前の話は↑
年がかわって1980年になりました。
1980年1月1日
明けましておめでとう、正直言ってあまりおめでたくもないのだが、どっちでもいいと言った気分。
街を歩いても、普段にぎやかな通りも人通りが少なく、新聞が寒風に舞っている。
日本の正月とは違い、華やいだ雰囲気が無く逆に静寂だが、やはりいつもとは違っている。
午前中、カーネギーホールシネマであのオードリーヘップバーン主演の「ティファニーで朝食を」を2回見た。
Carnegie Hall CinemaであのAudrey Hepbern主演のBreakfast at Tiffany's
午後からアミーゴが遊びに来て、ケゴンでもらった餅をラーメンのスープの中に入れ、お雑煮気分で食べた。
ハンバーグステーキをTad'sで食べた後なので、そんなに腹は減ってないけど、ラーメンのおつゆでのおぞうには結構いける味だ。
外人は餅のようなべとべとしたものを食べられないと聞いていたので、喉に引っかかってしまうのではと、アミーゴに食べさせるのをちょっと心配しながら、少しずつたべるのだと言い聞かせながら食べた。
1980年1月5日
雪が少し積もっている。
今日は部屋の移動、11時少し過ぎホテルの女将ジェニーのノックの音で目を覚まし、すぐに部屋の移動を開始、部屋番号CDからEJへ、2階から5階へ。
今度の部屋は南向きに窓があるので光が良くはいり広い部屋。
壁も塗り替えてくれたらしく、まだペンキの臭いが残っている。
大変暖かく、今もヒーターの音がしている。半袖シャツでちょうど良いくらい。
今までのCDはオーバーでも着ていないといれないほどだったのに、ここは部屋も広いし、日当たりも良いし、景色も見られるし申し分ない。
でも週当たり35$の家賃、5$上がってしまったがその価値はあると思う。
一夜に100$以上のホテルもあればこう言った部屋もある。いつの日か高級ホテルへ泊まりたい。
今日一日は洗濯と日本クラブへ新聞を読みにいって終わりにしようと思っていたが、何気なく映画を見てしまった。
日本のほうが音響設備などずっと良い。
元日にはBreakfast at Tiffany's見て、このところちょっと映画を見過ぎである。
STER TREK 42St vitwien 7 and 8 Ave 3$50
BREAK FAST AT TIFANY'S Carnegie Hall 4$
APOCARIPUS NOW 7AVE 5$
日本へ帰って、もし上映していたら絶対に上記の映画を見よう。
今日の食事は昼食とも夕食ともつかない、前に買ってあった食パンにレタスをはさんで、ドレッシングをかけコーラで食事。
その後チャイニーズの店で焼きそばとチキン、コーヒー2$ちょっと。
1980年1月19日
仕事休みの日、早くスイスへ行きたい、アルプスを見ながら芝生に寝ころびたい。
かの有名なマディソンスクエアガーデンを見てきた。18時半から23時半頃まで。
Madison Square GardenでVitalis U.S Olmpic Invitational
33Stまで7Avを下り7Av側から中へ入るとチケット売り場、6$と8$と14$のチケットが有ったので8$の切符を購入。
5時半頃着いたので30分ほどぶらぶら待つと入り口が開き、エスカレーターで3か4階分ほど上がり、ゲートNoA17へ。
照明に照らされた広い競技場。
でも一周200mはなく150m程だろう、いつだったかテレビで見たのと同じく、コーナーが斜めになっているのでスピードは出せるようだ。
日本にはあれだけの設備のあるところはない、昔、銚子の体育館の中で走ったことがあるが、あそことは月とすっぽん。
そして観客も違う、アナウンスも違う。
あの観衆のなかで走れるのなら自然と記録も良くなるであろう。
それにしても走るフォームが綺麗な選手が多い。
Programが2$、そして腹が減ったのでBig Burgなるホットドックを食べると2$。
1980年1月26日
ケゴンで天ぷら担当の宮森さんとちょくちょくバーへ飲みに行くようになり、彼のアパートに泊めてもらったりして、結構楽しい生活を送っていた。
昨夜はけごんのステーキ担当の森さん、宮森さん、アミーゴと4人で噂の、QueensのRooseveltにあるCafe'75と言うバーへ。
