いま国会の予算審議において、学校法人「森友学園」へ国有地が格安で払い下げられた問題で、学園の理事長が自民党議員に口利きを依頼があったのではという疑惑が取りざたされている。

 

 また本質疑のなかで、学園の教育方針にまで言及し、政治的な思想教育であり教育上好ましくないと「教育勅語」の音読を批判しているが、キリスト教学校で聖書を読み、仏教学校で各宗派の教典を読むことが問題視されたと聞いたことがない。


教育基本法
第八条


私立学校の有する公の性質及び学校教育において果たす重要な役割にかんがみ、国及び地方公共団体は、その自主性を尊重しつつ、助成その他の適当な方法によって私立学校教育の振興に努めなければならない。


 とあり「森友学園」が私立学校である以上、この「神道」的宗教教育を否定することは出来ない。これが問題であるならば、朝鮮学校における金王朝崇拝教育こそ問題視し、補助金などの便宜供与を速やかに止めるべきだ。


 国会の予算審議の場において、まったく予算審議とはかけ離れた質問をする野党は、たんなる政争の具として「森友学園」を利用しているに過ぎず、根本的な問題点を逸脱し児童や保護者を無視した愚行でしかない。


 「教育勅語」を戦前の軍国主義の賜と批判する方々が多く見受けられるが、そもそも「教育勅語」とはなんぞや?をもう一度考えてみたい。


 16年ほど前に私が作成したHP(日本再生倶楽部)の教育問題にて、教育問題「教育こそ日本最大の資源である」に(1)教育勅語についてというコラムがある。それを下記に引用紹介したい。


※【日本再生倶楽部】より
http://www.nippon-saisei.com/


 教育勅語(教育に関する詔勅)は、井上毅(いのうえこわし)・元田永孚(もとだながざね)によって起草され、明治二十三年十月三十日発布されました。戦前・戦中と日本国民の精神的支柱となっていました。しかし昭和二十三年の国会決議により失効しました。最近の青少年による悪質な犯罪の増加など、教育勅語のような精神的な支柱を失ってしまった影響は大きいと言えます。ここで教育勅語について、もう一度原点に立ち返り考えてみたいと思います。


(a) 教育勅語とは


 教育勅語は内容的に見ると大きく三つの部分から構成されています。まず最初に我が国の建国の由来と歴史に顕れた国柄の美しい特色を述べ、これを教育の根源とすることを宣言した上で、「孝行」、「友愛」、「夫婦の和合」に始まり、「遵法」、「義勇奉公」に至る十二の徳目を掲げて、それを実践することの深い意味を明らかにし、最後に、この教えが祖先からの教訓であり、歴史的にも国際的にも正しい普遍的な道徳であるから、ともに努力して人格を磨くよう訴えて結んでいます。


 本論の徳目の中に、「国憲ヲ重シ国法ヲ遵ヒ」という一節があります。元田はこれを天皇の大権に制限を加えるものとして、草案から削除しようとした時、明治天皇は「いや、あれは必要だから残しておけ」と言われたと伝えられています。この事は前年に交付された明治憲法が標榜している、立憲君主制のありようを明治天皇自らお示しされたという意味で興味深い事です。結びのところで「朕爾臣民ト倶ニ拳拳服膺シテ」とあるように、天皇も国民と共に努力することが謳われています。つまり、一方的な命令ではありません。よく誤解をされることですが、君主から国民への一方通行的訓辞ではない点も見逃してはなりません。


(b) 教育勅語に対する評価


 日露戦争の開戦直前に元老伊藤博文の命を受け、あらかじめ戦争終結の斡旋 を工作するために米国へ派遣されていた金子堅太郎という人物がいます。金子 によれば、大方の予想に反して日本軍が連戦連勝するのを見て驚いた米国人に「日本の勝利は国民の教育が必ず然らしめるところであろう。日本の教育はど うなっているか、伺いたい」と質問されました。そこで金子は、軍人勅諭を挙げると共に、まず一般教育において教育勅語がその根底を成していることを指摘し、求めに応じて前もって翻訳しておいた教育勅語の英訳を披露したところ、 多くの米国人から称賛の声が寄せられたといいます。その後、明治四十年に英訳本が公にされ、次いで漢訳がなり、明治四十二年に至って仏訳・独訳が完成 し、在外公館を通じて世界各国に配布されました。明治四十一年にロンドンで開催された国際道徳会議においては、その要請に応じて菊地大麓が教育勅語について講演し、好評を博しました。このような事例は他にもあり、欧米の識者の中での教育勅語の評価は高かったと言います。


