出した。
ぱくつくとなんだか小学生の遠足気分。
でもセビリアへ着いたらすぐにポルトガルへ行くのでみんなともお別れ。
セビリアに着くと、タイミングよくポルトガルとの国境の町、アヤモンテ行きの電車があったので、ホームでみんなとお別れ。
電車が出発する間際までホームで見送ってくれた。
別れの風景、ヨーロッパの電車での別れは、まるで映画の中みたい。
いつ見ても何故か感動的で、まして今、自分が別れの主役ともなると何故か、そんなに親しい仲でもないのに涙ぐんでしまう。どうしてだろうか。
まるで自分が映画の主人公になったみたいだ。
又一人旅の始まり。トーマスクックの時刻表によると、船に乗り換えたり、うまくいってもリスボンに着くには、夜中に何度も乗り換えなければならないようだ。
ついに言葉がまるっきりわからない国へ行くことになる。
せめて「ありがとう」と「すみません」くらいは調べておくと良かった。
でもリスボンにはイギリスのファームキャンプで知り合ったアントニーとトッがいるのでリスボンが楽しみだ。
アントニー⇓
乗換駅のアヤモンテ迄はうまく行きそうだが、その後の船が心配、まあどうにかなるだろう。
電車の中は日本人一人、他は地元人とドイツ人の旅行者みたいなの。
行ってどうなるかわからない所へ行くのに、不安でも寂しくもない。
スペインとポルトガルの国境は川、その川を小さな渡船で渡るのである。
船乗り場に一応は出入国検査官はいるものの、港の近くにある建物に潜りっぱなしで、いっこうに働く気などないようだ。
このまま素通りしてポルトガルに渡ってしまっては、悪い気がしたので、その建物へ入っていくと、審査官は一番安いタバコのデュカドスを吸いながら、同僚と大声で話をしていたが、俺の顔を見て
「ハポン?」と言った。
「シー」と答えると
「ヤマハ、スズキ、カワサキ」
と言ってパスポートも見ないで行けと言う。なんたることだ。
アヤモンテからポルトガルへはフェリーに乗り換え、15分ほど。
ポルトガル側の港で電車の時間がしばらくあったので、昼食兼夕食を食べにレストランへ入った。
適当にメニューを指さしたら、ステーキがでてきたので食べていると、隣の席で喧嘩が始まった。ポルトガルの第一歩は喧嘩。
で大騒ぎ、しかし店の者は慣れているのか、止める気もないらしくただ見ているだけ、そのうちにテーブルをひっくり返して外へ出て行った。
その間俺は変に巻き込まれてもつまらないと、素知らぬ振りをしてステーキを食べていたが、しばらくして喧嘩の奴等が戻ってきて、ガラスの割れる音がしたと思ったら、破片が俺の頭やステーキの皿に降ってきた。
別にけがもしなかったのでそれくらいなら我慢できるが、大事なステーキが食べられなくなってしまった。
食い物の恨みは恐ろしいと教えてやろうと立ち上がり、彼らのところへ行き、日本語で文句を言うと、頭に血の上っている彼らは、俺につかみかかってきた。
寸前、運良く警官が入ってきて、止めてくれた。
みさかいなく食って掛かってしまったが、警官が来てくれなかったら今頃どうなっていたことか。
日本にいた頃はこんなまねはしないのだが、外国に来てからはみんなが、空手、柔道などとおだてるものだから、やったこともない空手を使える気分になっていたのがまずかった。
ステーキには大きなガラス片が1個だけだった。
ステーキとポテトフライとビールで夕食、180エスクード。
ポルトガルに入り、電車に乗ってはいるが、何処へこの電車が行くのかわからない。今、Taviraという名の駅。
アメリカ人らしき奴は下車した。とにかくリスボンへ近づこう。時間は20時50分、この先どうなるか、はたしてリスボンへ着くか。
午前1時、電車を間違えて乗ってしまったような気がする。
なんとなく間違った気がしたので途中で降りてしまったが、今になっても、間違っていたのか合っていたのかわからない。
何という駅だかもわからない。
駅員に英語で話しかけてみたが通じない、スペイン語で話しても無駄。
誰だったかスペイン語とポルトガル語は似ているから大丈夫と言ってたが、全く通じない。
どうしようもなく、駅員に
