ひとつ前の話①↑

 

1979年9月9日

ぼろ毛布にくるまってキャンプ最初の朝を迎えた。

同室の何人かは仕事で早く出ていったが、俺は仕事がない。

ゆっくりと寝ていたいのだが、朝食は6時半から8時までと決められているので、渋々7時半頃起きて食堂へ。

セルフサービスになっていて、食券と引き替えに、食事係の人にベーコンエッグを皿に盛ってもらう。

紅茶とパンは好きなだけとなってる。

紅茶とミルクは大きなタンクに入っていて、暖めてある。

パンはテーブルの上に乱雑に置かれ、みんなが古い堅いパンをさけようと、手に手に選んでいる。そんなのを見ると、食欲もそうはわいてこない。

Friday Bridge Agricultual Canpの許可書

 

朝食後、同棟になった仕事あぶれ組のフランス人、スペイン人などとサッカーをやったが、彼らのうまさには脱帽だ。ガキの頃からボールを蹴っているからか、ボールさばきが実にうまい。

体育の時間のサッカーは得意だったのに、ボールにさわることもできないほど、プロ並みか。

ベースボールをやろうと言ったが、やろうとしても彼らはベースボールという英語は知ってても、ルールを知らない。サッカーが日本の野球みたいなものだから仕方ないか。

けっこうみんな片言の英語で楽しくやれるものだが、熱が入ってくると自国語のスペイン語やフランス語が混じってくる。

ごちゃごちゃの言葉でわめき合いながらも楽しい。

 

明日はいよいよ仕事がある。朝6:45出発だと言う。

仕事があるときは前日の夜の夕食後、事務所の前の黒板に、畑の名前と各自の氏名を書いた紙が張り出される。

みんなが張り出された紙を見て「わーわー」騒ぐのである。

全員に仕事が廻ってくるわけではなく、200人ほど泊まっている中で、80人程の名前が書き出されるのだが、半分以上の人は仕事はなく、がっかりした様子で、ベッドへ帰っていく。

みんな宿泊代を稼ぐために、仕事があると喜び、さらにいい畑(仕事が楽)に自分の名前があると大喜びをする。

フライデイブリッジで

 

1979年9月10日

初仕事、昨夜、寝る前に「誰か一番早く起きた者が仕事のある者を起こす」と決め寝床に入ったが、6時頃になると誰からともなくごそごそと動き始まった。

朝晩は日中ではとても考えれないほどの冷え込み方である。

キャンプの近くにはポプラの木があるので寒いのも当たり前かもしれないが、まるで日本の山並みの気温だ。

ぼろ毛布2枚に日本から持ってきたシュラーフの中にはいっても朝は寒く、やっとの事ベッドから抜け出し、霧の中を洗面所まで行き、顔を洗い、トイレに行き、食券と自前のコーヒカップ、ナイフ、フォーク、スプーンを持って食堂へ走り込む。

食事のメニューはほとんど決まっていて、朝はパンとタンクに入ったミルクティーかコーヒー、そしてベーコンエッグとビーンズ。

すべてセルフサービス。

食券と引き替えに昼食用の弁当をもらう。

この弁当ときたら全く悲しいほどの物でパンは取り放題なのだが、手提げの付いた白い紙袋の中にはジャム、ゆで卵、トマト各1個。

日本から持ってきた水筒に紅茶を入れ弁当の出来上がり。

 