ローラと言う女の子を一目見てみようと行ってきた。
店のドアを開け、薄暗い店内の一番奥のカウンターに4人並んで座った。
ローラは噂どおりのなかなか美人である。
18才だと言ってたがそうは見えない。
4人でシーバスの水割りで乾杯をしたが目はローラへ。
何とか話すチャンスはないものかと、スペイン語でアミーゴと話をしていると、ローラが不思議な顔をして、スペイン語で話しかけてきた。
スペイン語を話す日本人が珍しいのか、いろいろと話をした。
プエルトリコ出身とのこと、どうも目が違うと思っていたら、やっぱりプエルトリコだった、プエルトリコは美人が多い。
ローラは日本の歌を歌えると言って、ジュークボックスのところへ行き、コインを入れていくつかボタンを押して戻ってくると、ジュークボックスからは「津軽海峡冬景色」のメロディーが流れてきた。
ローラはマイクを握り、踊りながら日本語で歌いだした。驚いた、旨い。
日本語とスペイン語の発音は似ているから、英語を話す人間が日本語を話すのとは違い、変なアクセントにならず、なかなかいける。
日本語の歌をジュークボックスとともに歌い、日本の歌をアメリカのバーで聞くのもなかなか良いものである。
1曲で終わりかと思ったら、「みせられて」が続いてかかり、又日本語で歌いだした。
来月の9日は彼女の誕生日だそうだ。
帰り際ローラがメモに書いた手紙(誕生日パーティーの招待)を受け取り、軽くキスをして店を後にした。
昨夜はスペイン語のおかげでだいぶ楽しい思いをすることが出来た。
今はスペイン語も捨てたものではない、ちょっとした会話なら可能だ。アミーゴに感謝。
Cafe'75を出た後、近くのトップレスバーへ行った。店にはいるとちょうどローラとは月とすっぽんのでぶでぶで、気持ち悪い女の子がステージで踊っているところだった。
ローラの容姿が頭の中に残っているので、その女を見ると気分が悪くなってくる。
ステージを見もしないでbudweiserだけをがぶ飲みし、なんとなく悪酔い気分でトップレスバーを出たのは4時を過ぎていた。
マンハッタンまで帰るのがめんどくさくなってしまい、森さんのアパートへ泊めてもらう事にした。
森さんのアパートのあるQueensは日本で言うなら、なんとなく世田谷あたりの感じ、マンハッタンとはまた違った良さがある。マンハッタンのミッドタウンは新宿で、ダウンタウンは有楽町界隈か。
朝、目を覚ますと頭が痛い。二日酔いの痛みではなく、風邪をひいてしまったような痛みがする。
遅い今日の朝食、朝食と言っても午後2時頃で、森さんの手づくりの料理。
New Yorkの晴れた日の空は素晴らしく青い、森さんのアパートからでたとき空を見上げると、真っ青な空、痛い頭がずきんとし、青空を避けたくなる。
14時頃起き、遅い朝食を食べ、テレビで「ちびっこ大将」を観て15時にアパートを出て、7番の地上を走る電車をタイムズスクエアで降りると、すでに辺りは薄暗くなってきて、一日も終わってしまう。
16時ルームズ着。
前林さんと待ち合わせをしていたので、時間を気にしていたが、ちょっと横になると寝てしまい、寒さで目が覚めた。
17時ちょっと過ぎに起きてシャワーを浴び、待ちあわせの東京書店へ18時1分着。
東京書店は日本人向けのアルバイト情報なども貼ってあり、大事な情報交換の場所でもある。
すでに前林さんは来ていて、本を読んでいた。
二人して48Stのステーキを食べに行った。セルフサービスだが焼き具合をいうと、目の前の汚らしい鉄棒格子の網の上で、じゅうじゅう焼いてくれ、それに特大じゃがいも1個とコッペパン1個、さらにフレンチドレッシングサラダ、あとコーヒーを頼み、合計4$9¢。
その後APCARIPS NOW(地獄の黙示録) 。を見て部屋に帰ってきたのは23時頃。
この頃の食事は朝食にカフェでものすごく甘いドーナッツと、地元民の真似をしてものすごく甘いコーヒー。昼食はTADY'Sの4$20¢ステーキか、親しくなったジョンがやっているピザ、夕食は結構豪華なまかない。
体重がどんどん増えていく。山に登れなくなってしまう。
1980年2月3日
昨夜の気温はまたもや10°F(-12°C)。今の気温は25°F、ラジオでは19°Fと言っていた。
天気は晴れ、ニューヨークの今頃は青空がとても美しく、街には似合わない。
ニューヨークにはもっとどんよりとした汚い空が似合うのに。