 また現代においても教育勅語を高く評価し、学校の教育理念としている人がいます。以外にもその人は台湾人で、東方工商専科学校を創立した許国雄氏であります。氏はことのほか日本文化を大切にし、「新世紀綜合大楼」というビルの十階に日本間を作りました。床の間には、伊勢神宮の神棚と「天照皇大神」の掛け軸があり、その向かいの壁には「教育勅語」が掲げられているとのことです。氏曰く「ここに掲げているのは、日本の教育勅語ですが、他に漢文、英語、フランス語、ドイツ語の教育勅語もあります。日本には教育勅語がないから、夫婦相和さず、離婚率が高いのです。朋友を信じないから『いじめ』が絶えないのです。『一旦緩急アレバ義勇公ニ奉シ』する精神が失われたから『陸軍記念日』も祝われず、国会で謝罪決議さえ行うのです。台湾には、大和魂があるから、選挙の時に中共から台湾沖にミサイルを三発撃ち込まれても、ビクともしませんでした。能登半島沖に北朝鮮からノドン一号が打ち込まれましたが、日本の反応はいかがでしたか?」我々日本人として考えさせられる言葉です。


 日本でも、三重県の私立皇學館高校が教育勅語を教育網領としています。


(c) 教育勅語を見直そう


 近年相次いでおこる青少年の犯罪や、凶悪非道な犯罪など、これまでには考えられない程現在の日本は荒廃しています。その大きな原因の一つとして精神的支柱を失ったからである、と指摘する識者は多く、その精神的支柱であったのが教育勅語だと言われています。教育勅語を口にするとあたかも危険思想の持主と思われてしまいますが。しかし過去において欧米諸国から称賛を浴びた教育勅語を、日本の過去の不幸な時代の恥ずべきものと勘違いをしているのではないでしょうか。もっとも我々を含めた現在の日本人で、教育勅語を知ってい る人、その内容を理解している人はほとんどいないのではないでしょうか。


 日本に統治されていた台湾において教育勅語が見直され、本家である日本においては見向きもされないこの現状は、日本国民として恥ずべき事ではないでしょうか。大和魂や教育勅語のすばらしさを、他国の先生から教授されるとは先人達に対して冒涜以外の何ものでもないと思います。世界各国から称賛され、今も台湾の方々の精神的支柱となっている『教育勅語』を、今一度先入観を取り除き熟読してみてはいかがでしょうか。今我々日本人に本当に必要なことが再発見できるはずであると思います。

 アパグループ元谷外志雄代表が藤誠志のペンネームで執筆した、「本当の日本の歴史 理論近現代史学」が、アパホテルの客室に置かれていた事に対し、支那が「歴史の修正主義」とか「極右思想」などと言いがかりを付けている。


 この書籍には「南京大虐殺の」否定や「通州事件」の陰謀説などが説かれている。今回の騒動に限らず、「南京大虐殺」「通州事件」をめぐる歴史問題は、終わりなき支那との軋轢を生んできた。


 これはまさしく「歴史戦」という戦争であって、歴史認識問題や領土問題に関する歴史的主張について、支那や韓国のプロパガンダに日本も対抗しなければならない時代になっている。


 本日配布されたメルマガ「台湾の声」編集長 林 建良氏の投稿文を、下記に全文転記させて頂く。もう一度、しっかりと歴史の真実を見つめ直し、捏造された既成事実には「No!」の声を挙げたい。


南京事件の真実を発信しよう


中国は歴史戦を発動し、日本の民間企業を攻撃している。この機会で是非世界に向けて南京事件の事実を発信しよう。


「台湾の声」編集長 林 建良(りん けんりょう)

 

Nanking Massacre in http://www.sdh-fact.com/
(英文サイト)


南京事件関係主な文献/日本語サイト http://hassin.org


「史実を世界に発信する会」


<Book>


・Analyzing The ‘Photographic Evidence’ of The Nanking Massacre

http://www.sdh-fact.com/CL02_1/26_S4.pdf


南京事件「証拠写真」を検証する(東中野修道他)


・Top-secret Chinese Nationalist Documents Reveal the Truth about the Nanking Incident

http://www.sdh-fact.com/CL02_1/27_S4.pdf


南京事件 国民党極秘文書から読み解く(東中野修道)


・The Nanking Hoax: A Historian Analyzes the Events of 1937 By Ara Ken’ichi

http://www.sdh-fact.com/CL02_1/67_S4.pdf


南京で本当は何が起こったのか(阿羅健一)


・There was a Battle of Nanking but no “Nanking Massacre”

http://www.sdh-fact.com/CL02_1/112_S4.pdf


南京戦はあったが「南京虐殺」は無かった(南京の真実 国民運動)

http://hassin.org/01/wp-content/uploads/Nanking2.pdf


・THE NANKING MASSACRE: Fact Versus Fiction By HIGASHINAKANO Shudo

http://www.sdh-fact.com/book-article/110/


南京事件の徹底研究(東中野修道)


