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1797年10月13日
ユキちゃんはまだ此処にいるという。彼女はポルトガル人のアントニーと結婚する気でいる。
彼とともにしばらく此処にいて、11月頃2人でポルトガルへ行くという。
出発の朝、親しかった何人かが見送ってくれて、ユキちゃんとイタリア人のマリルーが別れのキスをほっぺにしてくれた。
ジーザスとホセの車に乗せてもらい、3人でロンドンへ向けて出発。
ファームキャンプで1カ月が過ぎてしまった。
此処での生活も今になって思うと英語が話せなくて苦労したが、楽しい思い出になった。
いざ別れとなるとやっぱりちょっとは寂しいもので、何を話していいのかわからず、ただ手を振って出発してしまった。
ホセの運転にまかせ、後ろで二日酔いでひっくり返っていたら、いつのまにかロンドンへ着いたらしく、さっそくユース探しに歩き回った。
だがどのYHも満員で、仕方なくフライデーブリッジファームキャンプにいたイクシマおとうさんが朝食作りをしている、やっぱり友達はバカだったと言われているYTBへ行くことにした。
久しぶりのロンドンは綺麗な女の子が街を闊歩しているが、女の子ばかりに目を取られていると犬の糞をふんずけてしまう。
South Kensingtonの落ち着いた住宅街にあるYTBに着いたのは17時を過ぎていた。
宿のはげ親父に泊まりたいと言うと、満員で泊まれないと言う。
イクシマさんを呼んでもらい、彼に交渉してもらうと、何とか旨く話が付いたらしく、地下の食堂の隣にあるにある部屋にエキストラのベッドを用意してくれるとのこと、やっぱり持つべき者は友なり。
ここYTBホテルは値上がりしたというが、朝食付きで1泊2£はこの辺では一番安く、日本人旅行者の溜まり場になっている。
市の中心にも近く、地下鉄駅にも近いとあって立地条件もよく、ドミトリー式の宿が気持ちよく、宿泊者の日本人の仲には2カ月も泊まり込んでいる者も居る。
夜、イクシマさんの個室(宿泊者はドミトリー式で、2人から6人の相部屋)へ行ってファームキャンプでの出来事を話した。
本田さんはニューヨークへ出稼ぎに、3日ほど前に出発し、イクシマさんも2、3週間後にニューヨークへ行くとのこと。
やはり働くならニューヨークに限るらしく、ロンドンでは生活費を稼ぐのがやっとで、貯金などする余裕もないらしい。
俺はどうしたらよいか、ロンドンにとどまるべきか、それともニューヨークへ行ってみるか。
どっちにしてもイギリスのビザはもうじき切れてしまうので、一度イギリスを出なければならない。
まあゆっくりと考えることにし、とりあえずしばらくの間は居心地も良さそうなので、このYTBに居座ることにした。
1979年10月15日
野良仕事から解放され、のんびりとした気持ちで日中はぶらぶらと歩き、夜はみんなから情報収集。
眠くなったら眠り、起きたくなったら起きるといった生活。
天気は毎日どんよりとしたロンドンウェザー。
しかもこのYTBの暖房は典型的なイングリッシュヒーターで薄ら寒く、外の温度と変わりない。
名所と言われる所もほとんど見たし、何もすることなく暇を持て余していたので、ソーホーのチャイニーズレストランでワンタン麺と、チャーハンを食べた後、ゲームセンターへ入ってみると、インベーダーゲームがあった。
機械はほとんど日本製で、驚いたことにスペースインベーダーとカタカナで画面に書いてあった。
ロンドンでは今頃はやっているらしく、ものすごい人気で順番待ちの行列が出来ている。
日本にいるときはみんなから馬鹿にされていたほどの腕前だったが、ロンドンでは、ゲームをやり始めるとみんなの注目の的である。
東洋の神業此処にあり、とばかりに普段の英語を話せない欲求不満を発散。
周りを囲んだ奴等に、にたっと微笑み、ゲーム場を後にした。
ロンドンへ着いたばかりの頃は夜出歩くことなどちょっと不安だったが、1ヶ月の間にイギリスになれてきたのか、夜出歩くほうが楽しくなり、毎晩のように何種類もあるビールの味を確かめにパブへ出かけたり、劇を見にふらふらと出歩いた。