あたふたと朝食を済まし、口の中でもぐもぐやりながら集合場所のマイクロバスへかけ込む。

まだ朝日の出ない6時半、朝靄の中をオンボロバスで目的の畑へ出発。

畑へ20人ほどがオンボロバスで運ばれていく。

どんな仕事をやるのかと、ちょっと期待と不安な心で1時間ほど乗ると、やっと朝日が出てきて、霧も晴れてきた頃に目的の果樹園に到着する。

果樹園にはすでに地主らしき監督も来ていて、バスを降りると仕事の内容を説明し始めた。

何の木かと思っていたらプラムと言う。スモモみたいなものである。

これを各自に配られたバスケットに摘み取り、計量器の所に持っていくと、バスケット2杯につきコイン1枚とその場で交換してくれる。

横一列に並んで、一人一列づつ摘み取りが始まった。

どんな味がするのかと食べてみたところ、ちょっと酸っぱいがうまい味がする。

地面から手が届く範囲だとすぐにバスケット2杯は一杯になるが、木の上の方になっているものは梯子を掛けてやらなければならず、なかなか思うようには稼げない。

結局丸一日働いてコインが19枚。

仕事の終わる16時頃になるとこの果樹園の奥さんらしき人がお金を持ってやってきて、そのコイン1枚につき、60pの割合で現金と交換。

プラムも食べ飽きるほど食べたし、初めてのこともあり、けっこう楽で楽しい仕事であった。

フライデーブリッジの運動杖宿舎の裏にある広場でサッカー 白い建物が宿舎

一緒に仕事に行ったり寝泊りしていると、だんだんと片言ながらも意思が通じ合うようになり、話を聞くとここにはいろいろな人間がいた。

生まれ故郷を追い出され、国に帰れないでいる人、ベトナムから逃れてフランス国籍の人、普段は明るくふるまっているが、自国には帰らず本心から日本で暮らしたいという人もいる。モロッコ、ベトナム、ユーゴスラビア、他 日本人は幸せだとつくづく感じされられる。

 

1979年9月13日

晴れているが寒い。仕事がなく暇を持て余していたので、みんなでカレーパーディーをやろうとバスに乗ってウィズビーチへ買い出しに。

Wisbech

ついでに写真店にも寄って、感じの良いおばちゃんに現像を依頼した。

夜は盛大なパーティーとなった。

スペイン、ポルトガル人

 

1979年9月17日

キャンプ場からバスで1時間ほど行ったところにあるキングズリンという名の港町にある、果物や野菜の缶詰め工場での仕事だった。

魚の缶詰だとばかり思っていたら果物と野菜の缶詰工場だった。

例のごとく、6:45分に出発して17:50分に帰ってくる。

8時から5時まで働いて、日当は農家の仕事とは違い能率給ではなく、1日10£と決まっていた。

ころころと転がってくるカンズメを箱に入れる作業と、その箱を積み上げる作業だった。

工場の事務所で帽子と作業服を受け取り、工場のおばちゃんの後をついていくと、コンベアの所々に配置された。

たったの10£で機械に追われる仕事かと嫌な気分でいたが、11時頃機械が故障し、午後からは半分遊びと同じで、半日おばちゃん達とお茶を飲んだり、話をして終わったので、まるで工場見学に来て10£もらったようなものであった。

みんな帰りのバスの中で大喜びだった。

 

日本のカンズメ工場でアルバイトをしたことがあったが、その時の工場と比べると機械化が良くされていて、人の手を必要とするところがずいぶんと少ないが、その人の手が必要なところは大勢の人が寄ってたかってごちゃごちゃやり、遊んでいる人も出てしまっていて、全く無駄な動きをしている。

そして変わっているところは休憩が6分間。

何故6分間なんだろうか。日本だったら5分とか10分とか、区切りのいい時間で休憩するのに6分間。

そして1時間おきに6分間の休憩を取り、10時と3時にはティータイムとして大休止する。

日本のカンズメ工場とは大違いだ。

しかし、働いているおばちゃん達は日本もイギリスも同じで、仕事もせずに話をしている。そして気持ちのいいおばちゃんが多い。

簡単な英語で通じるよう、べらべらと話しかけてくる。

キングスリンの工場King's Lynn

 

1979年9月21日

今の所、D棟が日本人の溜まり場になっている。

俺とイクシマさん、本田さんの3人がD棟の住人で、何かあるとすぐにデインジャー松本以外の日本人全員が集まって騒ぐので、やっぱり日本人は集まりたがり屋が多いのかもしれない。

 

今日も新しくアフリカ帰りの日本人が来たので、D棟に日本女性2人に男2人もやってきて、合計8人が集まりベッドを近づけてべらべらやっていると、同室の外国人も最初のうちは仲間に入り、ジョークを飛ばしたりしていたが、そのうち呆れた顔をして出ていってしまった。

日本人の悪いところだ。外人がいたらみんなで英語を話すように最初のうちは努力しているのだが、ついつい日本語で夢中になってしまい、彼ら外人を仲間外れにしてしまう。

 