・What Really Happened in Nanking: The Refutation of a Common Myth by Tanaka Masaaki

http://www.sdh-fact.com/CL02_1/7_S4.pdf


虐殺否定15の論拠(田中正明)


<Article>


・No American witnessed the Nanjing Massacre  By Matsumura Toshio

http://www.sdh-fact.com/CL02_1/85_S4.pdf


アメリカ人の「南京虐殺の目撃証人」は一人もいなかった (松村俊夫)

http://hassin.org/01/wp-content/uploads/NO-AMERICAN-J.pdf


・WHY PRC PRESIDENT CANNOT RESPOND TO OPEN QUESTIONS CONCERNING NANKING “MASSACRE” by Moteki Hiromichi

http://www.sdh-fact.com/CL02_1/62_S4.pdf


なぜ胡錦濤主席は南京虐殺に関する公開質問状にこたえられないのか(茂木弘道)

http://hassin.org/01/wp-content/uploads/WHY-PRC-PRESIDENT.pdf


・OBSERVATIONS ON THE FILM JOHN RABE by Moteki Hiromichi

http://www.sdh-fact.com/CL02_1/61_S4.pdf


 映画「ジョン・ラーベ」の正体(茂木弘道)

http://hassin.org/01/wp-content/uploads/JOHN-RABE.pdf


<Opinion>


・OPEN QUESTIONS FOR HIS EXCELLENCY HU JINTAO,
PRESIDENT OF THE PEOPLE’S REPUBLIC OF CHINA


 胡錦濤主席への公開質問状

(日本語)  http://hassin.org/01/wp-content/uploads/19_S1.pdf


(英語)  http://www.sdh-fact.com/CL02_3/17_S1.pdf


(中文)  http://www.sdh-fact.com/CL02_3/18_S1.pdf


・Open Question to Mike Honda, Member of House of Representative
http://www.sdh-fact.com/CL02_3/6_S1.pdf


 マイク・ホンダ議員への公開質問状
http://hassin.org/01/wp-content/uploads/Mike-Honda.pdf

 

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『台湾の声』 http://www.emaga.com/info/3407.html


解除するには下記URLにアクセスして下さい。
http://www.emaga.com/tool/automail.cgi?code=3407&mail=shouichi@js9.so-net.ne.jp&e=1

 

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 奉祝、本日12月23日は「天長節」今上天皇陛下ご生誕の日である。この12月23日という日は、別な意味で私たち日本人が忘れてはならない日だと思う。


 今から13年ほど前にHPに記した「12月23日とは」というコラムを、下記に加除修正しご紹介をさせて頂く。


■ 12月23日とは。
  Date : 2003/12/23 (Tue)


 本日は天皇の誕生日を祝う国民の祝日である。1933(昭和8)年、皇太子継宮明仁親王(今上天皇)が御誕生された日である。


 しかし、12月23日という日付には、まったく違う意味もある。一般的にはあまり知られていないことであるが、68年前のこの日、連合国による東京裁判で死刑判決を受けた東条英機、広田弘毅ら7人のA級戦犯が処刑された日でもある。


 当時の国際法を完全に無視し大量殺戮兵器を用い、無差別虐殺を行うことによって得られた勝利を大東亜戦争において収めた、アメリカを中心とした連合国による日本への復讐劇、これが東京裁判である。戦争犯罪とも言える行為によって得た勝利に基づいて、敗者を戦争犯罪者として事後法により裁くという、人間としての誇りをかなぐり捨てた裁判によって裁かれたのである。


 このような東京裁判によって犯罪者とされ、昭和23年12月23日未明に処刑された7人は火葬に付された。彼らの遺骨は、GHQの目を掠めて採取された。この状況については、塩田道夫氏が詳しく書かれているので下記に引用したい。


<<天皇と東条英機の苦悩>>


〈塩田道夫著:三笠書房刊:知的生き方文庫〉より


  全部の遺体が焼けたのは、一時間半ほど経ってからだった。窯の扉が火夫によって開けられ、長い鉄のカキ棒で白骨が取り出されると、火葬場長の飛田は、七人の遺骨の一部を七つの骨壷に入れて他の場所に隠した。


ところが、この隠した骨壷は、誰かがA級戦犯を憐れんだのか、線香を供えたために、香り煙のために監視の米兵に見つかってしまった。このため骨壷は米兵の手もとへ移った。米兵は、鉄製の鉢の中へ遺骨を入れると、鉄棒のような物で上から突いて、骨を細かく砕きはじめた。それはまさに死者にムチを振る惨い行為であった。