昨夜からフランス語の勉強を始めた。
スペイン語はまあなんとか話せるまでにきた。
3カ月かかってこんなものだから、1カ月でフランス語はどのくらいになるか楽しみだ。
英語のほうはまったく進歩無し、ラジオを聞くと理解できるのは天気予報のときだけ、後は何をいっているのか、と切れと切れ一部の単語だけしか分からない。
今日は昼食がジョンのピザ屋でシシケバブーを1$85¢でコーヒーと共に食べ、夕食は肉。
ビーフステーキをオニオンエッグで自分で料理して食べた。
1$94¢の肉は結構あるが、べらぼうに日本より安いとは感じない。
今良く行くCoffee ShopとStake HouseとPizza Shopはコーヒーがだいたい35¢。
薄いコーヒーにミルクをたっぷり、そしてここの住民はさらに砂糖を山ほど入れて飲む、だからシュガー入りのchocolate(ココア)などは、砂糖がすでに入っているので、その甘さと来たら飲めたものでない。
甘過ぎて水が欲しくなるほど。それにしても甘い。
此処の人間は糖尿病患者が多いのではないかと、コーヒーを飲む度思う。
日本のような喫茶店はなく、ほとんどがスタンド方式で、何種類もの甘いドーナッツが置いてあり、スタンドに腰掛け、Regular coffeeと共に必ずドーナッツを2個も3個も注文する。
仕事の帰り道、ギリシャ生まれのソクラテス君が働いているピザ屋へ入って、ちょっと肉を多めにしてくれたシシケバブーを食べながら、American coffeeのことを話すと、ソクラテス君もまずいという。
ギリシャではどろどろした、苦いトルココーヒーが旨いという。
ケバブーのような料理もあるし、ウーゾという旨い酒もあり、食べ物は実に何を食べてもうまいと自慢する。
何度も聞かされるので、なんとなくギリシャへ行ってみたくなる。
3月になったらアメリカを出て、ヨーロッパへ行き、しばらくParisに腰を落ちつけ、夏までの間ヨーロッパを廻り歩こうと今夜決めた。
風邪の方はちょっと調子を取り戻したようで、咳が少しでるだけで頭もいたくないし、気分はまあよい。後1カ月で仕事を終わりにしてケゴンともお別れ。
1980年2月9日 Lauraの誕生日
ローラの誕生日パーティーを忘れてしまっていて、すっぽかしてしまった。
New Yorkに着いて今日で110日目、一年の約3分の1をニューヨークにいたことになる。
後18日働いたらケゴンともお別れ。
そして1カ月後にはロンドンからパリへ、憧れのシャンゼリゼを歩く日は近い、カフェテリアに座り、道行く人を眺めながら落ち着いた気分に浸る日は近い。
このルームズの新しい部屋、EJに代わってから毎夜ビールを欠かしたことが無い、暖炉の上の棚に置いた瓶の数もだいぶ増えた。
昨日ケゴンの新人宮森さん(天ぷらの宮森さんと同性)と打合せした通り、ケゴンの前で13時に待ち合わせ。
宮森さんの友人が東京から来るというので、3人でNew York見学。
Times Squareまで歩いていき、ジョンのピザやでシシケバブーを食べ、歩いてMadison Square Gardenまで。
ボーリングをしに行ったが、だいぶ待つようなので地下鉄でSouth Ferry/Terminal迄行き、往復25¢のフェリーでスタテン島へ。
自由の女神の近くを通ると、川か海か分からないがその水面には無数の氷、流氷のような氷。氷山とは行かないがその氷を割りながら、船はStaten Islandを目指し、自由の女神を右に見ながら進む。
ニューヨークの寒さが分かる。
Staten Islandを散歩したが、何もないところ、小便をしただけ。
またフェリーに乗りマンハッタンへ。
船から見たマンハッタンは曇り空の下に煙り、ちょと霞んで超高層ビル群が見える。
マンハッタンはよく沈まないかと心配になるほど、摩天楼が乱立している。
South FerryからWorld Trade Centerの下を歩いてChinatownまで。
そこで夕食を食べると、チャーハンと焼きそばとフライドワンタンで一人当たり5$。
また地下鉄に乗り、Madison squer gardenへ。
またまたボーリング場は満員で、2時間待つとのこと、ボーリングはあきらめ7Aveと8Aveの間にあるトップレスバーへ初めて入ると、さっきまで踊っていた女の子が一人寄ってきて、なれなれしく話しかけてくるので、つい調子に乗ってしまった。