今日来たアフリカを回ってきて世界一周を目指している奴は、ものすごくイギリス人を嫌っていて、1週間したら此処を出るという。

何故イギリス人が嫌いなのにイギリスに来たのと彼に尋ねると

「悪たれどもの巣はどうなっているか見に来たんだ」と言う

「とにかくいやだ。イギリスは戦争に負けたことがないから、落ちこぼれた今でもでかい態度をしている。

一度日本にこてんぱにされてしまえばいいんだ。アフリカのイギリスの植民地はひどいぞ、根こそぎ吸い上げてしまい、フランスの植民地と比べるとかくだんの差があるさ。

フランスの植民地はフランス人がフランス語を教えたりして植民地を発展させるようにしているが、イギリスの植民地は吸い上げるだけで、福祉や経済面で何の援助もしていないから、イギリスの植民地はかわいそうだ」

彼が言うには今の福祉国家や下水道の設備などできたのも、昔の植民地から吸い上げたお陰だそうだ。

植民地を根本まで吸い上げて、メチャメチャにしてしまった。

 

それにしても彼のイギリス人嫌いは相当の物で、いつだったか後日、イクシマさんと俺と3人が同じ畑での仕事になったとき、その畑の監督が嫌なやつで、俺達3人のグループにだけ、やれ「リンゴのもぎ方が悪い」などとけちばかり付けるので、頭にきて3人で「今度戦争があったら真っ先にイギリスの此処へ爆撃に来よう」などと話していたら、彼は本気になってしまい、「今日は俺が第一次爆撃をしてくる」

と言って、監督の後を追いかけていって、殴ってしまった。

殴られた監督も頭にきて、早口の英語で「警察を呼ぶぞ」

とか何とか言いながらべらべら英語でまくしたてた。

驚いた俺とイクシマさんでやっとの事、怒り狂った彼を止めたが、それを見て監督は「おまえ達がそいつを止められなかったらすぐに警察を呼び、おまえ達を・・する」

と言った。

何するのか、難しい英語で解らなかったが、たぶん強制送還させると言ったのだろう。

その後「馬鹿」とか何とか言ったので俺も頭にきて、「何だこの馬鹿ヤロー、でかい態度してえばんじゃねー」

と日本語でわめき、手に持っていたリンゴの入ったバスケットを、監督めがけて投げつけて、3人で帰ってきてしまった。

こんな感じで、ネットから

キャンプまでの帰り道

「あいつ、イミグレに今日のことを話すんじゃないか」

「おれたち強制送還かなあ」

「おい、後ろから警察来ないか」

などと心配しながら、10km程の道を歩いて帰ったこともあった。

人によるのだろうけど、イギリス人は東洋人に対し、優越感を持っているようだ。日本人は自分たちより低俗な人間だと思っているらしく、ときどき態度に表れる。

 

1979年9月29日

本田さんと、イクシマさん、カズがキャンプから出て、残る日本人は俺とユキちゃん(本田)の2人になってしまった。

短い間だったけど、日本にいるときには考えられないほど短期間で親しくなり、別れるのが寂しい。

今日からは日本語を話す機会も少なくなってしまう。

しかしジョンと言うここのスタッフが日本人びいきで、ほんの少し日本語を話すので、それが救いである。

ファームキャンプ

 

1979年10月4日

10月になるとだいぶ朝晩は冷え込み、朝の霧はものすごく、少し先も見えないほど。そして霧は昼まで続いた。

このキャンプを出ていく人も多くなり、日本人も2人になってしまった。

宿舎もほとんどがスペイン人で、英語ではなくスペイン語が飛び交っている。

英語を話すのはスタッフのジョン(荒っぽい運転をしていた)とパブで酒を飲むときぐらい。

 

イタリア人やスペイン人は飽きっぽい性格のようだ。

メイソンでリンゴの収穫をやった時、2人一組になって収穫し、バスケット1杯でいくらの歩合制なのだが、彼らはすぐにやる気をなくし木の上で歌を歌っていたり、隣の同国人と長話。

ごく普通の日本人だが、毎回歩合制の収穫の時はほとんどトップの収入になっていたので、彼らが一緒に組もうと言ってくる。

要領がうまいのか。

Mason

 

1979年10月6日

最近は日本語を話すことも少なくなり、考えることも簡単な英語で考え、口からも英語が出てくるようになった。だが簡単な会話だけ。

今日はジョンの誕生日。

ジョンは大の日本びいきで、日本人に対してとても親切で、日本のことをよく知っているイギリス人で、このキャンプの雑役夫である。

今日で30歳、まだ独身の身だ。

日本人が2人になってしまってからはジョンと英語と日本語ごちゃ混ぜの会話をするのが楽しく、お互い言葉を教えあっていた。

 