Londonは劇の本場。まずは日本人旅行者の誰もが行くという、男女10数人が全裸で喜劇を演じる、浅草ロック座と同じ様なオーカルカッタを見た。
YTBで知り会った名前を知らない2人とでオーカルカッタを見に行ってきた。
浅草のストリップと同じようなもので、それの西洋版と言ったところである。
英語が分からないから、面白いところも笑えず、周囲の人間が笑っているのを聞いて、ああ、おもしろいんだな、と感じるだけ。
あんなものに6£の価値はない、もっと芸術的なものかと思っていたもののあれでは喜劇、ストリップと大した差はない。
2度目に見たのはこれも十年以上開演しているというロングランのジーザスクライストスーパースター。バルコニーの2£券で鑑賞。
Oh Calcuttá、Jesus Christ Superstar
キリストが地下へ潜ってしまった。なかなかいい。
しかし残念なことに俺には劇は疲れるばかりだ。と言うのも何をいっているのかさっぱりわからないのです。
隣の席の連中が笑うから俺も一歩ずれて笑う、どうも疲れるはずである。
さらに天井桟敷から見ると爪先を見るように舞台が見えるのである。
視力は0.2、眼鏡をFarm Campの畑でなくしてしまったので、爪先でやっている劇は全く見えない。
話も分からないし、見えないし、それをわかったような顔をして笑うものだから疲れるはずである。
演劇鑑賞もいいが俺にはやはりPubの方がむいているようだ。
ロンドンのパブは政府が決めいているらしく、夜11時になるとどの店も必ず閉店となる。
ちょっと梯子をしたい気分の時は5時半の開店時間と共に出かけていかないと、時間通りの閉店までに満足気分を味わえないことになってしまう。
1979年10月17日
アメリカ大使館へ。アメリカ大使館はロンドンの街中では異質な近代的なビルでできていて、星条旗が何本も窓から出ていた。
アメリカにたいして敵対心を持っていて、日本にいる頃はアメリカだけは絶対に行くまいと思っていたのに、今はNew Yorkというのがすごい魅力に感じている。
アメリカのビザをもらおうとしているなんて、自分でも自分の気の変わりように驚きだ。
まず受け付けへ。入り口でガードマンのチェックを受け、2階へ上がるとビザの申請用紙が置いてあり、それに辞書を片手に記入し、写真一枚とパスポートと共に受け付けに渡した。
聞いた話では、受付けでまず返されてしまうとのことだったが、話とは違ってすんなりと受理された。
今日はいつもと違い、綺麗なかっこをしたし、髪もとかし、髭も剃ってきた。
1時間半ほど待つと、1番から5番まである窓口の3番の窓口へ呼ばれた。
星条旗を真正面に見るように向けられた椅子に座り、所持金、旅程、住所等を聞かれた。
担当官は続けざまの早口の英語で話しだした。きょとんとしていると同じ事をゆっくりと話し出した。
「あなたのこの用紙に書いたことは間違いありませんね」「はい」
「あなたの髪の毛の色は何色ですか」「黒」
「肌の色は」「黄色」
「瞳の色は」「黒」
「どうして日本でビザを取らなかったのですか」「出発まで時間がなく取れませんでした」
「日本の住所は?、アメリカへの目的は?、所持金は?、滞在期間は?・・・・」
実にしつこく質問した後、また「待っていなさい」と言われ、半分あきらめ、椅子に座ってしばらく待った。
旅行計画書や所持金の証明書を持ってくるように言われることが多いらしく、YTBには4度目に挑戦する人もいる。
不安だったがさらに30分ほど待つと呼び出され、何も言わずにパスポートを返された。
パスポートには1年間有効の青色と赤色の査証の大きなスタンプが押されていた。
やはりアメリカへ行くことに決めた。
明日は航空券の手配、まず、日本交通公社へ行ってみよう。
夜YTBの近くにあるアムステルダムというパブへ一人で出かけた。
カウンターで金髪のスタイルのいい女の子に日本のビールよりちょっと色の濃い、ワンパイントのビターを注文した。カウンターで飲んでいると、隣にやってきた中年の男が中国人か日本人かと尋ねてきた。