シャンパンが飲みたいと言う。
値段を聞くと1本20$だと言う。高い。
日本のキャバレーと同じじゃないか、しかし口から出た言葉は「いいよ」。
どことなくラテン系の顔をしているので聞くと、隣に座った女の子はスペインから来たと言う、俺のスペイン語も捨てたものでなく、確実に話が通じた。
今度は本物のスペイン語、イギリスで知り合ったホセアントニオやジーザスのことを思い出しながらスペイ語で話をしていると、宮森さんがいじけた顔で、通訳してくれと言う。
宮森さんは純情な18歳。顔が赤いのは酒のせいだけでもない。
そしてもう一人の女の子はアメリカの女の子であまり気にいらなかったが、宮森さんが英語を話せないので通訳、英語力もだいぶ力が着いてきた。
なんだかんだと話していると、彼女の踊る順番が廻ってきた。
彼女はカウンター越しのステージの上にあがった。
3人で盛大な拍手をすると、ちょっとこっちを見て恥じらうようなしぐさをし、ディスコミュージックに合わせて踊り始めた。
彼女はすでに俺達の席に来てからシャンパンを3本も飲んでいるから、ちょっとふらついているようだ。
俺も顔はニコニコしながら彼女を見上げているものの、心の中ではいくらになるか計算していた。
宮森さんも計算していたらしく、目が合うと店を出ようという合図。
会計を頼むと3人で51$取られてしまった。
ぼられたかな、外は冷たい風が吹いていた。
それにしても俺の今日のスペイン語には驚き、あれほど通じて理解できるとは思わなかった。後はフランス語。
今は無い日本人が設計したWorld Trade Center
1980年2月20日
軍資金もたまったので、今月いっぱいでケゴンを辞めることにした。明日マネージャーに話をしよう。
3月14日にLondonへ行くことにした。
1980年2月24日~
天ぷらの宮森さんのアパートで焼鳥と天ぷらのパーティーをしたり、マンハッタンに昇り、映画Deep Throatを見て、New York New Yorkでディスコを踊る。
11時半に起き、シャワーを浴び、ラーメンを食べながらアミーゴと新人の宮森さんを部屋で待っていると、13時頃来たのは宮森さんだけ。
部屋でちょと話をしたあと出かけ、Woolworthで絵はがきを買い、中川レストラン迄行き、42Stの5Aveの所のTAD'YSへ入り、ステーキを4$20¢で食べ、歩いてエンパイヤステイト迄行き、2$25¢の入場料で102階まで。
最上階からの景色はいい気持ちだ。
その後デパートへ行き、カメラやラジオを見てトイレ捜し。
そしてレストラン中川へ行き、宮森さんの友人の藤平さんも合流して、彼のご馳走で、やき鳥とかき揚げとビール2本、そして鍋焼きうどんを食べ、洋子さんと言う店の女性とちょっと話をする。
洋子さんは荒井由美が好きだという。今度レコードを聴かしてもらう約束をした。
日本を出る前までは毎日のように、荒井由美の歌を聴いたものだ、顔はまずいが歌詞がいい。
あの顔であの詩、人間は顔じゃないよ、心だよと言っているような荒井由美が好きだった。
その後タイムズスクエアの映画館でDeep Throatを5$の入場料でみるとカップルの多いのに驚く。
23時近くになり、Lexington Aveの53St、三角屋根のビルのなかで、タバコを1本。
その後ディスコへ行くことになり、有名なNew York New Yorkへ。
入口で入っていく人達の服装を見ていたら、ぼろジャンパーにGパン姿の俺が入っていいものかと、ちょっとためらったが15$のコミッションで地下へ降りていくと、とんだ服を着た男と女、若い熱気がむんむん、音ががんがん、だが驚いたことに厚化粧のおばさんや、背広姿のおじさんも混じって、額から汗を流して踊っている。
しばらく見ていると踊らずにはいられなくなり、踊ると汗がだらだら、気持ち良い汗。
みんな思い思いのステップで、酔いしれたような顔で音と光に巻き込まれているようだ。帰ったのは2時半頃。
1980年2月28日
New Yorkへ来て129日目、ちょうど今日でケゴンで4カ月働いた。
旅行者としてはちょっと一箇所に長く居すぎる。
金を稼ぐためにNew Yorkにこんなに長く居なければならない、金を稼ぐとは悲しいことだ。