ジョンとジーザス、アントニオらとで、隣町までバスにのっていき、スポーツマンというパブで割り勘誕生日パーティー。

普段はよれよれの汚らしい格好をしているジョンも、この日は黒のスーツなど引っぱり出して着ているが、どうもそのスーツは年代物だし、薄汚れていて所々にカビの後みたいなのが付いていて、みすぼらしいがジョンの姿勢は胸を張り、まさに英国紳士と言ったふうでいる。

店のドアを開け入っていくと、驚いたことにすでにジョンの友達らしい女の子がカウンターで、2人手を振って待っていた。

待っていたのはジョンの幼友達で、マンチェスターから駆けつけてきたとのこと。

Manchester

ジョンは英国紳士気分でいるのだろうが、俺にはどうもチャップリンに見えてしまう。だから女の子にもてるのかな。

バースデーパーティーと言ってもケーキもなく、バースデーソングを歌ってビールを飲むだけ。でも楽しい雰囲気だ。

ほとんどのイギリス人はつまみなど全く食べず、ただ飲むだけで、時たまタバコを吸い、吸い口ぎりぎりまで大事そうに吸うのである。

俺など、つい口が寂しく、飲むスピードが速くなり、その分酔いも早くやってくる。

イギリスにもはしご酒の習慣はあるようで、ジョンとイギリス女性2人連れで二次会のパブへ行った。

丸テーブルの席に着くと又ビールが出てきた。背の低い金髪娘が注文してくれたらしい。

それにしてもイギリス人は酒に強く、女の子も顔にも出ず、平気な顔をして俺の倍は飲んでいる。

 

1979年10月7日

ホセ、ジーザスと3人でマーチへ洗濯をしに行ってきた。

March

近くの墓地を一人で散歩したが落ち着いていて気持ちが良い。

名の知れた観光地より、こういったところのほうが落ち着ける。

日本を出て1ヶ月以上過ぎた。今、イギリスに来たというより、世界中の集団の中に入ったと言う気分。

部屋にはアラビックが3人、エスパニョールが2人、ポルチギスが5人、あと、たぶんイギリスと思われる奴。

 

昨日のパブへジョンに連れられて又飲みに行くと、昨日来ていた英国の女の子もいて、ラガー2杯ご馳走になった。

英国の19歳の女の子だ。一人は男性的、もう一人はブロンド髪の笑顔がまあきれい。

ブロンド髪の美人の方の彼女はロンドンに住んでいるとのことで、今度ロンドンへ行ったら彼女が案内してくれるとのこと。

細かい所を案内してもらいたい。しかし俺の英会話では話が続かない。

日本出発前に読んだ小田実の「何でもみてやろう」式に英語での会話が続かないので、しばらく飲んだ後、善の心境で黙り込んでいたら、最悪。無視されてしまった。

今時、東洋の禅なんて古い手だった。あれは20年前の話だ。

Pubネットから

近ごろ、いつも日本人一人で居るので、考えることもだんだんと英語的になり、口からすぐ日本語では無く、英語が出てくるようになってきた。でも、まだ簡単な会話だけである。

酒も回りそろそろ限界、頭が痛くなりだし、眠くなってきた。酒が好きなくせに飲めない。でもすぐに調子に乗って適量以上に飲んでしまう。

しかしイギリス人は実に強い、そんな俺を後目に19歳のジェニーは平気で顔にも出さず俺の2倍は飲んでいる。

「カンパーイ」とジェニーだか誰だかが覚えたての日本語で俺を揺するりながら言っている。

酒を飲んでも俺は絶対に悪酔いはしないが眠くなってしまう。

 

悪酔いをしなくなったのは高校を出てすぐの頃、中野の街を夜中の2時頃高校時代の友人達とべろんべろんに酔っぱらい、タバコ屋の店先に良く置いてある赤に白字の「タバコ」と書いた看板を歌いながら引きづって歩いていたところを、中野警察のお巡りさんに捕まって以来のこと。

その時5.6人で大声を上げながら歩いていたはずなのに、捕まったときは俺ともう1人だけ、彼らの逃げ足の早いこと。

400mハードルでインターハイに出場したことのある俺でさえ逃げられなかったのに、友人達の姿はどこにもなかった。

しかし逃げた友人達も俺ともう一人が交番へ連れて行かれると、いつのまにか全員そろっていた。

その時のお巡りさんの「今夜は交番に泊まるか!」と言う声が酒を飲むと、どこかで聞こえてくるのです。

 