尾道にいたことがあると言う。
「君はビートルズを知っているかね」
「もしよかったらビートルズがまだ売れない頃に出演していたパブへ案内にしてあげよう」
この男を信用して良いものか、客引きか?心配だったが。
ネットから、こんな感じのPub AmsterdamでOne PintのBittr、Carlsberg
2人で近くにあるそのPubへ、階段を上って入り口のドアを開け中にはいると、タバコの煙と熱気が充満していた。此処もやはりパブだが、今までに行った事のあるパブとは違っていた。店の真ん中に丸くカウンターがあり、一番奥にはステージがあって、ちょうどギターの音あわせをしている所だった。
店の客も若者が多く、若い女性も大勢いる。
カウンターで80p払いワンパイントのカールズバーグを受け取る。
ステージの前に並べられた椅子には空いているところがなく、仕方なく壁によりかかって演奏の始まるのを待った。
おじさんが言う。「昔はあのステージにビートルズがいたんだ、店は昔のままだが人間が変わった」
バンドの演奏が始まって、話し声が聞こえない。
このおじさんはいったい何を言いたいのだろう。
イギリスの自慢話をしたいのだろうか、それだったら辞めてくれ、失業の増加、高インフレ、病める大英帝国、イギリス病、過去の栄光を忍ぶようなことならなおさらだ。
演奏が始まってから気がつかないでいたが、いつのまにかおじさんはいなくなっていた。
1979年10月18日
ハイドパークの芝生の上、久しぶりの上天気、気分が良いと言いたいが、昨夜はビールを飲み過ぎ、ちょっと気分が悪い。
昨日ヨ-ロッパから帰ってきた石川と言う人が、アメリカへ行くと言うのでいろいろと話を聞き、もし良かったら一緒に行こうとも思っていたが、今朝ちょっと話をしたところ、どうも気が合わないようなので止めにした。
これから航空券の下見に行く。JTBへ行ってみるが、もし、往復150£以下であったなら買ってしまおう。
しかし、JTBは見つからなかった。歩き回ったのに何処にもない。
YTBからハイドパークを抜け、そしてアメリカ大使館、ピカデリーそしてハイドパークと歩き回った。
12時半頃出発して2時半頃迄歩きどうし、英国人は皆歩くのが早いので、あわせて歩くと疲れる。
市内観光などそっちのけで各航空会社を巡り歩いたところ、一番の安チケットはビクトリアステーションにあるスカイトレインのレイカーエアライン。
食事無しで70£。ブリティッシュは80£、コンコルドを使うと200£とか。
ただしLakerの場合、当日又は前日の午後からでないと切符を買うことがでいない。
又機内での食事も別料金の1£50P。
ロンドン-ニューヨーク間、大西洋を飛び越すのに70£は安いと思う。こうなったら絶対にNew Yorkへ行く。
1979年10月21日
ロンドンの感想。
英国人は日本人に冷たい。やっと渡れた横断歩道、英国紳士は、やまたかぼうにアイスクリ-ム、フィッシュアンドチップス。
英国の特に目に付く点は、国民食はフィッシュアンドチップス、国民飲料はミルクティー、パブではビールを飲むだけで、つまみなど何一つも取らない。
そして、横断歩道は信号など有っても無くても変わり無し。道を横切るのに神経を使いどうし、英国紳士はスタイルは決まっているが、左手にステッキ、右手にソフトクリームを平気でなめながら、犬の糞をふんずけながら公園を散歩。
若い女性歩きながらポテトチップ。
街の至る所で見かけるベンチではどんよりと曇った空の下、寒いのに年寄りがごろごろと日向ぼっこ。
そして、着ているものは全体的に質素。
これが、ヨーロッパ1の発展国かと疑いたくなる。
街の建物は修理、修理。歴史はあるが近代性が無い。
タバコの値段は高く、物価はさほど日本と差はない。
ただ、YTB付近は英国人より、外国人に占領されている。
背もさほど高くなく、足も短い。
良い点は公衆トイレがきれいで、タオルの代わりに温風がでること、そしてお湯。
それに各家庭はセントラルヒーティング。だから、むやみに煙突が目立つ。
でも、それが建物と合っていて、やたら英国人のおっとりしたところに合う。