「リスボア、リスボア」
と言うと通じたのか、2人の駅員が真剣な顔をして教えてくれたが、意見が合わないのかそのうちに喧嘩になってしまい、2人とも飛んできた他の駅員にどこかへ連れて行かれたしまった。
俺のために喧嘩になってしまったと少し悪い気持ちでいた。
ポルトガルに来て、はやくも二度目の喧嘩に出会ってしまった。
どうもポルトガルは、あってないようだ。
しかし、いったいどうしたらいいのだろう、なんでもいいから次に来た電車に乗るか。
スペイン語とポルトガル語が似ていると言ってたが、全くポルトガル語を理解でいない。
1980年4月26日 晴れ スペイン→リスボン着
Lisboa 着 6:15
無事リスボンに到着して、ペンションマリンホにたどり着けた。
昨夜は気を使った、喧嘩にも二度であったし、電車の時間はわからないし、間違うし言葉も通じない。本当に疲れた。
でも夜中に運良く乗った電車が、リスボンの手前のフェリー乗り場に到着し、フェリーでリスボンに到着。
さっそくファームキャンプでアントニーに書いてもらった地図の通り、アントニーの家に行ってみたものの、どうしてもわからず結局ホテル探し。
アントニーが書いた地図
ホテルを探すのに5件ほど回った。どこも満員だったり値段がたかったり。
ペンションマリンホは1泊170$P、850円。
言葉が全く通じない。辞書を持ってないし言葉が全く分からず。
ポルトガルに来てからの二食は、ステーキとビールばかり。今日の昼食はステーキ、ポテトフライ、サラダ、パン、ビール、プリン。
どうもポルトガルは好きになれない。明日の夜出よう。
ポルトガルは貧しそうだ。
子供の浮浪者も多く、着ているものも人々が皆貧しそう。
過去の国ポルトガル。まあその分物価も安くいいことだが。
朝コーヒーを飲んだら、9エスクード約45円、まあ小さなカップだが、日本だったら人件費にもならない。
そして大きなミカンを5つ買ったら50エスクード。
タバコは高くWinstonが80エスクード、400円もする。
それに比べるとスペインのDucadosは23Pts約75円。
ポルトガルに居たくない、と言うのも言葉が通じないのが一番いや、次にポルトガルのいやなのは美人が少ない。
スペインに比べどうしてあんなに少ないんだろう。
昨日スペイン側からポルトガルへわたるフェリーの上で、隣に立っていた女の子はスタイルも良く、綺麗な顔立ちをし、白い帽子が印象的に風に拭かれてかっこよかった。
でも、ビニール袋から取り出してポリポリと食べていたのは、ひまわりの種みたいな物。
15分ほどで対岸のポルトガルに着いたのだが、船が着く頃には夢中になって食べていた。
せっかくのポルトガル美人も、ひまわりの種を食べていたのではちょっと幻滅だ。
セビリアから電車の中で会ったスペインの男3人からタバコをもらい、つまみをも差し出してくれたが、さすがにあのかぼちゃの種みたいなのは貰わなかった。
リスボンには観光ではなくアントニーに会いに来たのに、その目的も果たせないので、どこかを見てみたいというところもなく、街をうろうろするだけ。
明日はマドリッドへ行こう。
1980年4月27日 晴れ リスボン
Lisboa Estoril往復
Lisboa Belem往復
Lisboa 発 21:10
Madridへ 679km
エストリルという街、海はとても綺麗で透き通っている。
4月なのに泳げるし、リスボンとは違ってとても良い街。
美人も多くこれでポルトガルの印象も良くなった。
天気も良く砂浜で1時間ほど裸で日光浴、とてもいい気分。
ベレーン、今までブラジルにあるとばかり思っていたベレンの塔と、あの海をめざした像(発見のモニュメント)のあるところを見学。
風は強いが天気は良く景色抜群、しかしこれで一国の首都とは思えない小さなリスボン。
ポルトガルは貧しい、着ているものもスペインより貧しく見え、時たま大声を出す男や、喧嘩。
ポルトガルもこれではこの先ダメだ、やはり過去の狂い咲きで終わってしまう。
リスボン発 21:10
マドリッドへ 679km
つづき⇓