その頃、(もう20年以上前)山梨県の白州では田中泯さんが

 
身体気象農場というところをやっていて、
 
私が合宿に参加した時は少し離れた韮崎というところに、新たに舞踊資源研究所
 
というところを作ってそちらで暮らしていた。
 
若い見習いの人が何人か一緒に住んでいて、
 
年に2回、全世界から参加者を募りワークショップの合宿を開催していた。
 
ワークショップの参加者は、十数名のうちほとんどが海外からの参加者で、うち日本人は高校生の私ともう一人の東京から来た若い女性だけだった。
 
そう、舞踏は日本では本当にマイナーで、むしろ海外のヨーロッパでの方が、BUTOHとしてジャンルが確立されており有名だった。
 
日本に学びに来たいというダンサーはたくさんいて、
たしかこのワークショップも、事前のビデオ審査かなにかがあっての、通過してきた人だけが参加できるというものだったと思う。
 
私はそんなもの出したかどうか、もう記憶がない。たぶん出さなかったと思う、何の実績もないただの高校生だったから。
 
ちなみに田中泯さんは、舞踏の創始者の土方巽を師と仰いでいるため舞踏家と呼ばれてしまうが、
舞踏家と呼ばれることを嫌い、「私は農民です。」「私は地を這う前衛ですー」と語っている。
 
踊りの為に都会で働き消耗するくらいなら、と山梨県に仲間と移住し、農作業で体を作り自給自足の生活をしながら踊りの稽古をしていた。
 
ワークショップ合宿でも、踊りの稽古の合間は、ずっと農作業だった。
 
農作業といっても、冬は野菜はほとんどないので、リンゴ畑の林檎の木の剪定や、雪かき、薪拾いが主だった。(夏に行ったこともあるが、夏は野菜や養鶏などやることがたくさんあった)
 
農作業そのものも、身体の感覚の幅をとても拡げてくれたし、農作業と言わず農事、と呼んでいたが、農事はそれ自体がもう、踊りが産まれるきっかけ、母体でもあった。
 
 
 
ワークショップ合宿では、
 
先に書いた堀川さんの佐渡でのワークショップ同様、色々なことをした。
 
農業用のグラスハウスの中でトレーニングをしたり、
野山に出かけていったり、
身体の感覚を開いていくこと、
身体を細かく細かく分けて部分的に使うこと
頭から爪先まで、意識を向けない部分がないようにくまなく触ってみたり、
イメージを正確に(強烈に)身体に伝えること
本物であること
その動きは、嘘でないことーそれを見る、などなど。
 
私はまだそれほど鍛錬した人間ではなかったが、
ここに参加するほぼ全てのダンサーが、すでに何かしらの舞台に立っている役者だったりダンサーだった。
 
バレエなどのとにかく型を大切にする踊りを長年やってきていたりすると、動く時に条件反射的にバレエ的な動きが染み付いてしまってそのようにしか動けなくなってしまっていたり、するということが多々あった。
 
個人の癖、が出てくることも。
こういう時は、こうだろう、という思い込みも。
 
そういうふうに動いた時は、泯さんは「つまらない、空の雲を見ていた方がまだマシ」と言っていた。
 
そういうのを、細かく細かく、緻密に、分けていって、「ほんとうに」踊るからだを見つける、
(たぶん、見つける、という言い方が一番近いかも)という作業の繰り返しだった。
 
言葉のイメージを体にどんどんいれていくということもやった。
 
ここではよく「(身体の)可能性ーや、速度」というような言葉を、聞いた。
 
 
その時私は意味がわかっていたのかも、よくわからない。何をやっているんだろう?と
よくわからないまま、参加していた部分も大きい。
 
ただただ気持ちが良かったり、
それがなんなのか、という事よりも
その時の感覚を、感じる
 
ということの連続。
 
ただ、今思えばあんなに幸せな時間は、なかったと思う。
 
とにかく、全てのワークショップは英語でおこなわれた。
 
生活も、ルームメイトがイタリア人とベルギー人になり、やはり英語だった。
 
この、英語を喋る、ということも、なかなか(身体のために)良かった。
 
英語で話すと、自分から少し離れて客観的になれる。それがよかった。
 
 
白州にある暮らしはほとんど全てが私の理想的な生活そのものだった。
 
農作業ができて、英語が喋れて、踊りができる。
 
こんな、最高の場所はない、と。
 
合宿が終わってからもしばらく農事をしながら留まった。
他の参加者もさんさんごごに、各自の国へ帰国して行った。
 
 
ただ、やはり私も少しして、山を降りることを、決めるのだった。
 
「山を、降りて、なにがある?」とも思ったが、
私はあまりにも世間を何も知らなさすぎる。
みんなは何かしらの社会生活やダンサーとしてのキャリアを経た上でここに学びに来ているが、私はただの、高校生。
 
このままここにいたら、まったく世間一般の常識もなにも知らないまま、大人になってしまう。
 
それに、すごすぎる人の前にいると、きっと私はこの人の頭で考えるようになる。
 
自分で何も考えられなくなってしまいそうで怖い。
 
社会を経験、しよう。
 
それからまた来ても、遅くはないかもしれない。
 
そんなことを、思ったと思う。
 
 
そこまでちゃんと言葉にして考えたかどうか、わからないけど、そのままそこにいるのはなんか違う、飲み込まれてしまいそうで怖い。という直感みたいなものがあったと思う。
 
 
高校の卒業式に合わせて、私は山梨をあとにした。
 
同級生は皆、進学のために猛烈に勉強していた。
 
もうあまりに別世界、異次元すぎて、誰とも話せなくなっていた。
 
 
以下は、この記事が読まれていることに関して1年後に書いた記事です。