歩くスピードは速いが、何となく町全体がのんびりしていて、活気が無い、公園が多く緑が多い。
大英博物館は是非行ってみたいところ。
かつての大英帝国全盛期の遺産で埋められていて、ギリシャ、ローマからのすばらしき盗品の数々。さらにその盗み方まで詳しく、パネルで説明している。
この盗品を見尽くすには1週間は通いたい。博物館や美術館を観光するよい方法は日本人の団体の後ろに付くとよい、ただで日本語の説明が聞ける。
1979年10月23日
いよいよ不安だらけのアメリカへ向けて出発。
久々に雨も上がり陽もさしている。登山用のザックとショルダーバック。一人なんとなく寂しい気持ちだが、イクシマさんが後から行くからなと見送ってくれる。
ガートウィックへは乗り慣れた地下鉄を利用して出発。
サウスケンジントンを抜けると電車は地上を走りだす、ロンドンへ着いた頃とはすっかり変わった黄金色に染まった景色が広がっている。
なんとなく住み慣れた気分になったイギリスともお別れ。
レイカーのカウンターで荷物を渡すと14.8kg。
ちょっとした検問のよう所で、搭乗券を見せ、そのまま出国検査ヘ。ここで、EDカードを記入、出国のスタンプを押される。
少し歩くと免税店が。先にニューヨークへ行っている本田さんにタバコを買いたかったが手持ち3£40p、ちょっと買えない。ダンヒルも50~80£のあいだである。ボーディングカードをまあまあの美人スチュアーデスに切って貰うと、いかつい顔の男に呼ばれ、身体検査。
前にいた人はボディチェックなどされなかったのに、首からぶらさげたパスポート入れを服の上から不審そうにさわっているので、取り出して見せたらOK。
少しの間、赤い椅子の待合室で時間待ち。
いよいよ大西洋横断。座席は翼のちょっと後ろのシートNo31A窓際。
予定より20分ほど遅れて午後2時半、DC10が動き出した。
この時の離陸に失敗するのではないかという、何とも言えない不安な気分になるのが好きだ。
直線に入り加速すると圧迫される気分と、地上とタイヤが離れる瞬間のショックがたまらなく気持ちいい。
しかしニューヨークに付いてからが不安だ、飛行場からマンハッタンへの行き方もわからないし、マンハッタンの地図もない。ただ目指すのは49Stにあるマークウェルホテル。
着いた着いたやっと着いた、マークウェルホテル。ニューヨーク時間19時25分。
ロンドンだと夜中の12時25分。日本だと朝5時25分。
YTBを午前10:00に出発したので何だかんだ14時間25分掛けてやっと到着。 JFKに着いたのは2時間ほど遅れて17時。
John F. Kennedy International Airportへ
JFKに到着して先ず入国審査。YTBで聞いてたとおり、入国審査には気を使い、観光で40日と申告したところ、本当に40日キッカリ。
所持金や リターンチケット を聞かれるかと思ったが何も聞かれず。ただ40日のみ、Holiday。米語でVacation。
もう少し多めに言っておけば良かったと後悔するがすでに遅い。そして荷物、税関申告、ウイスキーは、滞在期間は、そんな程度で何も調べられず。
まあついていると言えばついているが、運が悪くずいぶん待たされた。
空港からはバスに適当に乗り込むと乗客は3人。
マンハッタンという看板があったので、どこへ行くのかもわからず乗り込んでしまったがしばらくして停車、終点らしい。
「此処から電車に乗り換えてマンハッタンへ行くらしい」と若い外人のカップルが言うので、信用し後をついていき、電車に乗り込み、しばらく走ると電車は地下へ潜り込んだ。
到着早々悪名高き地下鉄に乗れるとは嬉しいような不安なような。
47-50 Stと言う看板が見えたので急いで降りて出口を目指して進むと、運良く49Stの出口とある。
緊張の足どりで階段を上ると突然目の前に巨大なビルディング、ニューヨークだ。
一方通行の道路の両側に建つビルは、首が痛くなるほど見上げなければその最上階は見えない。
夜空に黒い魔物がでんと立っているようだ。これが摩天楼か!
