「ぼくとダンスをやりませんか」と目の前に立っているその男が言った、しわがれくぐもった声で親しみをこめながら。
いきなりそんなことを言われて戸惑った。
「おれはダンスはやりませんので、せっかくですが」ととりあえず気を悪くしないように答えた、できるだけ慇懃な口調で。
さらになれなれしくおれが言ったことは無視して、「熊吉と呼んでください」と言った。
「熊吉さんとやら、今も言ったようにおれはダンスなんかーー」
さえぎって言う。「やらないたって、今やってるじゃありませんか」
「なんですって」突拍子もない声を上げて見返した、熊吉という男。
意に介する様子もなく、真面目くさった様子で言う。「ぼくが言ったのは踊るダンスじゃなくて、会話のダンスなんですよ」
バカらしくなった、こんな男を相手にしているのが。「会話のダンスですか。そうならどうしておれなんですか。ほかに人はいくらでもいるじゃないですか」
あたりを見回したが、まばらな木立とその間に建っている人家だけ。誰もいなかった、熊吉という男とおれのほかには。
「あなたはぼくを見ても驚いたりうろたえることがなかったからです。大抵の人間は、ぼくを見ると震えあがって背を向けて逃げ出す。それを見ると、ぼくはその人間を追いかけて襲いかかりたくなるんです。先ほどのあなたのように平然として立っていたり、後ろ向きに逃げ出すか、あるいはその場にうずくまってじっとしていれば、ぼくは襲いかかる気はなくなり、逆にぼくのほうから逃げ出したくなるんですよ」それから微笑みかけてきた、嬉しそうに。「こうしてぼくが逃げ出さなかったのは、あなたと話がしたいと思ったからです」
あらためて熊吉という男を見た。
信じられなかった、先ほどこんな男が突然目の前の現れたとき、驚いたり恐怖に駆られることなく平然としていたことが。そのときは何かを一心に思いつめていて気づかなかったのかもしれない。
「でも、おれはあんたの話し相手にはなれませんよ」と言ってやった、突き放すように。
聞こえなかったのだろうか、おれが言ったことが。いきなり見せたいものがある、と言って下方を指さした。
驚いた。いつの間にか二人は上空に浮き上がっていた。周囲にはなにもなく足の踏み場さえなくて、そよ吹く風と夜闇、静寂に包まれながら空中に漂っているだけだ。それでも恐怖感は少しもなかった、不思議なことに。
熊吉という男が指した下界には大都会がひろがっていた。きらびやかなネオンが輝き、数珠つなぎの車が往来し、大勢の老若男女が行き交っていた。楽しそうな家族連れ、幸せそうなカップル、にぎやかに談笑する仲間たち。そんな人たちの生き生きとした表情が見え、弾んだ声が聞こえてくるようだった。
「みんな幸せそうだな」そんな言葉が口をついて出た。
「ホントにそうかな」ケケケと笑った、皮肉そうに。それから持っていたものを差し出した。「これをかけて見るんだな」
手渡されたのはメガネ。普通のメガネではない。不思議な形をした黒縁のフレーム。奇妙に膨らんだレンズ。
あれぇ、と思わず奇声を上げた。そのメガネをかけて見ると、一変していた先ぼどの大都会。家族連れやカップルなどの幸せそうな人たちは拭い去られたように消え失せて、その代わり揃いのフチなし帽子をかぶり、胸と背中に番号を付けたツナギの作業服を着て、重そうな荷物を両端に下げた天秤棒を担いだ男たちが、行列を作ってノロノロと歩いていた。通り過ぎていく行列を見張っているサングラスをかけ武装した監視兵。
「どうなってるんだ、先ほどの幸せそうな人たちは。どこへ行っちまったんだ、一体」とがなりたてた。熊吉という男に向かって。
「そのメガネはな、魔法のメガネなんだ」取り澄まし、自信たっぷりな様子で言った。「その魔法のメガネは、偽りのヴェールを取り払って真実の姿を映し出すんだ。先ほどあなたが見た幸せそうな人たちは、実際には今あなたが見ているように奴隷だということだ」
「奴隷だと?」バカなことを言うな、と怒声を浴びせて食ってかかりたくなった。
「信じられんだろうが、これが真実だから仕方がない」となだめるように言い、それから意味ありげにおれを見た。「あの人たちだけじゃない、みんな奴隷なんだ。つまり言ってみれば、あなた達は自ら作り出した幻影に閉じこめられ本来の自由を失い、目に見えない力に縛られて隷属されているってことだ」
大都会では奴隷のひとりが天秤棒の荷物の重さに耐えかねて行列からはみ出し、監視兵の前へよろめいていった。鞭をふるってその奴隷を叩きのめす監視兵。天秤棒を投げ出して行列から飛び出したもうひとりの奴隷、鞭を振るいつづける監視兵の腕を取り押さえようとした。そのとき鳴り響く銃声。倒れ伏すその奴隷。二度と立ち上がることはない。
「哀れな奴隷だな」そんな言葉を吐き捨てた。
(下)へ つづく