リニアを7年止めた男 | 1971年からの地図

1971年からの地図

見たもの聞いたもの感じたものについて、とりあえずざっくりと説明するブログです。守備範囲はやや広め。

昔から京都のボンボンは同志社大学に行くものと相場が決まっている。京都大学というセンもあるにはあるが、余程の出来で将来学者になる見込みのある次男坊でもなければ必然的にに同志社を選択することになる。


それは少なくとも阿保ボンではないという洛中社会での証明になるのと同時に、同じような経緯で集まってくる京都のボンボン同士とのコネクションを在学中に作っておくというのが主目的だったりする。


なので、京都のボンボンが早稲田に行くというのはかなりの異端なのだ。京都の老舗旦那衆からすると役人になるために東大に行くならともかく、何しにあんな田舎者の集まる田舎の学校(!)に行くのだ、という感覚になるのだ。嘘のようでまあリアルな話だ。


早稲田の政経と言えば大手銀行か五大商社かというのは昔も変わらないのだが、そんな中親のスネをかじりながら院まで進みオックスフォードで博士号をとるという経歴を選択する。ちなみにオックスフォードにはカレッジというシステムがあって、学生は学部とともにどこのカレッジに所属するのかというのがとても重要視される。要はそのカレッジが古ければ古いほど格が高いとされるのだけれども、彼が通っていたのは当時設立して10年程度の新しいカレッジだ。ちなみに雅子様がオックスフォード留学していた時に所属していたカレッジは設立700年以上のカレッジになるのだが、別格というか何というかまあオックスフォードにもいろいろあるんだぜという話だ。


まあ、とにかく東大京大でなく早稲田政経程度の学者でそういう経歴をとるのは稀なのだろう。帰国後は早稲田に残り助手、助教授を経て教授となる、ちなみにここまで社会人経験なしで、だ。


教授時代の評判はあまり良くはなかったそうだ。といっても学生の評判というのは単位をくれやすいかそうでないかのかが基準となるので学者としてどうだかは分からない。ただ、大学に行った経験のある人であれば単位をくれにくい教授ってのがどんな感じだったのかというのは大体想像がつくだろう。まあ、そんな感じの大学教授だったという事だ。


そんな感じの大学教授がやがて一見華麗な経歴をもって地方公立大学の学長となり、そのツテで政治家に転身、まだ化の皮が剥がれる前の民主党、社民党の支持を得た結果、自公推薦の対立候補を破り静岡県知事に当選、そして3期15年を経て今に至るという訳だ。



その後の知事としての手腕、業績は静岡の人の方が詳しいだろう。なのでその辺りを語るのは止めにしておく。実際知らんし。


ただ他府県から見れば、これから先の日本史的俯瞰でみれば、あの手この手でゴネてゴネてリニア開通を7年遅らせた男というのがどの程度の人物であったかというのは、辞任に至るまでの問題発言といい、ガラシャの辞世の句といい、まさかのリニア推進派発言といい、この経歴からみて何かこう浮かび上がってくるものが見えてはこないだろうか。


ちなみに私は「人が置くべき矜持の座標がズレた只の阿保ボン」という評価をしているのだが。