ガイドブックも地図も持ってない。手にあるのはYTBで書いてもらった紙切れに51StのBroadwayと7Aveの間にあるマークウェルホテルと書いてあるだけ。
マンハッタンは京都の町のように碁盤の目になっているとは知ってたが、地下鉄からいきなり出て、夜で北も南もわかるはずもなく、かといっていつまでもボケーと立っていては、いつ黒人に声をかけられるかもしれないので歩き出したが、ビルに道路名がLondonのように書いてあるものとばかり思い、ビルばかりを見ながら歩いたが何も書いてない。
どうも嫌な気分になってきたと感じていたところ、48St付近でビルに背中をもたれかけ、夜なのにサングラスをし、片手をポケットにつっこみ、右手でタバコを吸っているやけにつっぱた警官らしき人がいたので、おそるおそる道を尋ねると、外見とは違い親切に、ああ行って、こう行って、と指で方向を指してくれたが、何を言っているのかは早口で全くわからなかった。
逆方向の49Stから46Stの方へ向って歩いていた。
「ありがとう」と言って指さした方向へ歩いていくと、Stの表示はちゃんと信号機のところに書いてあるし、実にわかりやすい街なのだ。
ただ、歩道の信号機がロンドンはCROSSなのにニューヨークはWALKとなっている。
荷物を持ち、一見して旅行者と分かる格好だったので、ホテルに着くまで不安で不安で、いつ黒人に声を掛けられるか心配していたが何のこともなく、赤い文字のMark Well Hotelが目に入った。
このMark Well Hotel、ホテルと呼ぶにはちょっとひどすぎる。
ちょっと戸惑いながら中にはいると、入って左側におっさんがいて、そいつに値段を聞くと3日で40$とのこと。
高い、しかしすでに夜になってしまったし、これからあてもないホテル探しをするのも不安なので、渋々部屋の鍵を受け取り、ぼろぼろエレベーターに乗り8階へ。
部屋の中にはいると、毛布は染みだらけ、天井ははがれている、テレビは写らず、洗面所の蛇口をひねると赤錆が出てくる。
廊下はまるでぼろ小屋。まあ救いはシーツが綺麗なようだし、ダブルベット、枕が二つ、広い。
こんなぼろホテルは嫌だ。日本に帰ったら良いホテルに泊まるぞ。
不安だった。空港から電車に乗るまではとくに、あのバスのなかに、客は3人、何処か違うところへ行ってしまうのかと思った。
ネオンを見に行くか、来る途中にあったあの札幌ラーメンを食べに。
今夜はとにかく休もう、疲れた、疲れた。日本人を見付け情報を仕入れなくては、お金も少ない、働かなくては。
不安な気分になどなっている暇はない。
などといろんな事が頭の中でぐるぐる周りしている。
つづき⇓