仕事は金を稼ぐためにやりたくない、何のために仕事をするのか今だまだつかめないが、金稼ぎのための仕事はしたくない。
と思うものの日本へ帰ったらどうなるか心細い。
旅行にでてから世界中を見てみたくなった。
南米の遺跡、インドの貧困、ネパールの山、アラスカ、カナダの自然、オーストラリアの海、でもアフリカにはまだ行きたいとは思わない。
だがこの旅を長く続けたくはない、日本へ帰って勉強しなおしてからだ。
日本へ帰ったら本を読むぞ、その前にまず、世界史、そして美術の流れを知りたい。
スペイン語もまだ知らない単語が沢山有るけど、なんとなく旅行するには充分な気がするので、スペイン語を卒業、フランス語1本、英語は毎日何だか知っているような知らないような。
話し慣れてないので話せないのであって、スペイン語のように話し相手がいれば幾らでも話せる気がする。
旅に出て自分だけで何とか生活できる自信のようなものがでてきた。
今夜は雪、New Yorkで見る何度目の雪だろうか。
2.3日暖かい日が続いたと思うと又冬に逆戻り。
計画変更。どうも今月中にはケゴンを辞められそうにないので。
1980年3月9日
夜行型の習性が身に付いたのか、午前2時、こんな時間でも眠くない。
3月7日は、ケゴンの焼き物係りの近藤さんが、最後と言うので、分厚い3センチもあるステーキを焼いてくれ、4カ月間の苦労をねぎらってくれた。
今になって思うとみんな良い人ばかりだったようだ。中国人のカズミちゃんも知ったし、朝鮮人のキムさんも知った。ペルーのロドリゲスもエルメストも知った。単調で嫌な仕事の毎日で苦しかったけど良い経験になったと思う。
金曜の夜は森さんのQueen'sのアパートへタクシーで直行、旅行に出てタクシーにのったのはこれが始めて。
カナダへ行くと言う藤平さんや、南米で2年半暮らしたという名の知らないアミーゴと呼ばれている日本人など来ていて、まあ楽しく飲む。そして森さんの家へ泊まった。
昨日は14時頃迄寝ていて、起きると森さんがご飯を作ってくれ、テレビを見ながら朝食兼昼食。
テレビでCharles Bronsonの映画を見て、宮森さんとQueen'sのボーリング場へ。
靴を借りると片方の靴をデポジィトにされ、もう片方は自分で持ってレーンへ。
ボールは日本のようにしたから出てくるのではなく、高いところからいきよいよく転がってきて、ぴたっと投げるところに止まるようになっている。
2人で10ゲームして10$ちょっと。得点は178が最高でアベレージが154点まあまあだった。
腹が減ったので、此処に入ってきたときから気になっていた、可愛い女の子のいるスタンドへ行って、Beef burgerとRegular coffeeを注文すると、その女の子は愛想悪く、隅っこの方へ引っ込んでしまった。
その態度にちょっと幻滅していたら、しばらくしてその子の方から話しかけてきた。
2歳の時にコロンビアからアメリカに来て、来年の夏休みにハワイに行くので、日本まで行くかもしれないと。
兄はArmyで韓国に行っていて、伯父さんはアラスカに行っているそうだ。
日本のことは良く知らないようで、中華料理が好きで、よくCanal Stへ行くと話していた。
彼女は肌も綺麗だし、色も白く、身長も160センチくらいで、瞳も黒、とても可愛いらしい女の子だった。
夜のパーティーに誘ってみたが今夜は都合が悪いという。
宮森さんのバイトでアメリカ人と結婚した日本女性夫婦主催のパーティーへ行き、天ぷらを揚げる手伝い。
狭い部屋だが寝室まで開放して30人以上の客が楽しんで、日本食を食べ、酒を飲む。
これが話に聞いたアメリカ人はパーティー好きで、自分の家に友人をよぶということだ。
1時近くまでその見知らぬ人の家に厄介になり、その後森さんと宮森さんと「チンヤ」へ食べ、飲みに行った。
自分で驚くほどシーバスの水割りを飲んだ。6杯か7杯だと思うがいつものように気持ち悪くもならず飲めた。
しかし今日はダウン、朝の6時まで飲んでいたのだからダウンもいいはずである。
1980年3月10日
いよいよ出発の準備という気分、レイカーのオフィスへ行き、チケットのことを聞き、カタログを貰うと、なんとなく日本出発のときと同じような気分。
いよいよ一人旅の出発である。今度はどんな人間に出会うのだろうか。
日本料理を42Stの「焼き天」と言う名の店で食べ、チップもいれ4$。