頭がボーっとしてきてジェニーが何か言ってるけど聞き取れない。

イギリス人はよくビールを飲む人間で、会社の昼休みに女の子も男もみんなでパブへ出かけていき、サンドイッチとともにワンパイントのビールを飲む。

そして又仕事をし、車の運転もする。しかしどこのパブも午後11時になると店を閉めるのには驚きだ。

 

このキャンプ場の周りには遊ぶ所など全くなく、あるのは畑と農家だけ。

だからキャンプ場に泊まっている者はテレビを見るかビリヤードをするか、キャンプ場内のPubでビールを飲むかに絞られてしまい、リンゴを摘んで稼いだ金は食費と酒代ですべてこのキャンプ場の経営者に吸い取られてしまう。うまいことやっているものだ。

酒を飲み過ぎると決まって翌日の午前中はもう酒など見たくもないと毎度思うのだが、午後になると忘れてしまう。

黄昏時になると何故か又キャンプ場内のPubへ足が向く。

 

1979年10月8日

パブへ入るとすでにジョンが2人の女の子とトランプをやっていて、俺の入ってきたのに気づいたらしく、手招きをする。

いそいそとテーブルに座ると昨夜の女の子2人。1人はブロンド髪のちょっとポチャとした感じのいいかわいい子、もう一人は背の低い金髪のジェニー19歳。

酔った勢いで昨夜は話をしていたが、ブロンド髪の彼女の名前を知らなかったので、ジョンに紹介してもらうと、彼女の名前はマリー21歳だそうだ。

来週ジョンの運転で近くのカネボーと言うところへドライブに彼女たちと行く約束をした。

約束するとき、日本ではでは「指切りげんまん・・・・」と言うのだと自分では英語で言ったつもりだが通じたかどうか、しかし俺の英語も大分上達したものだと、彼女の笑顔を見て思った。

ところが1週間後の約束の日は雨で、ドライブは中止になり、はかない期待も雨と共に流れ、そのままLondonへ行くことにした。

 

1979年10月11日

気晴らしにスペイン人のジザースと2人で、朝早くバスと電車を乗りついで、ケンブリッジへカレッジ見学。

フライデーブリッジからバスで近くのマーチ駅へ。マーチからケンブリッジへは電車で。

ケンブリッジへの切符MarchからCambridgeそしてCambridge

ケンブリッジはオックスフォードと並ぶイギリスの学都で、ロンドンを小さくした感じの街である。

13世紀の建物は目を見張るものがあった。

学生の街と言っても日本のお茶の水や高田の馬場とは違い、ちょっと通りをはずれ、人混みの少ない石畳の道を歩いていると、中世の世界へ迷い込んだ気分になってしまう様な街である。

こんなところで勉強が出来たらどんなに良いだろう。

校舎も歴史物ばかりで、構内も広い緑の芝に覆われ、実に落ち着いた雰囲気である。

勉強は嫌いだったが、なんとなく此処でならもう一度勉強したくなってしまいそうな独特の雰囲気がある。

ケンブリッジ大学King's College 迫力がある。

キングスカレッジの校内にある礼拝堂のような建物の中で、誰かがパイプオルガンを弾いている。初めて生のパイプオルガンを聞いた。レコードで聞くバッハとは違い荘厳な音が建物にあっていて、鳥肌が立ってしまう。

迫力が違う。パイプオルガンの素晴らしさ。3階ほどの高さで引くパイプオルガン。

だが、ジーザスは特に感動した様子もなかったが、普段自国でこんな建物など見慣れているのかもしれない。

 

日本の古い建物は木で作られているので、石で作られた建物は見られないとジーザスに言うと、スペインにはもっと素晴らしい街並みがあるから、スペインに来れば案内すると言う。

しかしジーザスは来年から兵役だ。スペインの男は誰もが必ず2年間兵役につかなければならない。

2人ともアクセントの違う英語で話し合っているので、すれ違うイギリス人が俺達を見ながら通り過ぎていく。

ジーザスは13日にキャンプをでて、スペインへ帰るという。

キングスカレッジ

Fish and Chipsとビールを買って、芝生の上に寝ころんでぱくついた。

フィッシュアンドチップスはイギリス人の一番ポピュラーな食べ物で、名の通り、たらとポテトのフライである。

街のいたるところで簡単に買うことができ、日本で言うなら屋台のラーメンと同じ感覚のようなものであろう。

イギリスを訪れた外国人旅行者に言わせると、こんなまずいものはないと言うが、このフィッシュアンドチップスが大好きで、特に魚が食べられるというのが嬉しく、イギリスにいるときはちょくちょく食べていた。