 米軍がA級戦犯の骨を砕いて、空から東京湾へ撒くという噂があった。それは日本人が英雄崇拝の対象になるのを恐れて海にばら撒くというのである。遺骨を隠すことに失敗した飛田は、内心穏やかでないあせりがあった。


 骨を砕き終えた米兵は、黒い箱を七つ出して、砕いた骨を入れた。そして箱の上に1から7までの番号を書き入れた。この遺骨の入った箱は、A級戦犯の遺体を巣鴨から運んでんきた米兵が持ち去った。台の上に灰と一緒に残っていた小さな骨は、米兵の監視つきで火葬場にある共同骨捨て場に捨てるように命じられたのである。


 A級戦犯の遺骨を奪う計画は。小磯国昭大将の弁護人だった三文字正平によって進められていた。三文字弁護士は、米人弁護士のブルウェットに相談し、彼を通じてGHQに処刑されたA級戦犯の遺骨を遺族たちに渡せるように嘆願していたのである。ところが、マ元帥は一向に首を振らなかったため実現はしなかった。

 

 そこで三文字弁護士は、巣鴨プリズンにおいて処刑されたA級戦犯が、久保山で火葬されることを探りあてた。三文字は火葬場のすぐ上にある興禅寺を訪ねて住職の市川伊雄と会った。市川住職は東京裁判にも傍聴に行き、裁判の不公平さに怒りを抱く一人であった。三文字弁護士が市川住職に協力を求める説明にも熱が入った。


 このA級戦犯の遺骨が米軍の手から戻されないと、国民が不公平だった東京裁判の結果を認めたことになる。彼らの命令で戦場に駆り出された三百万の英霊さえ、辱めを受けて浮かばれなくなる。市川住職も日本人として耐えがたいことだったので、三文字に協力することを引き受けた。市川住職は、火葬場長の飛田を三文字に紹介したのである。

 

 久保山火葬場の内部に働く人の協力で、はじめはA級戦犯の遺骨を分けて隠すことができたのが、米兵の監視に見つかり失敗した。今度は、火葬場の共同骨捨て場に捨てられているA級戦犯の骨を持ち出さなくてはならない。次の新しい骨が捨てられるまでは、一応、少しは他の骨も混ざってしまったとはいえ、七人の遺骨は残っている。


 これを盗み出すのは十二月二十五日の夜と決めた。米軍の監視がクリスマスで気がゆるんでいる隙に実行しようというのである。暗くなり、頃合を見計らって、三文字弁護士と市川住職は勝手知ったる飛田火葬場長の案内で火葬場の骨捨て場に忍び込んだ。


 三人は米軍の監視に見つからぬように、闇夜の中で外套を頭からかぶり、身をかがめながら作業を始めた。三人は暗がりの中で音を立てないように、根気よく手探りで遺骨を探し集めた。七人の遺骨は全体の一部でありながら、大きな骨壷に一杯分を集めることができた。


 火葬場から盗み取ってきた遺骨は、湿気をとるために再度焼かれた。遺骨のことが世間に漏れては米軍の咎めを受けることになる。そこで三文字の甥で、上海の戦線で戦死した三文字正輔の名前を骨壷に書いた。これを興禅寺に預けて供養することになったのが、A級戦犯として処刑された七名の秘められた供養であった。


<以上引用終了>


 上記を読んでみても、如何に東京裁判が復讐劇であったか理解できる。またさらに復讐の意図を如実に示す証拠とも言える行為もある。敗戦の年の昭和20年(1945年)12月8日の真珠湾攻撃の記念日を選んで、当時東京の大森にあった収容所からA級戦犯を巣鴨プリズンに移送し、昭和21年(1946年)4月29日の昭和天皇誕生日に被告たちを起訴ししたのである。


  これ以外にも、敗戦時に東京湾の戦艦ミズーリ艦上でおこなわれた降伏文書の署名式典には、嘉永六年(1853年)にペリー率いる東インド艦隊来航の際に、旗艦に掲げた星条旗をわざわざ米国アナポリスの海軍兵学校から空輸して式場に掲示した。これは徳川幕府がペリー艦隊の四隻の黒船による、武力行使による威嚇に屈服し開港に応じたため、ペリーがなしえなかった日本征服の夢をその92年後に祝う為であった。


連合国側の犯した数多くの戦争犯罪は、その後まったく裁かれずに現在に至っているが、これこそが彼等の唱える「正義と文明」なのである。


 私はここで米国の欺瞞行為について、言及するつもりはない。ただ過去の事実として我々が知っておかなければならない事を、また、戦争という外交行為においての戦後処理をどのようにすべきなのかを問いたい。