1Day14$の旅行者なのだから、今後は日本食など高級で食べられない。
ロンドンへは又、Lakerで帰ることにした。
アルバイトでためた軍資金では、とてもじゃないが優雅な旅にはほど遠いので、交通費はけちるに限る。
5番街のスイス観光局でユーレイルユースパスを買い、出発準備も整った。
Swiss National Tourist OfficeでEurail Youth Pass
旅なれたと自分では思っていても、出発を前にすると不安だ。
それにしてもオフィスでの態度の悪さには閉口してしまう。どちらが客だか解ったものじゃない。
毎週行っていたCiti Bankにしてもぶっきらぼうだし、日本の銀行と比べものにならない。
日本にいると銀行員の態度が悪いとか、店員が気にくわないなどと言うが、アメリカのサービス業は日本の区役所以上に頭に来る。
まあ、日本のデパートなどが良すぎるのかもしれない。
1980年3月13日
ロンドンに向けてJFKから出発
アメリカでの総支出 滞在日数143日 1日平均9$75¢の支出だった。
22時発、住み慣れたManhattanともいよいよ今日でお別れ。
朝一番でLakerの59St5Aveにあるオフィスへ行き、One Wayのチケットを買うと、Hot Dinnerを入れて174$プラスのTax3$で計177$。
出発まで時間があるので空港へ行く前に、領事館へ手紙が届いているかもしれないので行ってみた。
受け付けで女の子から、家から来ていた手紙を二通受け取り、帰ろうとすると、池田さんと言う人が会いたいとのことで、少し待っていてくれとのこと。
顔は平常を保ちながらも、内心不法労働がばれたかとか、ビザの期限オーバーで罰金ではと心配になった。
しばらくして、奥の部屋へ通されると、池田さんという40歳くらいの人が、父からの捜索願いのような手紙が来ていると。
開けると祖母の具合が悪くなったので、もし領事館に寄ったときには、日本に帰るように話して欲しいと書いてある。
祖母には悪いが、内心ビザや不法労働のことでなくほっとした。
小さい頃からずっと祖母に育てられたので、祖母には口に出しては言い切れないほど、感謝の気持ちで一杯である。
そのおばあちゃんの体の具合が悪いらしい、どうしたらいいのだろう。
日本へ帰るべきか。
領事館の電話を借りて家へ電話をしてみると、「今は祖母の具合はなんともないが、以前より元気もないので、できるなら早く帰ってこい」と言うが、ヨーロッパへ行きたい。
祖母は今年92歳、心配だけど、ヨーロッパへ行くことにする。
ManhattanからJFK空港へ、6Aveの49StからJFKへ直接の急行が走っている。
空港へ行く人だけが利用するのでわかりやすい。
最終駅を降りるとバスが待っている。
AとBがある。BはUnited Airlines terminal行きなのでそれに乗り込むと、ターミナルの前まで合計3$50¢である。
今、時間は16時30分、出発はLakerのGK20便22時15分発なのであと4時間ほどある。
外は雪、マンハッタンではちびりちびりの雪だったのにJFKは大雪。
John F. Kennedy International Airport
雪の日に出発なんてなかなかロマンチックで味があると一人思いこむ。
マンハッタンから空港まで40分くらい。
空港で19時頃、荷物のチェックを終わらせ、その後2階のセルフサービスの所で、サラダとBigHotdogを食べ5$ちょっと。
そして待合室で雪景色を写真に撮ったりしていたら男が「CAN YOU SPEEK CHAINES」 ときた。
中国人と思い、話しかけてきたに違いない。
彼の母親らしき人を迎えに来たらしく、到着がだいぶ遅れているので心配して俺に通訳代わりを頼んだと言う。
しばらくして60歳はいっていると思われる母親が来た。
Lakerも雪のためか出発が23時に遅れてしまった。
機内では4$の機内食。肉とご飯とグリーンピースの弁当にワイン、デザート、サラダ、コーヒー、クッキー、チーズが付いていた。
スチュワーデスの英語がはっきりと聞き取れるので気持ちいい。
美人のスチュワーデスはいないけど、一人愛嬌のいい子がいるので、彼女から機内食とコーヒーをもらった。
ロンドンに着くのは明朝、英国時間でLondon着は11時30分との機内放送があった。
つづき⇓