食べ物の話となるとジーザスもけっこううるさく、イギリス風の食べ物にけちばかり付ける。

確かにイギリスの料理は、そのほとんどにビネガーをふりかけて、味をごまかしてあるし、手の込んだものも少ないので、ジーザスの言うこともわかるが、それほどスペインにはうまい食べ物があるのかと疑いたくなってしまう。

Cambridge見学も大部分がスペインの話で終わってしまった。

マーチへの切符CambridgeからMarch

夕方キャンプへ帰ると、ホセがいきなりロンドンへ行くと言ってきた。

何かロンドンでいい仕事が見つかったらしく、しばらくの間ロンドンで生活するらしい。

せっかく親しくなった友達も10月になってからは毎日のように一人減り、2人減りと、だんだんと少なくなってしまい、今ではこのキャンプに残っている人も、数えるほどの人数になってしまった。

そろそろこのキャンプ場を出ようかと思う。

 

1979年10月12日

なんだか最近の朝晩の寒さは一段と厳しくなり、部屋もヒーター付きの部屋へと移動となった。

ラジエター式の電気ヒーターはなじみが薄く、暖房器具のように見えない。

見た目に暖かみは感じられないが、それでも寝袋無しで、毛布だけで眠ることができるようになった。

天気も悪く雨が降ったり止んだりの日が続くが、それでも日本から持ってきた登山用の合羽を着込み、朝の6事半から野良仕事に励んでいたが、リンゴを握る手も痛いほどだ。

最初楽しかったこの果物摘みも、リンゴも梨もプラムもそろそろ食べ飽きてきたので、今日のこの仕事を最後にキャンプ場を出てロンドンへ行くことに決めた。

さっそくホセやジーザスに話すと明日ロンドンへ行くとのこと、ホセの車に乗せてってもらうことにした。

他にポルトガル人も明日でキャンプを出るらしく、それならば今夜はフェアウェルパーティーをやろうという話になった。

スペイン人、ポルトガル人、日本人で開くとなるとイギリス人のパーティーとは違い、やはり食べることが主体となり、みんなの希望で日本食パーティーとなった。

宴会Farewell Party

カレーライスとラーメン、それにポルトガル産のカンズメにスペインのワイン。

ラーメンはユキちゃんが日本から送ってもらったという、インスタントラーメンがあるので問題はないが、カレーとなるとはたして材料がそろうかどうか心細い。

ユキちゃんとウィズビーチのスーパーへ買い出しに行くと、カレー粉は売っていたが、日本の固形カレーのようなものはなく、ただ辛いだけのカレー粉のようなので、パン粉とクノールの固形スープと肉とタマネギ、人参を買ってきた。

ユキちゃんがカレーを作り俺はご飯炊き。

 

ベッドを隅に片づけて部屋の真ん中のコンクリートの上に毛布をひいて、即席の宴会場。

10人ほどが集まり、ラーメンができるまでの間ワインと、肉のカンズメで乾杯。

日本から持ってきた登山用のコンロや、コッヘルを並べ、ポルトガル人が持ってきた魚のカンズメとサラミのにこんだようなポルトガルのカンズメを肴に、スペイン人達が持ってきたワインで盛大なフェアウェルパーティー。

 

ヨーロッパはチャイニーズレストランが多く、ラーメンや箸などけっこう知られていると思っていたが、みんな箸やラーメンが珍しいらしく、ユキちゃんが配った割り箸でラーメンを挟もうとして大騒ぎだ。

大騒ぎをして食べているが、ラーメンをすするときに全く音を立てないのがさすがだ。

カレーも人気で、みんな辛い辛いと言いながらよく食べている。

スペインから持ってきたワインもから瓶が多くなり、ジーザスのギターで歌ったり、ダンスをしたり、楽しいパーティーだ。

キャンプで宴会Farewell Party

明日はここフライデーブリッジファームキャンプを去る。

最初の予定は10月27日までいる予定だったのに13日で去ってしまう。2週間早い、ロンドンへ行く。

明日からはロンドン、こんなのんびりした生活は出来なくなってしまう。

 

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